第5話 救護院

 とりあえず盗まれた物を買うために、まだダメージの残る体でふらふらと町の市場に向かった。カノン家のカレーの破壊力は相当だった。まだ内臓全体が痺れている感覚があり、意識もどこかもうろうとしていた。

 やっとのことで辿り着いた市場は、大量の人と埃でむせ返っていた。

「どこだぁ」

 群衆の頭の上に、弱った体でひょこひょこ顔を出すのだが、人が多く、市場は広大でどこに何が売っているのかまったく分からなかった。

「どこだぁ」

 とにかく人が多い。

「まあ、仕方ない・・」

 私はとりあえず、彷徨うように市場内を歩き出した。

「あれっ」

 そんな時、その猥雑で埃とすえた匂いの入り混じる無秩序な市場の雑踏の中を、真っ白な布をまとった白人女性が二人颯爽と歩いて行くのが見えた。その二人には、この猥雑で汚れた場所とは異質などこか不思議な気品が滲んでいた。まったくこの場の汚れた無秩序な雰囲気からはかけ離れ、浮きたつように、清楚で美しく輝いていた。

「あの人たちはいったい・・」

 私はなぜか買い物も忘れ、何かに引き寄せられるように、ふらっとその二人の後についていってしまった。

 二人は市場の喧騒から抜け、町からも離れ、町はずれのスラムのような貧しい地域に入っていった。そして、その地域の中央辺りに建つ、白い大きな建物の中に入って行った。

「希望の家?」

 二人の入っていった建物の入り口を見上げると、そう書かれていた。

 その場に立ち、その建物の入り口を見つめていると、その建物の中に、身なりのみすぼらしい貧しいと思われる人たちが吸い込まれるようにぞろぞろと入っていく。

「はいっ、あなたも入って」

「えっ?」

 ぼけっとそんな光景を眺めていた私の背中を、急に押す人がいた。振り向くと、さっきの人たちと同じ白いサリーをまとった恰幅のよい年配の白人女性がにこやかに立っていた。

「いえ、あの」

「遠慮はいらないわ。ここはお金はいらないのよ」

「いや、あの」

「どこか悪いんでしょ。とても顔色が悪いわ」

 実際、おなかを壊し、顔色も悪くフラフラで、身なりも汚く荷物も何も持たない私は、助けが必要な人間に見えたのだろう。

「あの、ここは病院なんですか?」

「そうよ。病院でもあるし、福祉施設でもあるし、孤児院でもある。食事もあるし、泊まるところもあるのよ。治療も受けられる。さっ、安心して入って」

「は、はい」

 私はその人に促されるままその建物に入って行った。

 建物に入ると部屋の一つに導かれ、そこでベッドを一つあてがわれ横になった。

「しばらくここにいるといいわ」

 私を連れてきてくれた女性がやさしく言った。周囲を見回すと、他のベッドにも私と同じように病人が何人も寝ていた。

「さっ、これを飲んで。おなかを壊した人にはこれが一番」

 さっきの女性が来て、薬を差し出す。私は差し出された薬を飲むと、すぐに睡魔が襲ってきた。

「ゆっくり眠るといいわ」

 そう言って、白衣の女性は去って行った。

 薬が効いたのだろうか、起きると体は軽くなっていて、気分もよくなっていた。そこへ再びあの女性がやってきた。

「どう気分は」

「とてもよくなった感じです」

「そうよかったわ」

「あのここは・・・」

「ここは貧しい人たちのための救護院よ」

「救護院・・」

「だからお金もいらないし、必要ならいつまでいてもいいのよ」

 女性はやさしく言った。

「あの、私にも何か手伝わせて下さい」

 私は思わず言っていた。何か考えがあるわけではなかった。

「もちろん、いいわよ」

 女性は特別驚いた様子もなく、にこやかにそう言った。

「でも、もう少し、寝ていた方がいいわ」

「はい」

 そう言って、女性はやさしく私の毛布を掛けなおしてくれた。

 次の日、かなり体調が回復していた私は、散歩がてら敷地内を散策してみようと外へ出た。施設のある敷地は思ったよりもかなり広く、ちょっとした森のような広さがあった。敷地の中には無数の建物や施設があり、たくさんの人が生活しているようだった。この敷地全体が小さな村のようになっているらしい。

 敷地の中央部分に出ると、ところどころに大きな木が生えた芝生の広がる広場になっていて、あちらこちらで人々がそれぞれにくつろいでいた。

「へぇ~、敷地の中にこんなところがあるんだ」

 私もその中をゆっくりと散歩し、心地よい雰囲気を楽しんだ。そこかしこから聞こえる小鳥のさえずりと、サンサンと降り注ぐ太陽がとても気持ちよかった。

 そのまま散歩していると、広場の大きな木の下の一つに、三つ編みを二本両肩に大きく垂らした、十三歳か四歳くらいの一人のインド人の少女が座っているのが見えた。少女は静かに本を読んでいた。私はなぜかその少女の姿にどこか穏やかな美しさを感じた。

「こんにちは」

 私はその少女に声をかけた。

「こんにちは」

 少女は笑顔でやさしくあいさつを返してくれた。

「お見舞いか何か?」

 私は訊ねた。

「ううん」

 少女は首を横に振る。

「私は病気なの」

「そうなの。そんな風には見えないわ」

「私はエイズなのよ」

 少女が言った。

「えっ」

 私は驚く。

「そう、見えないでしょ」

「うん」

「でも、エイズなの」

 少女は笑った。私は少女のその明るさに少し戸惑った。

「でも、薬を飲んでいるから大丈夫なのよ。発症はしないの」

 そんな私の心を見透かしたのか少女が笑顔で言った。

「座ってもいい?」

「どうぞ」

 私は少女の隣りに少女と同じように膝を抱えて座った。

「私はシヴァ」

「私はメグ、シヴァはここで暮らしているの?」

「そうよ。ここが私の家。インドではエイズに対してとても偏見や差別が激しいの。だから外の世界では生きていくのがとても難しい。だから、実家を出て、ここで同じエイズ仲間と助け合って生活しているのよ」

「そうだったの」

「それに私はダリットなの」

「ダリット?」

「カーストの最下層のさらにその下の人々のことよ。外国の人には分からないでしょうね。私たちがどんな立場かなんて」

「うん・・」

 私はなんて答えていいのか分からなかった。

「すべてが闘いなの。普通の人が当たり前にあるものが私たちにはないの」

「・・・」

 私には想像もできない世界の話なのだろう。

「ここでシスターたちのお手伝いもするんだけど、ここでもエイズがうつるとか、ダリットだとか言われることもあるわ」

 そこでシヴァは少し悲しそうな表情になった。

「そう・・」

 私なんかのつたない人生経験をはるかに超えたところにシヴァは生きているのだと思った。

「ところでメグはなんでここに?」

「え?」

 なんだかおなかを壊しただけでここにいる自分が恥ずかしかった。

「う、うん、ここのお手伝いでもできたらなと思って」

「そうなの。すてきなことだわ」

「ありがとう」

「ここは本当に素晴らしいところよ。この救護院が出来るまでは、貧しい人たちは道端で野垂れ死ぬしかなかった。貧困と差別でなんの希望も持てなかった。私だってそうよ。ここがなかったらきっと、薬も飲めずにエイズで死んでいたわ」

「そうだったのか」

 私はあらためて救護院の敷地を見回す。ここはきれいで、人々の笑顔がある。

「私はだいたいいつもここにいるの。また会えたらうれしいわ」

 シヴァは笑顔で言った。

「うん、きっとまたここに来るわ」

 シヴァと別れ、私はまた散策を開始した。

「神さまの家?」

 敷地の奥の方にある巨大な壁のように木の林立している場所を抜けると、周囲とは少し違った雰囲気の建物があり、その入り口にそう書かれていた。私はその建物の中が気になり、入って行った。

「うわっ」

 扉を開けるとそこには凄まじい光景が広がっていた。床は糞尿まみれで、匂いも凄まじく、陰気な空気が充満していた。しかも、それはただの糞尿の匂いではない。それは死の匂いだった。

 広い室内にはたくさんのベッドがあり、たくさんの痩せ衰え、ミイラのように生気の無くなった患者たちが横たわっていた。その中で、やはりあの白いサリーをまとったシスターたちが献身的に働いていた。

「ここは死を待つ人々が入るところよ」

 背後から入って来た一人のシスターが茫然とする私に語りかけるように言った。そのシスターは、それだけ言うと、そのまま他のシスターたちと同じように、ベッドに横たわる患者たちの世話に加わった。

 たくさんの患者から放たれる死臭に、垂れ流される汚物、目もそむけたくなるような患者たちの病魔に侵された醜い体。しかし、同じ空間にいるだけでも辛いこの状況で、シスターたちはそこでニコニコと晴れた日に気分よく趣味で庭仕事でもしているみたいに、糞尿を掃除し、死臭漂う患者たちを一人一人丁寧に看護していく。しかも、糞尿の上を裸足で平気で作業している。そこには悲壮感もやらされている感も、苦行のような厳しさも、そういった一切の雰囲気が微塵もなかった。そこにはむしろ崇高な光り輝く美しさがあった。

「・・・」

 私は放心したように、そんな光景をしばらく黙って見つめていた。

「彼女たちは、ここで一生を神に捧げるのです」

 背後からの突然の声に振り返ると、シスターたちと同じ白人の、見上げるような巨漢の紳士が立っていた。

「彼女たちは結婚もしません。親兄弟とももう二度と会えません。故郷に返る事もありません。すべてをここで献身するのです。もちろんお給料だって出ません」

「・・・」

 私はその紳士と、改めて献身的に看護するシスターたちを見つめた。

「こちらへどうぞ」

 紳士は私を導くように出口の方へ向かった。私は黙ってその紳士の後について行った。

「ここは閉鎖病棟です。ここにいるのは感染症に罹った患者たちです」

 最後の家からさらに奥に行った場所に建つ建物の中に入ると紳士は言った。見るとそこには、やはり白いサリーをまとったシスターたちが献身的に働いていた。

「命がけです。ここでは感染する危険を顧みず彼女たちは働くのです」

 紳士は言った。

「私もここで働きたいのですが」

 そう言うと、紳士はその巨大な顔にポツンとくっついたつぶらな目で私を見下ろした。

「もちろん大歓迎です。ここは来るものは拒まず。去る者は追わずですからね」

「私もあの人たちみたいになれるでしょうか」

「私はここで長年神父をしています。あなたもきっとすばらしいシスターになれますよ」

 神父は、その巨大な体でゆっくりとうなずいた。

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