四 襲撃
数日間の準備の後、祭りのはじまりの日の夜が明けた。
気持ちの良い晴天だった。まだ起きていない者を叩き起こし、身支度を整える。この日のために仕立てた衣装だったが、竜のそれは成長に合わせ新調されたものの、銀は去年と同じものであった。留め具に付いた飾りを引っ張って遊びながら、竜は兄を見上げた。
「兄貴、背、伸びなかったね」
「お前と違って、もう大人だからな」
そうだね、と連日の疲れも相まってまだ少し寝ぼけている竜は素直だ。くしゃりと弟の頭を撫で回し、他の仲間たちの準備が整っているか確認して、幕屋の外へ出た。竜は友人たちを見つけ出し、即座に駆けていく。それらを見送って、銀もゆっくり大祭の中心へ向かった。
おそらくもっと早くから活動しているのだろう、楽師たちの音楽が風に乗って届く。笛に、太鼓に、馬頭琴にと音が重なり合い、ゆっくりと奥深い音色となって人々を高揚させていく。竜が友だちと遊び、奏があの楽に加わっているのであれば、もう他に銀が祭りの開幕を一緒に迎えるような親しい者はいない。広場の中心から少し離れた場所で、女たちが炊き出している乳茶を受け取ってすすり、開幕を待った。
やがて広場の中心に設けられたやぐらに現れた王が開幕宣言をして、音楽は一気に祭り囃子へ変わった。男たちは調子をそろえ、天への感謝を、戦士の唄を、家畜の恵みをいただく祈りの唄を、続けざまに歌い、足を踏み鳴らした。この日のためによく肥えさせた羊を、唄に乗せて王が屠る。血を一滴も大地に零さぬよう、見事なやり方で捌いた肉が祈りの後女たちへ手渡され、歓声が上がり、あちこちで酒が振る舞われた。
開幕の一連の儀式が終われば、後はもう、大祭にふさわしいお祭り騒ぎだ。あちこちで、各家庭で出来た一番の酒が次々と開けられていく。子どもたちは酒精の弱い馬乳酒を取り合うようにして飲み、笑い合い転げ回っている。王に続いてあちこちで家畜が潰され、女たちは腕をまくった。
馬比べや弓比べに出場する者は、この段階で羽目をはずしすぎないよう気を付けて体調を整えておかなければならない。十分に盛り上がった頃最初の舞の奉納があり、その後に馬比べが行われるのだ。
意地の悪い者は各種目の有力選手を酔い潰そうと画策している。銀はそんな周囲の動きからそっと逃れ、祭りでも粛々と過ごす老人や、銀と同じく周囲から狙われている馬上試合の有力者たちなどと、簡単に張られた天幕の中で時間を過ごしていた。
人気を避ける者も、結局は同じような匂いの元へ集まるものなのか、やがて奏がふらりと姿を見せた。銀が手を振ると破顔して近寄ってくる。
「奏ちゃん、楽は?」
「交代制だよ。今は休憩」
一族の中にいると、いまだに香奈江との縁組のことで嫌味を言われるのだろう。察して酒を注いでやると、やはり彼は疲れた顔でそれをあおいで、やってられねえ、と呟いた。
「いくら俺が嫌われ者でも、あの親父さんの元から盗み出したんだ。女の同意があって、首尾良くそれをやり遂げればもう認めるのが筋だろ。それをいまだに、ねちねちと」
そうだね、と応じて空になった杯に継ぎ足す。奏はそれもひといきにあおった後、お前も飲めと銀に迫った。このように酔い潰そうとする輩から逃げてきたはずなのに、と困って助けを求め辺りを見回したところで、ふと人が少なくなっていることに気がついた。
「奏ちゃん、なんか人がいなくなってるよ」
「あ? ……ああ、そうか、もう舞が始まるんだ」
「それにしたって、みんないない」
銀がきょろきょろ見渡しながらさらに言うと、奏はふっと年長者めいた笑みをこぼした。
「おまえは知らないかもしれないけどね、更紗の舞は評判いいんだ。俺も楽で参加したかった。そうだな、俺も見に行こう」
ふうん、と頷き、銀は先日の夜の舞を思い出した。どんなに今日の舞で更紗が飾り立てられていて、立派な舞台で、楽師たちが美しい調べを風に乗せても、あの時の舞に優るものはないように思えた。自然と口元が緩んできて、慌てて引き締め、銀も立ち上がる。
「どうした。銀も見に行く?」
「違うよ。舞の後馬比べだろう。スイの準備をしておく」
真面目だね、と呆れたような声で呟く。二人連れ立ってその場を離れようとした時、天幕がばさりと跳ね上げられて、見知った顔の男が慌てた様子で飛び込んできた。南の一族の若衆の一人である。
「銀! やっぱりここにいたか! 更紗を知らないか!?」
「更紗? いや、朝から見てないけど」
「うーん、違ったか。参ったな……」
渋面で頭を抱えて考え込む男に、どうかしたのか、と銀は尋ねた。
「更紗のやつ、忘れ物をしたって幕屋の方へ戻ったらしいんだが、帰って来ないんだ。銀のところにでも行ってるんじゃないかと思って、探しに来たんだが……」
朝から会ってない、と繰り返すと、ますます困った顔になる。銀は続けて尋ねた。
「幕屋は見に行ったのか?」
「いや、まだだ。先にこっちに寄ったんだ」
「じゃあ俺が幕屋へ探しに行くよ。他にあてがないか、女たちにも聞いてみてくれ。奏ちゃん、竜に、スイの準備をするよう言っといてくれないか」
「ああ、分かった」
「すまんな。頼んだ、銀」
頷いて銀は走り出した。祭りの中心部から、幕屋の一帯まではやや離れている。面倒かけさせやがって、という思いの反面、更紗ならしょうがないなと苦笑するのを止められない。
走りながらふと、このあと更紗を見つけてやぐらまで送り届けたら、そのまま更紗の舞を見てみようか、という気になった。
面倒かけやがって、と悪態をついてそのまま舞へ送り出し、戻ってきたらこの前の夜のほうが良かったと言ってやる。今なら、それが出来るような気がした。その後、もっと素直になれるような気さえした。
幕屋まで走って行って扉を開ければ、更紗を見つけられるだろうと、その時は疑いもなく確信していたのだった。
* * *
更紗たち娘数人で使っている幕屋を訪ねても、誰もいない。それなら、族長の幕屋へ行ったのだろうか。仕方なく銀はさらに歩を進める。族長たちの幕屋には、目印として入り口に赤い布が翻っている。
中へ呼びかけもせずその扉を押し開ける。
更紗はいた。
ただし気を失って、見知らぬ男に担がれて。
一瞬の自失からすぐに抜け出して腰の短剣を構えたつもりだったが、賊はそれより早く、冷静だった。音もなく腰の柳葉刀を抜き放ち、ぴたりと銀の正面に狙いを定めている。
歳は族長たちと同じくらいか、やや上か。経験を重ねた男の余裕があり、力は入っていないがまるで隙のない構えだった。身なりも、顔つきも、草原の民とほとんど変わらなかった。一族の宴に混ざっていても違和感がないかもしれない。ただ、むき出しの腕に見える無数の傷が、男が荒事を生業とした賊であることを示している。
盗賊だ。
銀は思った。
こんな白昼堂々。祭りの日に。なんと不届きな。
断片的な思考の嵐の中で、どうにか言葉を絞り出す。
「……更紗を離せ」
男は静かに口元を笑みの形に変えた。しかし目はまるで笑っていない。その余裕が、男の練度を物語っていた。
「小僧。俺は今、金目の物といい女が両方手に入って、いい気分だ。さっさと出ていけば、少なくとも俺が手にかけるのはやめてやるが、どうする」
ごくり、と唾を飲み込む。男は明らかに格上だった。だが、引くわけもいかない。
「……盗賊め」
「盗賊だあ? 別に、草原で暮らしてるところはお前たちと変わらんよ。ただ、牧で生きていないだけだ」
「ほざくな!」
男が笑い混じりに言うと、その肩に担がれた更紗の身体も不安定に揺れた。首に腕に髪に付けた装飾品がからからと音を立てる。定住しない草原の民は、財産は全て女子どもが身に付けて過ごすのが習いである。金目の物と、いい女。男の言葉がよみがえり、かっと頭に血が上った。
盗賊。
どうしてこの、盗賊という連中は、いつも人の人生を。いつも俺から。
「更紗を離せェ!!」
「小僧、死にたがりか!!」
反り刃の短剣をまっすぐに構え、銀は思い切り力を込めて地を蹴った。男は広刃の剣をぶんと振る。身を低くしてそれを避け、がら空きの心の臓目がけて飛び込んだ。しかし男は平然と一歩後ずさり、剣を持った握り拳で低い位置にある銀の頭を殴打した。
「ぐッ……」
脳天に星が飛び、銀は膝をついた。男は笑いながらその肩を踏みつける。
「おいおい小僧、見逃してやるって言ってるんだから、命を無駄にするなよ」
「ふざ……けるな……!!」
「いい女だねえ、この娘。高値で売れそうだ」
「……更紗! おい、起きろ、目ぇ覚ませ! 更紗!!」
せめてと思って叫ぶと、男が足にかける体重がぐっと重くなった。唇を噛んで呻き声を出すことはなんとかこらえたが、跳ね除けようとしても出来ず、目の前に剣の刃が向けられている。あまりの無力さに噛み締めた唇が切れて口の中に鉄の味が広がった。
その時、背後で幕屋の扉がまた開く音がして、やや若い声が聞こえた。
「お頭、だいたい終わったぜ……っと。ヘッ、楽しそうなことになってるじゃねえか」
「おう、馬も引いてきたか」
「ああ。順番にここを離れてる。そいつはどうする?」
会話しながら、新たに現れた若い男は、ぐるりと銀の横を回り込み、お頭と呼んだ男の隣に並んで銀を見下ろした。はじめ驚き、警戒していたが、既に下卑た嘲笑に変わっている。銀より少し年上、奏と同じくらいの若い男だったが、浅黒い肌と日に焼けて薄茶に透ける髪を持ち、南方の身なりをしていた。
「見逃そうと思ったが、しつこそうだ。おまえ、始末してから付いてこい」
「了解」
その間、だんだんと幕屋の周りに人が集まってきている気配を銀は感じていた。地に這いつくばり、肩にかかる重さの屈辱に耐えながら、じっと外の気配を探る。
バラバラなようでいて統率が取れている人の声、興奮した馬の足音、それらをなだめる声、ぶつかり合う馬具の音。貴金属のぶつかりあう音。男たちの足音、息遣い。
銀はそれらを知っていた。知っていながら、生き残っていた。
そして今感じる無数の気配、聞こえてくる雑多な音は、あの時とほとんど同じだった。
唐突に、銀は不思議なほどはっきりと確信した。
今日が大祭であること、馬比べを控えていることを忘れた。目の前の若い男のことも、更紗のことすら、頭から消え去った。
「…………八年前、南で、遊牧中の一族をまるごと襲って潰したことがないか」
「ああ?」
目の前に剣が突きつけられていることも忘れ、肩に乗っている足を乱暴に振り払う。男はたたらを踏み、勢い良く動いたおかげで銀の眉間が一筋切れて血が流れた。それも気にせず、立ち上がって銀は吠えた。
「俺と同じくらいの若衆が二人、あとの男はみんな大人だった! 家族四つ分、男も女も、子どもも、妊婦も……ッ、残らず殺して奪い取って行ったことがないかと聞いたんだ!!」
男たちは顔を見合わせ首を傾げた。わずかな間のあと、ふといやらしく笑う。蛇のようにねっとりとした嫌な顔つきで、男たちは銀の方へ向き直った。
「ああ……そういえば」
怒り、などではない。
ただ、青い炎のように静かに熱く燃え上がる感情だけがあった。
「なんでェ、小僧、あの時の生き残りか」
再び地を蹴って狼のように襲いかかる。渾身の一撃だったが、若い男に受け止められた。刃と刃がぶつかる金属音に、幕屋の外で馬が興奮して嘶いた。
「おお。やるな」
銀の剣を流して自身は一歩後ずさり、しびれた手を振って男はぴゅうと口笛を吹いた。
「片付けたら追って来い。国境で金に換える」
「はいはい、分かりました」
短いやり取りの後、男は更紗を担いだまま、すたすたと銀の横を通って幕屋を出ていこうとする。
「待て……!」
「待つのはお前さんだよ」
追おうとした銀を、またしても若い男が阻んだ。銀は軽口に応じずがむしゃらに突きまくる。
男の得物は、その頭と同じ型の柳葉刀だった。銀の短剣より広刃で間合いも長い。分の悪い戦いだったが、そんなこと頭の端にも浮かばなかった。ただ、勢いだけで突き進んだ。
「危ねえ若造だな」
間合いによる優劣は、こちらの得物が短剣であれば距離を詰めてしまえば大きな問題ではない。むしろこちらにとって優位に働く。理性をなくして勢いだけになったのは、その点から見ると正しかったのかもしれない。賊の男は、広刃の剣をうまく使えず、徐々に銀に追い詰められていく。
「ちッ……」
それでも盗賊の無頼漢で、経験はおそらく銀の何倍もあった。わずかな隙に剣を持ち替え、まっすぐ銀の胸を貫こうとしたがしかし、反り刃を活かして銀が男の首を薙ぎ払う方が早かった。
「……ッ!!」
声にならない声を上げ、真っ赤な血を天井幕まで吹き上げて男が倒れる。一緒になって倒れながら、血を顔に浴びてはっと我に返った。
「あ、幕屋が……」
族長の幕屋が殺生の血で汚された。身体の下で男が数回痙攣したのを最後にどんどん冷たくなっていく。名も知らぬ男を手にかけてしまった。
思考を取り戻したものの、色々な思いが浮かんでは消えていき考えがまとまらない。自失している間に随分息が上がっていたようで、肩で呼吸を繰り返しながら、血にまみれた幕屋を見回し、つとめて冷静になった。
小物が荒らされた形跡があった。女子どもが身につけていない程度の値打ちの装飾品や貴金属を奪っていったのだろうか。祭りで人々が浮かれ騒ぎ、様々なもののやり取りがあり、物をなくしても気付かれにくい。見たことがない馬がたくさんいても不審に思われない。大胆不敵と思った犯行は、むしろ理にかなった行動に思えてきた。他に人がいない幕屋の一帯に、着飾ったまま一人で戻ってきた更紗は、飛んで火に入る夏の虫だったのだろう。
「更紗」
自分を激するように名を呟いた。追わなければならない。
滴る血を物ともせず、銀は立ち上がり、走り出した。
* * *
舞手がいない、探しに行った銀が戻らない、と大祭の本営であるやぐらのそばで、王や靖真、事情を伝えに来た南の若衆に奏、竜らがどうしたものかと話し合っていた。
「しょうがない、銀を探しに行きましょう」
「探しに行ったやつがまた戻らない、とならないようにしろよ。……竜、おまえ、一人で行くか?」
「えっ……やです……こわい……」
大人たちの中に一人放り込まれ不安げな竜に、王はさらに軽口を叩いて怖がらせた。それを靖真がたしなめ、じゃあ俺たちが、と奏たちが足を踏み出しかけた時、大きく人垣がざわめいた。
「銀! ああ、銀!!」
炊き出しの天幕から転がるように奈江が飛び出してきて、さっと人が避ける。その中心に、血まみれの銀がいた。さすがに皆、息を呑む。
「銀、あんた、こんなに、どうして――!!」
「俺の血じゃない。大丈夫だから……」
泣きそうな顔で銀にすがりつく養母の肩を抑え、安心させるようにぽんぽんと叩いた。奈江は納得できない様子だったが、銀はすぐに手を離し、人々のざわめきも、不審がる視線も、なにもかも気にならない様子でまっすぐやぐらまでやって来る。そこに集まる人々をざっと見てから、弟を見下ろした。
「竜、スイの準備してくれたか」
「え? ああ……うん、した」
「連れてきてくれ」
竜が目を丸くしながらその場を離れると、銀は靖真の前に立ち、深く頭を下げた。
「親父さん、頼む。親父さんの剣を貸してくれ。俺のじゃだめなんだ」
馬上試合の予定でもあれば、力任せの戦闘にも耐えうるあつらえの得物を用意していたかもしれない。けれど馬比べにしか出るつもりのなかった銀の短剣は日常用で、兎など獣をさばくのに使える程度だった。
言葉足らずな養い子の様子に、靖真は銀が見た目より混乱していることをさとった。銀は基本的には礼儀正しく、竜の無礼もうるさくしつける方だ。この場で、王に事情を説明せず、要件だけ述べようとするところからも銀の慌てぶりは明らかだった。靖真は王に目で合図する。老王は珍しく真面目な顔で頷いた。それを確認し、晴れ着が血で汚れるのも厭わず養い子の肩を抱き、落ち着かせるようにゆっくりと言葉をかけた。
「剣を得て、何を斬るつもりだ。お前の剣で、何を斬った」
「…………――盗賊が」
銀は一度自身を抑えるようにゆっくり深呼吸して、それから口を開いた。しかし出てきた声はひどくかすれていて、ほとんど息にしかならない。靖真が抱く力を強めると、逆に銀は力を抜いて、やがてはっきりした声で話しだした。スイを引いて戻って来た竜が、まばたきもせずその様子を見つめている。
「盗賊が、幕屋の方へ入り込んでいた。大祭で、人が出払ってる隙を狙ったんだろう。更紗が連れ去られた」
「なんだと――」
靖真だけでなく、王も驚愕の声を上げた。銀の言葉が届いた者が後ろの者へそれを教え、さざなみのように言葉が一族に伝わり、ざわめきが広がっていく。
「さっき、俺の足止めに残った男を斬った。他の連中は先行して逃げていて――奴らは、国境で更紗を売ると言っていた」
一呼吸分の間を開けて、銀はそっと靖真の身体を押し戻した。その顔は静かな決意の色一色だった。
「更紗は俺が連れ戻す。だから、剣を貸してくれ、頼む、親父さん」
さすがの靖真も、すぐに言葉を返すことはできなかった。王の方がやや冷静だったが、それでも出た言葉は銀に一蹴された。
「待て、一人で行こうとするな、銀よ。今若いのを集めるから、それで――」
「奴らはもう随分先行してる。俺とスイでなきゃ追いつけない」
それでもな、と王は頭をかきむしり、やぐらの脇に控えていた側近を呼び二、三指示を出した。それでも靖真が迷っていると、場違いに元気で陽気な影がひとつ、ぽんと飛び込んできた。
「兄貴、おれも行く!」
「竜」
スイの手綱を放り出して走り寄ってきたらしい。竜はぎゅっと銀の服の裾を掴んで必死にすがりついていた。表情は緊張で強張っていたが、決意を秘めているらしい眉は銀と同じくらい強く固く引き結ばれている。
「おれとカザミじゃ置いてかれるけど、それでもおれは、兄貴とスイが行った場所何となく分かるから、追いかけられるから、おれも行く! 一緒に行く!」
「竜…………おまえはいい。おまえだけは、来るな」
しかし銀は弟の必死の訴えをも切り捨てる。なんで、と竜は必死に追いすがろうとしたが、銀は竜の頭に珍しく優しく手を乗せ、静かに囁いた。場違いな静かさだった。
「…………父さんたちを殺した、あの盗賊だった」
竜は言葉を失い、他の面々も息を呑んだ。しかし竜は半瞬でその衝撃から立ち直り、さらに強い力で兄の服を引っ張った。
「……それなら、なおさら!!」
「竜……もういい、もういいんだ。おまえには、俺の後を追わせるようなことをさせて悪かったと思ってる。…………けど、おまえはもう、父さん母さんたちのことなんて、覚えてないだろう?」
竜がぎくりとしたように唇を噛み、服を掴む手が震えた。銀は落ち着いた仕草でその指を一本一本離す。
「おまえはもう、親父さんの家の子になっていい。俺にはそれはできなかった。俺に付き合うことなんて、ないんだ」
竜の指を全部外し、弟がうつむいて目も合わせられないのを確認すると、銀はもう一度義父に求めた。靖真も、自失から立ち直り銀と向き合う覚悟を決めていた。
「頼みます。更紗を連れ戻すから――そのための、剣を」
深々と頭を下げる銀に、靖真は腰の剣を外し銀に手渡した。壮年の男が使うその剣は、銀が使うには少し大きすぎたが、銀は無言で受け取って自分の腰にそれを佩いた。
すぐに踵を返し、竜が連れて来ていたスイに飛び乗る。駆け出そうとするその背に、靖真は、誰も聞いたことがなかったような大声で呼びかけた。
「銀、必ず戻ってくるんだぞ! おまえも、俺の息子だ!!」
銀は言葉では答えず、一度手を振って分かったと言うように合図した。それからスイをあっという間に駆け足に持って行き、草原の誰にも追いつけない風となり、あっという間にあっという間に姿を消した。
すがるものがなくなって、自分を支えていたものも失ってしまったのか、竜は力なくその場に崩折れた。幼い子どものような泣き声が続いて、奏が近寄り、まだまだ小さな背をさすってやった。
「奏ちゃん……奏ちゃん」
「竜」
本当ならば、奏ではなく実の兄の名を呼びたいのだろう。けれど優しい拒絶を真摯に受け止め、それも出来ない。への字の口で、大きな瞳からぽろぽろ涙をこぼして、突き付けられた思いを全身で分かろうとしている。
今この子は、兄に置いて行かれ、頼りなさや寂しさから泣いているのではない。子どもから大人へ脱却する嵐の中で、目もつむらずに真っ向から風を受けとめて泣いているのだ。
「……奏ちゃん、おれ、兄貴が怖かった。怖かったよ」
「ああ」
嗚咽混じりの言葉は意外とはっきりしていた。奏は焦らず、次の言葉を待った。
「兄貴の言ったこと、あってるけど……でも……でも……!」
ぐいと視線を上げ、嗚咽を必死で飲み込んで、竜は力強い眼差しを天に向けた。その目を本来向けるべき相手がいないから、仕方なくおまえを見てやっているのだと言うような不敵な顔で。
「ちがうのに! 付き合ってたんじゃない、そんなんじゃない! おれは、兄貴に……兄貴と……」
兄貴みたいになりたくて。
兄貴と一緒にいたくて。
最後まで出てこずに喉を震わすだけで終わったが、言いたいことは十分わかった。胸を引き裂くようなその叫び声には、しかし強い意志が含まれている。慰めるためにさすっていた手を止めて、奏は尋ねた。
「竜。それでおまえは、どうする」
八年前、なにもかも覚束なかった小さな子どもは、当時の兄より大きくなって背も伸びた。きっとこれからもっと大きくなる。自身を誇れる技も身に付け、子どもは今、絶対的な庇護から羽ばたこうとしていた。
「奏ちゃん」
口をぐっと引き結んで、竜は顔を上げた。
竜。銀の弟。弓比べの勝者。盗賊に寄って何もかも奪われた――。
「おれも行く。兄貴がなんて言ったって、おれも追いかける」
その目は兄とよく似て、決して自分を曲げない強い意志を持っていた。
「これは、おれが決めることだから」
王が差配した若衆と馬たちが集まって来た。その中に、竜の愛馬であるカザミも、当然のように混ざっていた。
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