第29話 院長室、ストゥピッド・ユアセルフ

 院長室という未開の場所を訪れるにあたって、病院施設の詳細な構造についての知識など全く持ち合わせていない俺が漠然と抱いていたイメージというのは、学校の校長室だったりする。


 客来をもてなす目的として大きめのサイズの長ソファが室内の中央に設置されており、窓際には『校長』と、わざわざ備え付けする必要があるのかもわからない役職名を記したプレートの置かれた机が存在して「この席に座れるのは唯一ただ一人、校長だけである」とでも言いたげな聖域に近い雰囲気を形成しているような、そんな装いだった。


 大半は、勝手に想像したイメージ図でしかない。そもそも校長室という場所からしてドラマの世界でしかお目にかかった事が無い上に、それが何のドラマだったのかと尋ねられたところで俺は返答に窮してしまうだろう。


 知識は持っていても、記憶は持っていない。


 矛盾しているかもしれないが、その矛盾を掘り下げた所で、俺自身が再び『設定』という名の思考の迷路へと陥ってしまう姿が目に見えていたので納得するしかない。それが、あの絶望の崖っぷちを傷だらけになりながらも乗り越えた、現在の俺のスタンスだった。


 閑話休題。


 結果から言ってしまうと、青山第3総合病院の院長室という場所は、俺が想像した高い地位に属した人物の居所のイメージとそこまで剥離した部屋という訳でも無かったらしい。来客用の長ソファはちゃんと存在していたし、窓際にもやはり役職名の書かれたプレートが置かれている、いかにも高級そうな机が鎮座していた。


 違った点と言えば、プレートに書かれた文字が『病院長』であった事と、そこに座っていた人物の服装がスーツでは無く白衣を纏っており――幼馴染の父親だったという事だろう。


「お父さん、忙しいところお邪魔してごめんね」

「ん、構わんよ。今はオペも入っていなければ雑務に追われているという事も無い。むしろ身体を持て余していたところだ。ん? 一人で来ると話していたはずだが」

「ああ……うん、そのつもりだったんだけど」


 室内に入るなり、手持ち無沙汰な様子で席に座ったまま一人娘と簡単な挨拶を交わした青山結衣の父親は間を殆ど置かずに、後ろをついてきた俺の存在に気がついたようだった。予想していた事ではあったし、当然の反応だったとも言える。


「…………」

「お、お父さん……?」


 結衣の父親は、突然の来訪者である俺の事を無言で見つめている。その眼差しは、俺がここ最近に幾度か経験した威圧的なそれに酷似してはいたものの……幼馴染の父親との初対面という特別な状況がそうさせるのか、受ける印象がまた全然異なっていた。前例と比較してみれば殺気や殺意の類の感情を含めていない事だけは伝わるのだが、こうもじっくりと観察されてしまうと何とも対応に困る。


「えー……その……」

「…………」


 ……この状況、どう切り出せば良いんだろうか。

 どう切り抜ければいいんだろう、の方が正しいか。

  

 隣に立っている結衣はというと、横目で俺の動向を窺っている様子だった。助け船を出してくれても良さそうなものだが、自分の父親の性格を考えると俺自ら名乗った方が良いという判断なのかもしれない。失礼の無いように、今更にして当初の意気込みを思い出した。


「初めまして、榊原修と言います。結衣さんとは子供の頃からの友人付き合いでして、たまたま病院の前でバッタリと会った事もあって、折角の機会だからと一緒にお邪魔させて頂きました」


 所々、拙い言葉遣いだったかもしれないが、自分なりに精一杯頑張った挨拶だったと思う。本当の目的に関しては未だ伏せたままだが、まずは結衣の父親にある程度良い印象を与える必要があると考えたので後回しにした。


「榊原修……」

「あの、俺の事をご存じでしたか」

「最近物忘れが酷くてね。どうだったかな」

「……はは」


 結衣の父親は見た目から言えば40代前半という感じで、同年代の父親と比べても若々しい部類に含まれると思う。まあ、参考例が少々血気盛んな龍二の父親程度しか知らないので何とも言えないのだが。少なくとも、物忘れが酷くなるほど年老いている訳では無いという事だけは理解出来たので、気まずさは未だに払拭できないままだった。


「結衣、彼の事は以前に話していたかな?」

「ううん、これが初めてだと思うよ」

「……そうか。榊原君と言ったな、娘が世話になっている」

「あ、いいえ。すいません、わざわざ娘さんと会う貴重な時間をお邪魔してしまって」

「構わんよ。先程も言った通り、今は暇を持て余していたところだ」


 どことなく、古風な喋り方をする人だなと思った。威厳のようなものを感じられる。父親という立場上そんな物言いになっているのかもしれないが、とりあえず挨拶の段階としてはまずまずという手応えだろうか。


「結衣、学校の方はどうだ? 友達は居るのか」

「うん、修ちゃんとは同じクラスだし楽しく過ごしてるよ」

「……修ちゃん?」

「……あはは」


 そのニックネームだけは是非とも自重して欲しかった。

 思わず、俺は宙を仰ぎそうになった。




「国吉という患者の面会をさせて欲しい?」

「そうなんです、ご家族の方からは面会を避けるようにと学校側が頼まれているらしいんですが……国吉先生は担任の教師なので心配になって」

「それで、わざわざ私の所まで押し掛けて来たという事か」

「迷惑なお願いだと承知していましたが……お願いできないでしょうか」


 雑談も程々にして、俺は結衣の父親に本題を切り出す事にした。反応は案の定、芳しくない。そもそも初対面の俺がこんな不躾な頼み事をするより、娘の結衣に任せて頼んでくれるよう計らって貰った方が丸く収まったのではないだろうか。


 父親に会ってみたいという気持ちは確かだったが、わざわざこんな機会で無くとも良かったはずだ。もう何度目か分からないが、後先考えない勇み足だったと俺は懲りない反省をするのだった。


「お父さん、国吉先生は私にとっても担任の先生なの……お願い」

「……ふむ」


 一人娘からの頼みが効いたのか、結衣の父親は考え事を始めた。時々、結衣や俺の表情を確認しながらではあったが、頭ごなしに撥ねのけるという訳では無く真剣にお願いを聞くかどうか熟考を重ねてくれているのは見て取れた。

 

 しかし……常識的に考えれば、拒否されて同然とも言える。患者のプライベートを損なうような行為を院長自らが認めてしまう事は、病院全体の信用に関わってくる問題なのだから。ましてやそれが結衣の父親だとすれば、俺は最初から彼女の提案を拒否するべきだったのかもしれない。


 そう思うと、考え事をしているように見せているのも俺や結衣に対するせめてもの情けであって、ポーズに過ぎないのではないか。土台、最初から無茶なお願いだったのだ。既に俺は断られた後の謝罪や次に打てる手を想像する段階に突入していたのだが……。


「まあ、良かろう」

「……え?」

「他ならない娘からのお願いだ、あまり公には出来ない話だが許可しよう」

「お父さん……ありがとう!」

「あ、ありがとうございます」


 どうやら、結衣の父親は俺の想像していた以上に娘想い、というよりも娘に甘い人物だったようだ。本当に大丈夫なんだろうかと、下手をしたら頼み事をした俺自身が後悔してしまいそうだったのだが。


「ただし」

「「はっ、はい」」

「あらかじめ言っておくが――。あれは」




 五階、『特別病棟』と名付けられたそのフロアの空気感を端的に表現するならば……重苦しい場所といった様相だった。何しろ人気が少ない、病棟なのだから見舞い客や看護師が辺りを彷徨いていてもおかしくないはずなのだが。


「この階はその名の通りに特別でね、普通では無い特殊な患者だけが運び込まれる作りになっている」


 そんな説明を口にしながら、結衣の父親は両の腕を白衣のポケットにしまい込んだまま俺と結衣の前を歩いている。口調に違いは感じ取れなかったが、その淡々とした様子は結衣の父親としてでは無く、病院長という役職としての姿なのだろう。


 結衣もそんな父親の変化を感じ取ったのか、無言のまま話を聞いていた。院長室で垣間見えたような親子の睦まじい関係性は、現在の二人から切り離されている。そんな気がした。


「普通では無いって……国吉先生は大丈夫なんでしょうか」

「少なくとも、命に別状は無い」

「それは話で聞いてはいますが……」


 無人の廊下を、コツコツと足音を鳴らしながら三人は進んでいる。その異様な静寂さに思わず、以前休日の学校を訪れた時の記憶を呼び起こしてしまった。しかし……それにしたって異様過ぎる。面会時間の終わりまで30分程度しか残されていないとはいえ、あの時の状況とはまるで違うはずなのだ。


 第三者の声が聞こえてこない、話をしているのは俺達だけだ。

 ここが病院という場所ならば、当然聞こえてくるはずなのに。

 例えば――入院中の、患者の声とか。


「――さて、到着だ。二人とも、覚悟はいいかな」


 進んだ先に存在していた、とある病室の前で立ち止まるとそう告げた結衣の父親、いや病院長の言葉に俺と結衣は無言で頷いた。覚悟を決める、まさかそのような要求を病院という施設を訪れてなお尋ねられるとは想像もしていなかった。隣にいる結衣の様子を見ると、すっかりこの陰鬱な空間が醸し出す雰囲気にあてられてしまったのか、微かに身体を震わせている様子が窺えた。


「……大丈夫か、結衣。無理をしないで、ここで待ってるか?」

「怖いけど……二人が中に入ったら私が一人になっちゃうから、平気」


 それは……平気じゃないだろう、全然。


「まあ、取って食われたりはしないよ。これも人生勉強だと思えばいい。開けるよ」

「……お願いします」


 病室の扉が開かれる。元々そういう作りになっているのだろう、見た限りではそれなりに力を入れて開放されたように見えた扉だったが周囲の静寂さを乱す程には至らない。むしろ乱しそうになったのは――見舞い客として訪れたはずの、俺たちの方だった。

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