二 邂逅(2)

 草原の南端に位置するその街は、南方から届いた珍しいものと人とのやり取りで、今日も賑わっていた。草原のどこよりも早く初夏が訪れているようで、強い日差しを受けて濃い緑の葉が輝き、照り返しと人の熱気を受けてじっとりと汗ばんでくるような陽気だった。

 市に到着した靖真たち一行は、それぞれ目的に沿って別れ散り散りになった。女たちは買い物へ出かけ、更紗と奈江にも、護衛代わりに男が一人付き合うことになったので銀は引いた。靖真が市場の長へ話をしに行くので、銀が二人に付き合うのが通例だったが、銀を連れて買い物に行ってもつまらない、という意見が出たのだろう。銀も同感だった。

 竜は子どもたちでまとまって遊びに出て行ったので、銀は一人で市場をウロウロしながら知り合いを探した。探せば少しはいるもので、よく仕上がったスイの自慢などして時間を潰した。

 本当に、市場に盗賊が出るのだろうか、ぼんやり過ごしながら、ふと思う。ここは草原の南端。八年前に家族が襲撃を受けた際、竜と二人必死になって逃げてたどり着いた街だ。平和に暮らしていた家族を襲った悲劇に、草原の民が受けた衝撃は大きかった。父たちが流れていた遊牧のルートや牧草地は今はもう誰も使っておらず、この市場は盗賊への備えも怠っていないはずだった。

 ここからもう少し南下すれば草原は終わり、船であちこちと交易して暮らす南国へたどり着く。その地理的条件から、確かに見知らぬ人間が絶えず行き交う街ではあったが、草原の民は自由気ままに生きているようで実はとても仲間意識が強く、よそ者に敏感だ。そこに刃を隠し持った盗賊が入り込み、悪事を働いてまたこっそり出ていくことなどが可能なのだろうか。

 ぼんやり考えにふけり、こんなことを一人で考えるくらいなら靖真に付いていけば良かったと思っていると、

「おっ、良い馬がいる」

 ふと、声をかけられた。

 銀とスイの組み合わせは草原ではわりと有名だったが、それでもすべての人に知られているわけはない。目ざとく、人懐こい者に声をかけられることも多く、銀は振り返った。

「…………あれ?」

「…………ああ!」

 振り返った先にいたのは見知らぬ男だった。見知らぬ――と思ったが、逆光を受けて鈍く輝く髪と、彼が連れている黒馬になんとなく見覚えがある。どこで、と考え始めた途端に思い至った。ここに来る途中馬が逃げ出してしまった、あの時手伝ってくれた男だ。

 男もほぼ同時に気付いたらしく、ぱっと明るく笑った。あの時は気付かなかったが、銀とほぼ同年代の若い男だった。改めて見るとくすんだ金髪は日に焼けているせいで、肌もよく焼けて浅黒い。この市場には多くいる、南方の人間だろう。

「この前は助かった。改めて礼を言う」

「やっぱり、この前馬をとっ散らかしてた人だよな。そうか、あんたたちもここへ向かっていたんだな」

 銀が手を差し出すと、相手は屈託なく握り返した。

「俺は南の一族、靖真の養い子の銀という。あんたは?」

「俺はアラム。商人だ」

 思った通りの返事に頷いて、男に並ぶ馬へ視線を移す。見惚れるほどに美しい、よく仕上がった馬だった。

「そちらの馬も、良い馬だな」

「俺の相棒、みどりと言う。あんたの馬は?」

「スイだ」

 二頭の馬は、それぞれの主人が気安げなのを見て取ったのか、こちらも馬同士お互いを見定めるように深い色の瞳でじっと見つめ合っている。その様子が少しおかしく、銀もアラムも小さく笑った。

「この前も見ていて思ったけど、いい馬だし、いい乗り手だ。さすが、遊牧民は違うな」

「あんたも、よく馬と一つになるもんだと思ったよ」

 馬はお互いに見つめ合っていたが、それぞれの主人は相手の馬にばかり視線を注いでいた。しばし沈黙が流れ、アラムが思いついたように口を開いた。

「連れの到着が遅れて暇してたんだ。どうだ、あんたも、時間があるなら遠駆けしないか」

 魅力的な提案だった。勢いで頷いてから、少し待ってくれと言い継いだ。

「家族に伝言してくる」

「かみさんか?」

「いや、弟に」

 少し待ってくれともう一度言い置いてその場を離れようとした解き、少し高い声が遠くから銀の名を呼んだ。市場の喧騒の方からだったが、よく通る声だった。

「ぎーん! こんなところにいた!」

 更紗の声だった。銀は手を振って気付いていることを知らせ、小走りで彼女へ近寄った。商人が並ぶ中心地から、銀を探し回ったのだろう、少し息が上がっていた。

「もう、あんたってなんでいつも人がいないところへ行っちゃうの? 毎度探すのはわたしなんだからね?」

「悪い。更紗、竜は?」

「お昼ごはん食べてるわ。姉さんたち、少し遅れるみたいで。あんたも食べるでしょう? 呼びに来たのよ」

 成長期の竜は、一度食べ始めるとてこでもその場を離れない。市場はいつもとは違う食事にありつけるので特にひどい。銀は含み笑いして首を横に振った。

「いや、俺はいい。ちょっと遠駆けしてくるから、竜や親父さんたちに伝えといてくれ」

「ええ? 遠駆けって、あんた……」

 更紗は呆れたようにため息を付いたが、少し離れた場所に見事な馬体とその主の姿をみとめ、苦笑した。

「分かった、伝えておく」

「助かる。よろしくな」

 それだけ言って戻ろうと思ったが、ふと思いつき、踵を返そうとする更紗を呼び止めた。

「更紗、いい色糸は見つかったか?」

 更紗は振り返って少しだけ不思議そうな顔をしたが、一瞬後に意味を理解し、風に流れる髪を押さえて微笑んだ。

「うん。いいのが見つかったわ」

 遠ざかる更紗の背を見送って、スイとアラムの元へ戻ると、彼はもうみどりに跨っていた。待たせたなと一言謝罪すると、いや、とアラムは首を振り、ついでのように言った。

「かみさんか?」

「違うって。そんな年でもない」

「そうか? 同じくらいだろ?」

 確かに十八となれば妻を娶り、子を持つ友人もいる。女なら家庭を持つ者はもっと多い。しかしこれ以上この件に関して話を続けるのは面倒で、銀は乱暴に話を切った。

「まあいい。走ろう」

「どこへ行く?」

 このあたりの地理に明るくないのかもしれない。アラムは銀に任せる、というようにみどりを数歩後じらせた。銀は少し考え、

「ついて来い」

 とだけ言い置き、スイの手綱を強く引いて走り始めた。

 並足から、というようなぬるいことはしない。最初から駆け足だ。それでもはじめは速度を抑えていた。けれど、市場の喧騒があっという間に遠ざかり、草原の真ん中に飛び出ても、後ろからついてくる足音は乱れなかった。これなら、と思い、銀は一気にスイを最高速度へ引き上げた。

 ぴゅうぴゅうと風を切る音が耳に痛い。景色が次々と後ろへ流れていく。けれど空は、草原の大地は、少しも揺るがない。動かない。広い草原は、遥かな空は、まるで動じない。

 スイの動きはいつもどおり安定していて、それでいて疾かった。スイだけではない、少し後方からいつの間にか隣に並んでいたアラムとみどりの動きもひどく落ち着いていて、それでいて鋭かった。銀がどんなに飛ばしても、スイがどこまで遠くまで駆けても、この男たちはついてくる。

 ここのところ、そんなことは滅多になかった。馬比べでは他者と競うこともほとんどなく、いつも己との戦いだった。竜と走っていてもたまに置いていってしまう。壮年の男たちと走っていても、彼らを引き離すことさえあれ、引き離されることはなかった。

 スイと銀は、そういう組み合わせだった。

 だから少し、試してみたくなった。そんな気分になったのも随分久しぶりのことだ。

 スイの腹を締め、更に疾く、と命じる。スイはそれに応え、銀も知らない速度へ突入する。それでもアラムとみどりはついてくる。空気を切り裂く矢のように、二頭と二人は、いま、草原を渡る風よりも疾かった。

 こいつは本物だ、と心が感じた。

 アラムとみどりは、本物だ。間違いなく草原で一番の、乗り手と馬だ。

 自分と同じく。


 走った時間は、長くなかった。

 小さな水場で馬を止め、水を飲ませ休ませた。二頭が水を飲み草を食む間、二人も草原に横たわり、ぼんやりと空を見上げた。

「スイは、いい馬だな」

 しみじみと紡がれた言葉に、銀は素直に頷く。

「ああ、俺の一番の相棒だよ」

 そして首をめぐらせみどりを眺め、黒い馬体が汗をかき、日差しを受けくろぐろと輝いているのに目を細めて呟いた。

「みどりも、いい馬だな」

「スイには敵わないよ」

「いや、おまえとみどりの方が、速いよ」

 主が己のことを話しているのを聞きつけたか、二頭の馬は仲良く揃って首を持ち上げた。そんな相棒たちに、なんでもないと手を振って合図する。二頭は不満げに低く嘶いた。

「スイとあんたのほうが速いって」

「いや、みどりだな」

 どちらも相手を褒め称えることにかけては譲らなかった。何度か同じやり取りを繰り返し、アラムのほうが先に折れた。

「わかった。それじゃあ、おんなじだ。俺たちは、おんなじに速い」

 おんなじ、という子どもじみた言い方が笑いを誘う。銀は笑って、わかった、と答えた。

「わかったよ。同じ、な。俺とおまえは、同じ、だ」

 そうだな、と頷き合って、しばし沈黙が流れた。やかましい竜と違い、銀は寡黙な方だ。銀が静かすぎるから、竜が代わりに賑やかにしているとも言えよう。沈黙は、相手によってはよく知る者でも気まずくなるものだが、この場合は違った。草原を渡る風に耳を澄ませ、時々馬の尻尾が虫を散らすのを感じ、初夏の陽気にまっすぐ伸びた草が擦れあって鳴るのをただただ、見ている。

「あんた、年はいくつだ」

 唐突な問いも不快感はない。銀は短く答えた。

「十八」

「同じだな。スイは?」

「七歳馬だ」

「みどりはひとつ下だな」

 そうか、と銀は頷き、それから、銀にしてはごく珍しいことに馬についてではなく本人について質問した。

「おまえ、家族はいるのか」

「親父だけだな。俺が負う家族はない」

 そうか、と銀は静かに答えた。続いてアラムが問う。

「あんたはどうなんだ」

 銀が家族について問われることはあまりない。銀と竜の兄弟は、草原では特異だった。誰もが知っている馬比べの勝者であり、その弟は弓比べの勝者で、南の族長の養い子で盗賊に殺された家族の中生き残ったたった二人だった。養父母に引き取られてからこれまで、ずっとそんな色眼鏡で見られていた。養父母と更紗、竜という家族の中では自然体でいられたし、いつしかそのような視線は気にならなくなっていたと思ったが、果たしてそれは本心だったろうか。

「……俺の家族も、弟だけだ」

 アラムはそれ以上追求しなかった。ふうん、と答え、草をむしると唇に押し当てピー、ピー、とよく通る草笛の音を奏でた。それは馬を追う呼声にも似ていて、二頭の馬の耳がピンと立つ。二頭とも、草原の翠によく映える漆黒の馬体をのんびりと横たわらせている。跳ね遊ぶような若駒ではないが、年を重ねた落ち着きがある二頭はその色だけでなく似通った何かがあるようで、初対面だというのに打ち解けていた。

 同様に、外見はまったく似通ったところはないがどこか通じあうところがある若者二人は、静かだが豊かな感情に満ちた沈黙の中、ただ、草原の風を感じていた。


「そろそろ帰ろうか」

「そうだな。帰りは、俺に先導させてくれ。間違っていたら言ってくれ」

 知らぬ土地のはずだが、自信があるのだろう。アラムの言葉に迷いはなかった。それも面白い、と銀は首肯する。

「帰りは、急がなくてもいいよな」

 その言葉にも頷きだけで返した。帰路は行きとは違い、標準的な駆け足だった。時折遊ぶように足を速めては、すぐにまたゆっくりに戻る。アラムが方向を間違えることはなく、銀はただ後をついていくだけだった。銀にとってそれが珍しいことであったように、彼にとっては行きがそうだったのだろう。昼下がりの草原は穏やかで、やがて遠くに市場が見えてきた時、惜しむような気持ちになった。

 市場の手前でふたりは馬を降り、向かい合った。主たちより少し早く、二頭の馬は別れを惜しむように互いの鼻面を擦りつけあっていた。

「時間があるなら、うちに招いてもてなしたいところなんだが」

「ありがたい話だが、さすがに連れが到着してるはずだ。遠慮しておくよ」

 銀の二度目の誘いを固辞して、アラムはからりと笑った。

「また会うことがあったら、その時はぜひ」

「ああ。また走ろう」

 銀の答えにアラムは笑みをさらに深めた。そうすると随分幼く見える。笑顔しか知らないような顔で、アラムは言った。

「風がいつも共にあるように」

 草原の民のような言い方に銀も破顔する。最後に軽く握手を交わし、二人は別れた。


 一度スイを繋ぎに戻ったが、まだ竜や更紗たちは帰っていなかった。ならば食べ物屋で昼飯の最中だろうと当たりをつけて街へ戻る。入ったことのある店を幾つか覗いていると、後方から呼び声がした。

「銀! おーい、銀!」

 聞き慣れた家族のものではないが、よく知る声だ。銀は振り返り、予想通りの姿をみとめ手を挙げた。

「奏ちゃん」

「久しぶりだなあ、銀。元気だったか」

 後ろから走って銀を追いかけてきたらしい、奏は肩で息をしながら笑って銀の背を叩いた。やめろよ、と銀はそれを避けながらおかしくて笑ってしまう。奏は逃げる銀を面白がって更にあちこち確かめるように身体に触れ、最後に頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。彼は、遊牧の重労働をしながら暮らす銀より痩せて身体つきは薄かったが、背は高かった。

「おまえ、また馬ばかり相手にしているんだろう。更紗が呆れていたぞ」

「もう皆に会ったの? まだ飯食ってる?」

「竜はまだ食ってたよ。あとはうちのも混ざって、お茶会だ。長くなりそうだから俺は出てきた」

 お義父さんも戻ってきたし、という小さな付け足しに銀は吹き出した。奏は更紗の姉である香奈江の夫で、靖真の娘婿にあたる訳だが、彼らが結婚する際は色々問題があった。楽師という、牧の営みから外れて生きる奏と、族長の長子である香奈江が一緒になることを良しとしない者が多かったのだ。結局奏は香奈江を盗み出し、香奈江もそれを望み、今は子も生まれ円満に暮らしているが、いまだに奏と靖真の関係は円満とは言えない。

「親父さん、早苗ちゃんに会うの楽しみにしてたよ」

「そりゃ早苗は初孫だからね。俺はいまだに、どこの馬の骨とも知れない奴だよ」

 疲れを感じさせる言い方に、銀は笑っていいものか分からなくなってきてごまかすように近くの屋台を示した。昼飯抜きで駆けてきて腹が減っていたし、女たちがかしましく話す中へ行く気にはなれなかった。

「そこで食おうよ。俺、腹が減ってんだ」

「いいけど、本当に遊んでたんだな、おまえ。でかくなってもガキのままだな。食ってばっかの竜と一緒だ」

 普段竜のことをガキ扱いばかりしているが、年長者の奏にかかれば銀も竜もほとんど同じであるらしい。バツが悪くなった銀は、何か話題を変えようと、屋台の椅子に腰掛けながらそういえばと膝を打った。

「そうだ、奏ちゃん。さっき俺、俺とスイと同じくらい速いやつと馬に会ったんだ」

「へえ」

 本当に驚いたように奏は眉を上げた。家畜を育てているわけではないが、奏も草原の男であり、銀とスイが優れた乗り手と馬であることはよく分かっている。純粋に興味を惹かれたのだろう、身を乗り出してきた。

「そいつはすごいな。どんなやつだったんだ?」

 銀が先ほどの出来事を説明する間、奏は目を細めてうんうんと頷き話を聞いていた。銀は奏と話す時だけ饒舌になる。それは奏が聞き上手だというせいもあるが、なにより、彼と香奈江が結婚する前から銀は奏を知っているという気安さによるものも大きい。

「スイと同じくらい速い黒馬か。そりゃ楽しかっただろうな。遠駆けに出かけちまうのも仕方ない」

「うん……楽しかった」

 珍しく素直に感想を述べた銀に、更に目を細めて奏は思ったより大きくならなかったその肩を叩き、頭を撫でた。銀はどちらかと言うと母親似で、立派な戦士だった兄弟の父の身体的特徴は、むしろ竜が受け継いだ。

「よかったなあ、銀」

 初めてお互いを知ったのはおそらくいつかの大祭。そして兄弟がこの南の市場へ逃れて来た時、たまたま滞在していた楽師がまだ少年の奏だった。全てを亡くした兄弟と共に、葬送の調べを奏でた。場違いによく晴れた秋の空の下、涙が枯れ果ててもまだ泣き続ける竜の横で、ひとつぶの涙もこぼさず唇を噛んで表情をなくし佇む銀を、思わず抱きしめ、おまえも泣いていい、泣いていいんだと言って自分のほうがぼろぼろ泣いてしまったのも、奏だった。


 二人がひとしきり近況を交換し合ったところで、見計らったように竜が現れた。どうやら、大量の昼食を平らげた後、街の子供達と取っ組み合いの喧嘩をして遊んでいたらしい。服があちこち泥だらけになっていた。養母さんに怒られるぞ、と言うと、慌てて服の汚れを払ったが後の祭りだった。

 銀と奏が今まで二人きりで話していたことに怒ったが、銀がアラムとみどりのことを話すと目を輝かせて続きをせがんだ。

 やがて露天が少しずつ引き上げて行き、三人は街から少し離れた宿営地へ戻った。既に更紗や靖真たちも帰っており、女たちは市で求めた品々を広げてまたもあれこれと相談を始めている。やはりかしましいそれを横目に、銀はそっと靖真へ近付いた。

「親父さん」

 何か情報は得られたのか、目だけで問うた。女子どもも多く、あまり堂々と賊について話すのは憚られた。靖真も少し話しづらそうに目を眇めたが、やはり小声で返す。

「ここのところ、現れていないそうだ。北の方へ逃れたようだ、と」

 それから、短い間考え。

「おまえのことだから、黙っておいてもそのうち聞きつけてくるだろうし、初めから言っておく。――どうも、年季が入った輩のようだ。人数も多いようだが、足取りがつかめない、と」

 南の一帯を縄張りとしている、年季が入った賊の一党――それが意味するところは、十分に察せられた。銀は表情を変えなかった。八年という時間は、態度を繕うことが出来るほど、熱く焼けるような怒りを静かな深い感情に変えていた。

 静かに見えたとして、それが内包するものが穏やかなわけでは決してない。青い炎が一番熱いように、静謐に見えるものほど煮えたぎる思いを孕んでいることも多くある。

 さすがにきつく握りしめることは避けられなかった銀の拳が小さく震えるほどに力が入り、爪が皮膚に食い込んでいるのを見て靖真が何か言い募ろうとし、横でやり取りを見ていた奏が肩を叩こうかと膝を一歩前へ詰めた時、幕屋の入り口で品評会をしていた女たちから歓声が上がり、次いで赤子の鋭い泣き声が響いた。糸か布かを引っ張りすぎたのを諌めたようだ。ふにゃふにゃ泣き出した子をあやすのは更紗だった。靖真たち族長夫妻にとっては初孫に当たり、更紗にとっては姪となるその子は、母によく似た腕の主にすがり、必死にしがみついて自己主張している。

 小さな子を揺すってあやす更紗の顔は穏やかで優しかった。

 靖真と奏が気付いたときにはもう、銀の拳はゆるゆると解かれ、なんとも言えない感情をたたえた瞳でどこか所在なげに更紗を見ていた。静かな怒りも険も既になく、じっと一点を見つめるその目は、まるで母の絶対的庇護を求める赤子と同じような頼りなさだった。

 その瞳が持つ色に、ゆるく解かれた手がなにか求めようとして伸ばし切れないその感情に、ごく短い名前がつけられることを知っているのは、靖真と奏だけだった。

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