第7話 救護院での生活

 ある日、一人の老人が、救護院にやってきた。 

 服を脱いだその老人の全身はただれ、ところどころ膿と粘液がぐじゅぐじゅと流れ出ていた。直視するのがためらわれるほどの凄惨な光景だった。それに、息もできないほどの強烈な、膿の腐ったような臭気が部屋中に充満し鼻をついた。

 それでも先輩シスターは、まったく動じることもなく、その老人の体を丁寧に拭いていく。私は正直ためらった。

「汚くなんかないわ」

 そんな私を見た先輩シスターが、なぜこの状況でそんな笑顔ができるのか不思議なほどのにこやかさで言った。

「・・・」

 私は勇気を振り絞って、タオルを手に取ると、恐る恐るその老人の体を拭き始めた。ゆっくりゆっくりと、背中からお尻、足と全身を丁寧に拭いていく。

 正直辛かった。頭ではやらなければと思っていても、体が拒否をしているのが分かった。毛穴が逆立ち、おぞましさが体の芯を這う。体が硬直し、吐き気を感じた。それでも、私は、それに耐え、一生懸命その老人の体を拭いた。

「うううっ、うううっ」

 その時、何か獣の鳴き声のようなものが聞こえた。

「なんだ?」

 それは、泣き声だった。それは老人の泣き声だった。みんなに体を拭いてもらっている老人が嗚咽を漏らし、泣いていた。

「おじいさん・・」

「誰もわしに触れたがらない。家族の者でもじゃ。わしはこの病気になってからずっと、小さなあばら家に捨て置かれていた。そしてとうとう、ここに捨てられた」

 老人は呻くように言った。

「・・・」

 私はそれを、おじいさんの体を拭きながら、黙って聞いていた。

 次の日、着ている物からその姿から、すべてがボロボロの顔の焼けただれた恐ろしいほど醜いおばあさんがやってきた。服を脱ぐとおばあさんの肌は全身やけどの痕でケロイド状態になっていた。顔も醜く変形し髪の毛もほとんどが無くなっていた。私は、先輩シスターに言われた通り、まだ痛むというおばあさんの全身に広がるやけどの痕に薬を塗って全身をマッサージしていく。

「ありがとう。ありがとう」

 おばあさんは、涙を目に溜め、しきりにお礼を言った。

「ありがとう。ありがとう」

 おばあさんは私に手を合わせ、拝み始めた。

「あんたはほんに神さまじゃ。誰も私の体に触りたがらん。気持ち悪いちゅうて誰も触りたがらん」

 おばあさんはそう言って、おばあさんの体に薬を塗る私に手を合わせ拝み続けた。

「神さまって言われちゃった」

 いつものように木の下で本を読んでいたシヴァの隣りに座って、私はほわほわと流れていく大きな雲を眺めていた。

「メグは尊いことをしたのよ」

 シヴァが顔を上げて私を見て言った。

「うん」

「誰にでもできることじゃないわ」

「うん」

 私はなんだか最近、自分が自分じゃないような気がしていた。なんだかあの私たちの頭の上を流れていく雲のように実態のないほわほわとした存在になっていた。

「なんだか不思議な気持ち」

 シヴァが私を見る。

「今までこんな感じなかった」

 でも、その感じは悪くなかった。私は思わず一人微笑む。隣りのシヴァが、そんな私を見て、同じくやさしく微笑んだ。

 それから毎日のように汚れ、ただれ、奇形、醜形、障害、そんな人や病人や老人が、救護院にやって来た。

 しかし、そんな日々、私は少しずつではあるが、そんな人たちにも慣れていった。しかも、不思議とそんな人たちのお世話をしていると、自分の方がなんだか癒されているような気がした。


 次の日、私は買い物を頼まれ市場まで歩いた。市場は相変わらず人、人、人でごった返し一寸先も見えない状態だった。あまりに人の密度が濃過ぎて一歩先に進むのにも骨が折れた。

「・・・」

 しかし、地元の人たちは、そんな中をすいすい歩いていく。

「なぜそれができる・・」

 やはり、インド人はなんかすごい。

 私が市場を歩いていると、真っ白いサリーを着る私に、拝むように手を合わせて、深々と頭を下げてくる人に何人も出会った。私はまた何とも不思議な感覚になる。

「私が拝まれている・・」

 なんだか信じられなかった。ちょっと前まで、私は何の変哲もない普通の日本の女子高生だった。人から拝まれるなんて、あり得ない話だった。

「疲れた」

 何とか目的の物を手に入れ、特に何をしたわけでもないのに、妙に疲れたその帰り道。ちょっと遠回りしてガンジス河の河べりを歩いていると、浮浪者のような小汚い痩せた老人が河の流れを一人ポツンと眺めているのが見えた。

「なんだ?」

 私はなんか気になりその方に行ってみた。

「おじいさん、何をしているの?」

 そして、私は妙に気になりそのおじいさんに声を掛けた。

「わしか」

 おじいさんが振り返る。

「うん」

「わしは」

「うん」

「わしは死に場所を探しているんじゃ」

「死に場所?」

「そうじゃ、わしはもうすぐ死ぬ。だからその死に場所を探しておる」

「めちゃくちゃ元気そうに見えるけど」

 肌の色つやもいい。

「いや、わしはもうすぐ死ぬ」

「家族はいないの」

「おるよ」

「いるの」

 意外な答えに私は驚く。

「おる。じゃが置いてきた」

「置いてきた」

 私はさらに驚く。

「そうじゃ。わしは死ぬからな」

「でも、帰った方が・・」

「いや、帰らん」

「じゃあ、救護院に来ませんか。医療も受けられますし」

「わしは誰にも頼らん。一人で死んでいくんじゃ」

「でも・・」

「わしは一人で死にたいんじゃ」

「はあ・・」

 なかなか頑固なじいさんだった。


「インドではそういう人がいるのよ」

 いつもの木の下で昨日のおじいさんの話をすると、シヴァは少し笑いながら言った。

「そうなの?」

「インドでは昔から死期を悟った人は、死に場所を求めて旅に出るの。最近は減ってはいるけど、まだまだそういう人はいるのよ」

「そうなんだ。でも、あのおじいさんめちゃくちゃ元気そうだったけど」

「ふふふっ、ちょっと早過ぎたのかな」

「日本じゃありえないな」

「日本の人はどうやって死ぬの」

「大抵は病院かな」

「インドでは今でも、野垂れ死ぬ人がたくさんいるわ」

「ふ~ん、日本で野垂れ死にしてる人なんか見たことないな。インドは懐が深いのかな」

「大らかなのね。よい方に解釈すれば」

 そう言ってシヴァは笑った。

「やっぱインドはすごいわ」

 私はあらためて感心した。

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