ケツ割り箸史

@kasei_san

平安〜江戸時代

平安時代


ケツ割り箸の発生は定かではなく、諸説が存在するが、平安時代には呪術として行われていたことが確認されている。長保5年(1003年)の京のできごとが書かれた和泉式部日記では、某公家の箸が行方不明になったのち翌日折られた状態で発見された。これは「けつわりはし」が行われたので、某君は長くは持たないであろうという宮中の噂話が残されている。

民俗学者傑野和羽は、著書「ケガレとケツ割り箸」にて、当時のケツ割り箸の隆盛について以下のように解説している(P124)。


「古来より箸は食事を口に運ぶ道具という位置付けから、神聖なものと捉えられていた。それを尻で折ることは最大の侮辱であり、それが行われたと認識された人物は呪いにより穢れたと扱われ、事実上の村八分となる。そしてその人物が十分な社会的保護を受けられず滅びていく様が、呪いの結果として拡大再生産され、ケツ割り箸の流行につながったのである。」


ケツ割り箸の呪術的意味については、未だ諸説あるが、当時の複数の貴族の日記に「けつわりはし」の頻発についての記載があり、当時ケツ割り箸が流行していたことは確かなようである。



鎌倉時代


鎌倉時代、武家の台頭によりケツ割り箸の意味はにわかに変化する。当時の武士の戦闘は、弓矢の撃ち合いの後、名乗りを上げ、その後一騎打ちというスタイルであったが、名乗りの際に、相手を挑発する行為も頻繁に行われた[要出典]。その中で相手の射った矢を拾い、自らの褌に挟み矢を折り、相手の士気を挫いたというエピソードが、奥州合戦の奥州藤原氏側の記録に「尻矢折」として残されている。この行為をみた幕府側の武士は「益荒男の極み、まさに豪ケツなり」と驚嘆したとされている[要出典]。



戦国時代


戦国時代初期においても「矢尻折」は頻繁に行われ、各地の記録にその名が残されている。毛利元就の「三本の矢」のエピソードについても、当時の「矢尻折」の流行から、尻で折ったのではないかという説もある。しかし、足軽の台頭により集団戦が戦闘の主流になるにつれて「矢尻折」は廃れていった。



江戸時代


忘れ去られていた「矢尻折」だが、三代将軍家光の時代に再評価される。徳川家光は旗本勢の虚弱化を憂い、武道や水泳を推奨した。その際に剣術と併せて、胆力の鍛錬として「矢尻折」が奨励されている。家光の後援もあり、慶長20年(1615)年には江戸には数件の「矢尻折」の道場が作られた。

この頃、鏃が尻に刺さる危険から、矢の代わりに箸が使われるようになり、次第に「矢尻折」から「けつ割箸」という呼び名に変化していった。



けつ割箸の技芸化


「けつ割箸」は次第に、所作に則り美しい折口で箸を折ることを重視した技芸的性格が強い競技に変化していく。これは、将軍にケツ割り箸を披露するにあたり、格式が定められたという説と、矢から箸に変化したことで、より折りやすくなったため、折った結果よりも、いかに美しく折るかが重視されるようになったという2つの説が存在する。また、参勤交代の武士を介して、ケツ割り箸の作法は全国に広まることとなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ケツ割り箸史 @kasei_san

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ