第4話 カレー
再びカノンの家に戻って来ると、カノンのお母さんが、小屋の前で鶏を捕まえ、何かしている。
「何してるの?」
「鶏をつぶすんだ」
カノンが言った。
「えっ!」
「今日はお客さんだから」
「でもいいの?この鶏がいなくなったら、卵が食べられなくなっちゃう」
「問題ない。卵がなければまた別のものを食べる。これですべて解決」
「・・・」
なんにも解決していない気がしたが、カノンの明るい物言いに私はなぜか納得してしまった。インド人は、日本の私なんかが想像できないくらいに大らかで楽観的だった。
お米や他の材料など手に入れるお金も手段も、状況から見て何もないようにどう考えても思えたが、それでもなぜかカレーは出来上がった。
「・・・」
これを食べていいのだろうか・・。目の前のカレーを前に私は逡巡していた。あまりに貴重過ぎる。カノン一家の重要な食い扶持の一つそのものを食べてしまうのだ。
「メグ、なぜ食べない」
カノンが隣りから私を見上げる。しかも、カレーが置かれているのは私の前だけだ。確実に飢えているであろうカノンの幼い兄弟たちみな、私を指をくわえて見つめている。滅茶苦茶食べづらい。
「う、うん・・」
だが、状況的に食べないわけにもいかず、私は恐る恐る手をカレーに伸ばした。
「うっ」
そのカノンの母親が作ってくれたチキンカレーは、殺人的に辛かった。口に入れた瞬間全身の毛穴という毛穴が全開し、玉のような汗が大量に噴き出した。舌はおろか口の中の粘膜すべてが瞬時に感覚を失い痺れた。だが、止まるわけにはいかない。みんなが私の一挙手一投足に注視しているのだ。私は続けてカレーを口に運ぶ。そして、さらに運ぶ。飲み込む一口一口が内臓を、一撃一撃破壊していく鈍い感覚があった。
だが、私を取り囲む、カノンの幼い兄弟たちは、そんな私をうらやまし気に見つめる。カレーは私一人分しかない。
「あっち行っといで」
カノンの母の大声が響いた。指をくわえ羨まし気に見ていた、カノンの弟たちがしぶしぶ、家の中へと入って行った。それでも弟たちは振り返り振り返り私の食べている姿を恨めしそうに眺めていた。
「あいつらは空腹に慣れている。大丈夫だ」
カノンが言った。カノンもカレーを食べてはいなかった。
まだお腹の調子はよくなかったが、これは絶対に食べなければいけないと思った。たとえ死んでも絶対に食べなければいけないのだと思った。これはそれほどに尊い厚意なのだと思った。
「ふーっ」
やっと私は盛られたカレーを食べ終えた。全身が痺れ、胃がギリギリと縦に引き伸ばされるように強烈に痛んだ。私は達成感でいっぱいだった。
「お代わりは?」
だが、私が食べ終わるのと同時にカノンの母が即座に私に言った。自分は食べていないのに、お代わりまで用意してくれていた。カノンの母は不愛想だったがとてもやさしい人だった。
「どんどん食べろ。これはお前のために作ったんだ」
カノンが言った。
「いたらきまふ」
私は、痛みを通り越して感覚の無くなった舌で言った。とても、断れる雰囲気ではなかった。
私は結局三杯お代わりした。すべて食べ終わった時、口の中は完全に感覚を失い、内臓を内側から思いっきりつねられているような激烈な痛みが私を襲っていた。
「うまかったか?」
「うん、人生で最高のカレーだった」
あまりの激痛にしゃべるのもやっとだった。でも、本当に最高のカレーだった。
「だろう。かあちゃんのカレーは最高なんだ」
カノンは、自分は食べれなかったにもかかわらず、満面の笑みでうれしそうに私を見た。
夕食を食べ終えるとあっという間に日が暮れた。
「さあ、寝よう」
カノンが言った。暗くなり、電気もない部屋ではもう寝るしかなかった。
「うん」
「寝るとこはここじゃない」
「え?」
私は家の中で横になろうとするとカノンが言った。
「こっちだ」
カノンに導かれ、着いたところは屋根の上だった。
インドとはいえ、夜はちょっと肌寒い。カノンの弟や妹たちが私にびっちりと体を寄せてくる。私たちは満天の星を見ながら、みんなでくっついて寝た。
「フフフッ」
もぞもぞと私にくっついてくるカノンの弟たちは堪らなくかわいかった。
「あったかい」
人間の体温がこんなに温かいことを初めて知った。掛けてくれた毛布は臭かったけど、夜風が気持ちよかった。
夜空を見上げると、深淵の底に佇むような真っ暗な闇の広がりに、永遠に瞬く小さな光が無限にどこまでもどこまでも広がっていた。
「星ってこんなにきれいだったんだ」
いつもそこにあるのに気づかない事はたくさんある。私は私の狭い世界しか見ていないのかもしれない。
翌朝、昨日の激辛カレーのダメージが私を襲っていた。今までに味わったことのない胃のもたれと痛み、脇腹の刺すような痛みを感じた。
「朝ごはん食べていけ」
カノンが言った。
「うん、ありがとう」
朝ご飯を食べている場合ではなかったが、カノンの満面の笑みに、断れる雰囲気ではない。
「はい」
出てきた朝ごはんは、昨日のカレーの残りだった。
「カノン、あんた食べないの?」
「うん、一人分しか残っていないから、お前が食べろ」
「・・・」
やはり断れる雰囲気ではない。私は、カノンの弟たちが羨望の眼差しで凝視する中、軋む内臓と入って来るカレーを断固受けつけようとしない胃腸にカレーを無理やりねじ込んだ。
「あ、こいつ泣いてる」
私はうれしいのか苦しいのか、お腹の軋みとカノン家の温かさに泣いていた。
「もう一晩泊まっていけ」
別れの時、カノンが言った。小さな兄弟たちもそうだそうだと言ってくれた。だけど、もう一匹鶏が食べられてしまったら、カノンたちが生きていけない。
「ありがとう。でも、行かなきゃ」
カノンたちはとても悲しそうな顔をした。私は、胸がきゅんとなった。
「いろいろありがとう」
私はあのお金を渡そうと思って、腹巻の中に巻きつけていた元少年のお金に手を入れた。こういう人たちにこそ元少年のお金は役に立つのではないか、浄化されるのではないかそう思った。
だが、その時、すぐにカノンの母が私の手を握ってそれを止めた。カノンの母は私の目を見て首を横に振った。
「それは間違っている」
カノンの母の目はそう言っていた。
「また来いよ」
カノンが言った。
「うん、きっと来る」
私は軋むお腹に鞭打ちながら振り絞った精一杯の力で、見送るカノンとカノンの小さな弟たちに手を振った。カノンとその弟たちはいつまでもいつまでも手を振っていた。これほどまでに人から、愛されたことがあっただろうか。私は感動していた。
私はスラムの外れの角を曲がり、カノンたちの姿が見えなくなると、すぐに力尽きてその場にぶっ倒れた。全身から脂っこいやばいくらい大きな玉の汗が吹き出し、火がついたように熱くなった。カノン家のカレーの威力はやはり凄まじかった。私はそのまま意識を失った。
気がつくと、私のありとあらゆる持ち物が無くなっていた。
「あっ、靴も無い」
というか靴下まで無かった。多分、ズボンも盗ろうとしたのだろう、ケツが半分まくれ上がっていた。
「ピタパンでよかった」
そういう問題ではないか。私はまだ朦朧とする意識でズボンをずり上げた。
腹巻きは無事だった。多分、インド人には腹巻きが理解できなかったのだろう。だから、その中の金も無事だった。
空を見上げると、まだ日はサンサンと照っていた。
「真昼間でこれか」
自分のこの惨状に、インドの凄まじさを感じずにはいられなかった。
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