第14話 雨の織にて空を見上げるは

 玖珠くす純一郎じゅんいちろう原茂はらしげが、未だその名を持たなかった、それは俺の一番古い記憶。

 俺は空を見上げていた。

 どんな場所で、俺がどんな姿で、服装で、そんなことまで覚えてはいないが――冷静に、思い返して補完したのならば、そこはノザメエリアと呼ばれる混沌とした場所であり、大きめの汚れたシャツのようなものを着て、その子供は空を見ていただろう。たぶん、間抜けにも口を開けて。

 そんな俺に話しかけてきたのが、彼女たちだった。

 一人は、もう隠す必要はない、あの派手な和服を好む小柄な少女、そして妖魔である猫目であり、けれどその時には、彼女が持っていた刀――銘を、リウラクタと呼ぶそれしか、強い印象がなかった。

 そしてもう一人は、これまた和服でありながらも、うなじくらいしか髪がなく、けれど長い前髪で左目を隠している女性であった。

 名を、隻眼せきがんと云う。

 ――そうだ。

 俺は、オワリの四人と呼ばれる彼らに拾われる前に、彼女たちと出逢っていた。

 そして、その言葉の記憶がある。

あまおりにて空を見上げるは――」

 歌うようではなく、どこか笑いを交えて楽しそうに。

「――晴天はれまを望むしんもなく、請うは天よりの恵みこそ我が身に染み渡らんと、焦がれ求め欲するか。人はそれを〝囚われ〟と呼ぶだろうに」

「牢獄に縛られたにゃら、どうであれ結果は一つしかにゃい」

 そう、彼女たちは信じて疑わない。囚われの者は必ず、そこから脱するのだと。

 人がそのまま朽ちることだってあるのに、牢獄など壊して当然であると。

「どうして、この子を?」

「気に入らにゃいか?」

「将来性がありすぎると面倒」

「あっしは知ったことじゃにゃい」

「……」

「にゃんだ?」

「ま、どうであれ、たかが百年か」

「そうにゃる」

 しゃがむようにして、視線を合わせて――前髪をわけるよう、その左目を露出した瞬間、ようやく俺は、その刀から彼女へ意識が向いて。

「――契約だ」

「あ――」

 俺は。

「あ、あ、ああ、ああああああ!」

 声を上げた。

 それは、痛みではなく、喜びでもなく、苦しみでもなければ、楽しさでもなく。

 ただ、ただ。


 ――気持ちが悪かった。


 妖魔と契約を行うのならば、言葉でいい。だが自らを依代よりしろとしての契約は、そもそも、条件が合わなければ回避すべきだ。

 何故ならば。

 妖魔という大きな存在を、己の内側に容れなくてはならない。ゆえに最初から〝空白〟の存在が絶対とされるからだ。これが形代かたしろならば、違うことも可能だが、人という存在は無機物とは比較にならない。

 依代とは、憑代よりしろとも書く。

 妖魔を憑依させるのと同様に――それは。

 妖魔と、存在を同じくする行為にほかならない。


 俺には空白が多くあった。それを彼女に喰われることに、痛みも喜びも苦しみも楽しさもない。だってそれは空白だ、何もない。ただそれを奪われ、彼女と同化したところで感じるものなど――壊れていた俺にはなかった。

 だが。

 しかし。

 ――だったら、喰われた空白が全て消えた時、残っていたものは何だ?

 希望でも、絶望でも、ない。

 それは、俺が、人間であると証明する〝何か〟である。


 思えば、初めて俺は、自分が人間だと自覚できたのかもしれない。


 気持ち悪かった。そこらの何かであった方が、よっぽどマシだ、なんてことは思わなかった。だってその時まで、俺を俺だと定義することすらできなかったのだから。

 どれほど成長したって。

 ノザメエリアに〝人間〟らしい存在など、ありやしないのだ。

 今ならわかる。

 あの場所では、人間であると自覚した者は、それが原因ですぐに死ぬ――と。


 気付けば、俺は地面に倒れていた。音を立てて泥と一緒に跳ねる水滴を見て、顎を上げるようにして空を見た俺は、その時に。

 ――ああ、羨ましいと。

 人間としての感情を動かして、雨の恵みを一心に受けるこの大地に、嫉妬した。

 そして、目の前にある刀に手を伸ばし、けれど力が入らず滑って、何度も大地に突っ伏して、何度も何度も挑戦して、俺はもがくように立ち上がる。


 ――俺はその時、たぶん、人間になったのだろうと思う。


 まだ、その時は、猫目ねこめよりも俺の方が小さかった。

 ぱっと刀から手を離されて、すぐに俺はバランスを崩して倒れたが、違っていたのはその刀を、ちゃんと俺が握っていたことだ。

「にゃまえ、どうするかにゃあ……」

 俺は答えない。まだ、会話と呼ばれるものの意図を理解していなかったから。

 ただ、足掻く。

 目の前に立っている存在があるのならば、立つべきだと、なぜかそう思ってもがく。


 俺にとって、それがハジマリの記憶。


 人とは違う存在として、けれど人に成ってしまった、半分以上が妖魔に喰われた、モノ。

 そして。

 だからこそ、ここで風深ふうか・ミリクネが出てくる。

 猫目と出逢ってどれほどの時間を過ごしたのかは、覚えていない。だって、その頃の俺には、時間を数える意識が一切なかったから。けれど間違いなく、それは、猫目が去り、俺は俺の中の隻眼と一緒にいた頃の話で。

 俺は、ノザメエリアで、一人の、一匹の猫を助けた。

 ……いや、それを、助けたと言うべきではない。ただ、自分ができることを、隻眼の指示で、やっただけ。つまり〝結果〟として、助かった猫がいた、――それだけの話。


『やはり負担か』


 そう、つまるところ隻眼の力を俺が扱うには、負担が過ぎた。俺はいつかと同じよう、雨の中で倒れていたのだから。

 そこを、彼らに拾われる。

 育てられることはなかった。だって、俺には師がいたから。けれど、人間としての立場を与えてくれたし、カザマエリアで過ごせたのも、その尽力があってこそだ。

 ここから先は、まあ、大したことではないだろう。

 けれどでも、俺はいつだって、それを感じている。

 どれほど人間らしく振舞っていても、俺は、やはり人間とは〝違う〟のだと。

 半人半妖と呼ぶにはいびつ過ぎて、妖魔と呼ぶには純粋さがなく、人間と呼ぶには中身がない。

 そんなアンバランスなまま、バランスを保っている俺は、――ああ、霧の中に存在する、ソウコエリアと似ているのかもしれない。

 だから、俺は、最初からこっち側なのである。

 猫目と契約したわけでも、彼女の勢力に加担したわけでもない。

 俺は一人、刀を持ち、隻眼と共に、――連中と対峙しているだけの、外れ者だ。



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