第19話 距離感と気持ちの変化

 帰宅したスズシロくんは、なんというかいつも通りだったので、持ち上げられて立たされた時は、あれ? みたいな。

 普段から距離はお互いに取っていたし、踏み込まないようにしていたけれど、どういうわけかそれを、ふと、思わず気付いたようなさりげなさで入り込まれ、けれどその疑問を抱くよりも前に、正解が落ちていた。

 疲労だ。

 理由は察するし、たぶんここ一ヶ月の仕事が終わって糸が切れたことはわかる。ともかく疲労困憊なのかと――。


「……りり? 聞いてる?」

「ひゃいっ!」


 聞いていたけど、ここで名前を呼ばれるとは思わなくて、ちょっと飛び上がってしまった。

 い、いかん、なんか鼓動が早い。どうしよう。

「えっと……もう寝ました?」

「んー、まだ、もうちょい」

「えっと、あ、ネクタイくらい外しましょうよ」

「んー……」

 ふいに目についたので言えば、しかし、身動きしようとしない。さすがに首元を締めたままでは辛いだろう。

「まったくもう」

 返事はなかったが、ゆっくり手を伸ばしても反応がなかったので、手早くネクタイを外してしまう。シャツのボタンも上から二つくらい開いてやれば、もう定期的な寝息が聞こえた。

 そういえば、ちゃんとした寝顔は初めて見る。いや、無防備とでも言えばいいのか。

 夜に起きてトイレに行く時なんかに、スズシロくんの姿を見るが、いつも壁に背中を預けてうつむいているだけで、それを〝寝ている〟とは、どうしても思えなかった――けど。

 こうしてちゃんと寝ていれば、年齢相応だ。

「んふふ……」

 可愛い寝顔である。

「たまにはそういう顔も見せるんですねえ……」

 油断かどうか知らないけれど、気を抜くことができたことは、素直にうれし――。

「……うあ」

 ちょっと待とう、うん。

 あーうん、そう、上にかけるものでも持ってこようね、そうしましょう。

 まずい。

 私は合コンとかよくやったけれど、実際にここまで異性を傍に置くことは、――初めてだ。

 わかってはいたけれど。

 好きなのと、一緒にいたいのと、傍にいることと、この三つの違いを今まさに現実として、感じている。

 この人となら一緒に暮らしたいと思える相手――が、スズシロくんだとは言わないけれど、たぶん、自分の母親や結婚した同期なんかは、こういう気持ちを持っていたのだろう。

 鏡の前に行かなくとも、顔が真っ赤だ。熱い。どうしよう。

 ――でも。

 そうだ、けれどでも。

 私は、スズシロくんに、恋愛感情を抱いてない。

 ……どうなんだろう、むしろそっちの方がマズいんでしょうか。

 自室からタオルケットを持ってきて、かける。あー駄目だ、なんだろう、このままだと。


 ――この気持ちを、確かめたくなる。


 だから、駄目だと、縛られるよう動かなかった視線を、強く意識して反らした私は、キッチンへ。

「……あ、珈琲が」

 いつもスズシロくんが作っておくので、それを最近は飲んでいたけれど、今日はない。当たり前だ、スズシロくんが来るまで、そんな習慣はなかったから。

 お茶でいいやと、私はそれを持って自室に戻った。

「はふ……」

 三十畳はある私の部屋だが、壁際にはセミダブルのベッド、その反対側にはテーブルと据え置き端末。床には円形ガラステーブルがあり、こちらは主に手書きや読書などで使っている。

 あとはクローゼットくらいなものだ。観葉植物などはリビングだし、化粧もだいたい洗面所で済ませている。自室なんてのは、仕事と寝所になればそれでいい。

 まあ、かつては家族で住んでいたので――いや待て、あの両親は昔からほとんど帰ってこなかった気がするので、比較にもならないか。

 椅子に座り、端末を起動させておいて、お茶を一口。

 最初から、自分の生活に他人が入り込むことは、覚悟していたし、承知していた。その点に関しては、あえて言葉にすることもなく、スズシロくんは理解していたし、それを実際にやっていた。

 スズシロくんは、リビングとキッチン、扉がある場所ではトイレとお風呂、そこ以外に足を決して踏み入れようとしない。

 外で生活をするような野生児だから、ではなく、他者への気遣いだ。そして、弁える。食事も作ってくれるが、私が作るよう誘導もあって、労力がどちらかに傾くこともなければ、そうした仕事をどちらかしか担当しないような、偏った状況も作らない。

「ほどほどに上手くやるってことを、実感するよねえ」

 意識して口に出したが、なんか声がちょっと震えてないか私。もうちょい落ち着こうよ。まあ、独り言なんて、ほとんどしたことないので、そんなものかもしれないけど。

 ――ただ。

 勘違いは、いけない。

 今日のスズシロくんは、疲れていて正常な思考ができていないからこそ、ああなっているのであって――……つまり今しか見る機会がない!?

「いや、いや……」

 だから落ち着こう私。見に行くべきか悩むなんてどうかしてる。

 相手が学生ならいい。教え子として見れば、そもそも、こんな気持ちにはならない。

 立場上、スズシロくんは学生であり教え子だけれど、――そういう人物には見えないくらいの行動をしている。

 教わるのが嫌なのではない。自分の失点を認めることができないわけでもなく、そもそも自立しており、状況を見ながら自分のやるべきことをやる。効率的に、必要不必要をわけるのではなく――。

 簡単に言えば、一人前だ。

 教員である私が、半人前に思えてしまうくらいに。

「……」

 ――だから、こんなにも、惹かれているのか。

 そんなスズシロくんが、ようやく、年齢相応の顔なんて見せるから、そのギャップが…………。

「う、あ……!」

 意味もなく、頭を抱えて叫びたくなってきた。

 なんだよもう! どうすればいいの!

「――うひゃあ! なんですかもう!」

 着信の音が鳴っただけだった。ベッドに放り投げてあった携帯端末を取ろうとして、バランスを崩してダイブ。よかった、テーブル側に転んでいたら大変だ。

 ディスプレイを見ると、霧子きりこさんの名前があった。

「はい、お待たせしました」

『ちょっといい?』

「大丈夫ですよー」

 霧子さんは他校の学生ということもあり、それなりに連絡が入る。そして、大抵の場合はこうして、時間があるかどうかの問いかけがあった。それほど気にせずとも良いのだけれど、小さな気遣いだ。

「いつも確認ありがとうございます」

 思わず言ったのだが。

『は? プライベイトと仕事の境目が曖昧な、教員なんて立場なんだから、当然でしょ。相手がプライベイトでも確認はするけれどね。情事の最中だと私が困るもの』

「じょっ、なっ、そ、――そんなことしませんにょ!?」

『にょってあんた……え? いや、まさかあんた』

「してません! してませんからね!?」

『あのねえ……』

 呆れたような吐息があった。

 私がまだ教員としては若いこともあって、三学年の霧子さんとは、年齢的にも五つくらいの差しかない。彼女にとっては、それほど差がないという認識らしい。私もそれほど気にしないけれど。

 だって、それこそ彼女は、立場上、私と変わらない。仕事があって、立場もある。学生なんてのは、ただの〝身分〟だと、そう捉えているのだ。

 つまりそれなりに近しいというか、親しいというか……。

『意識してますって反応よそれ』

 こうやって、同性としての意見も結構言ってくれるのだ。

「い、いえ、その、違いますよ?」

『りりが何をしようと、私はさほど関係ないから。相談には乗ってあげるけど、十三じゅうぞうは帰宅してる?』

「あ、はい、いますよ。何か用事ですか?」

『それなら直接連絡する。寝てるでしょ、どうせ』

「……はい。本人は隠したいんじゃないかなーと思っていたので、話すべきかどうか悩みましたが」

『それよ、それ。だからりりにも隠そうとするんじゃないかと、私も危惧きぐしてたわけ。十三にとっては慣れない作業だったし、さすがに一ヶ月もあれだけ集中すれば、疲労も溜まる。緊張の糸なんてのは、切れた時が大変だから。それでも誤魔化すようなら、殴って気絶でもさせようかと思ってた』

 それはまた乱暴な。

『――で、寝顔でも見てやられたわけ?』

「や、――やられてませんから」

『じゃあ何にやられたのよ』

「あのう、霧子さん、その」

『ん? 感情の整理がまだできてない? まあいいけど、相談したくなったら言いなさい』

「はあい」

『で、大丈夫だとは思うけど、スイッチ切れたみたいに落ちるから、あいつ。その間は無防備だし、反射的な攻撃もしないから、できるだけ客を招かないでおいて』

「ああはい、それは落ちる前に聞きましたし、そうします」

『悪いわね』

「……あの、本人に聞くべきかもしれませんが、ここ一ヶ月はそれほど、疲労しているとは感じませんでしたが」

『帰ってきた時も、寝るまでは普通だった?』

「そう見えました」

『そのくらいの見栄は張れるようになったってことねえ……』

 さすがは幼馴染。きっと昔のことでも思い出しているのだろう。

『十三は昔から、あらゆる得物を壊す体術を身につけてきた。私が銃を撃っても、軽く壊せるくらいには実力がある。簡単に言うとね、りり。十三が刃物を作るってことは、常に、壊せる現実に直面しながら、ずっと、壊さないようにしなくちゃいけないの』

「それは、精神的な疲労ですね……」

 否応なく、現実を突きつけられるというのは、辛いことだ。それを一ヶ月も続けられたことが、むしろ、驚異的である。

「驚異的ですよ」

『え? あんたのおっぱい小さいでしょ? ちっぱいでしょ?』

「そういう現実を突きつけないでください……!」

 事実だけど! だからこそ辛い! あと驚異的ってそういう意味じゃないから!

『ナイフとか、学園に提出するレベルでの作成はあったけど、仕事としてきっちり、しかも刀を作るなんてのは初めてだったでしょうし、さすがに倒れるだろうなと思って。りりが理解者で助かるわー』

「はあ、その、どうも……」

『なに言ってんの、嫌味よ』

「わかりにくいです。……ふう、ちょっと落ち着いてきました」

『え、なに、本気?』

「わかりません。そもそも、私は恋愛感情を抱いてませんし」

『……もしかして、あいつ名前を呼んだ?』

「――なんで、わかるんです?」

『あの馬鹿……』

「その、何か問題があるんですか?」

『りりじゃなく、十三の方よ。こういうことを言うと、勘違いするかもしれないし、事実かどうかなんてわからないけれど――十三にとってはね、それが〝距離〟なのよ、たぶんね』

「たぶん、ですか」

『そう、たぶん。いずれにせよ、私は十三が肉親以外を名前で呼んでるところは見たことない。あの純一郎でさえ、俗称だし。本人は意識してないかもだけど……これ、異性が相手だと、そもそも、意識していないことの方が問題よねえ』

 うわー……うわー霧子さん、私が今ここで顔を赤くしてるのわかってて言ってる! 私もわかる霧子さん、絶対にやにやしてる!

 人間なんて、無意識に起きることの方が、本音に近いものだ。

「勘弁してください……」

『なに、合コン負けしてんのに、慣れてないわねえ』

「むしろ負けてるからじゃないですかね!?」

『初恋みたいに楽しみなさい』

「笑わないでくださいよう……」

『あはは、大人になってからの恋の方が、よっぽど厄介よ。だって、それは憧れや一時的な気分じゃないもの』

 それはそうだ、学生の頃とはもう、立場が違う。警戒心だってあるし、そもそも、相手の立場だって変わってくる。

 仕事とか、人となりとか、それらを含めて相手がどう生きているのか、まるで見定めるように、けれど自然と、そうした部分を意識せざるを得ない。

 だから、厄介だ。

 ――本気になると、どうしようもなくなるから。

「まあ大人になると打算も増えますからね……」

『あんたは、どうなの?』

「あーやめましょう。霧子さん、この話はやめましょう……」

『安心なさい。どうせ、――今日はなかなか寝付けないから』

「嫌な予言をしないでください!」

 よくわかった。

 霧子さんは間違いなくサディストだ。



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