二 邂逅(1)

 草原の季節は駆け足に過ぎ去っていく。春先に草原のあちこちで咲いていた花が散り、代わりに緑が濃くなって行く。家畜の出産がひととおり終わると、初夏の大祭に向け準備が始まった。

 女たちは晴れの日の衣装作りに励んだ。飾り紐を組み、布に色糸で鮮やかな文様を描く。氏族の代表である更紗の衣装は、連日女たちが額を突き合わせ、ああでもない、こうでもないと話し合い、笑い合いながら仕立てられた。多くの祈りを受けて舞う舞い手の衣装は、多くの人の手が入った方が縁起が良いとされている。男たちもひと針ずつ刺繍を刺すことを命じられ、銀は面倒で逃げ回った。

 男たちはそれぞれ出場する競技の準備を始める。時間をかけ愛馬の調整を行い、得物を入念に手入れする。弓を使い始めたばかりの子どもたちが、鍛錬する竜におそるおそる近付いて教えを請うているのを見て銀は感慨深かった。

 銀はといえば、これまでと同様、馬比べの準備に専念していた。とは言っても、それは普段から行っている放牧の生活とほぼ変わらない。馬をよく走らせ、休ませ、食べさせる。いつも以上にふらりと遠駆けに出かけ、なかなか帰って来ないことが多くなる銀に、女たちは毎年文句を言う。しかし毎年銀が馬比べで勝利するので、結局は笑って送り出し、いつも迎えてくれるのだった。

 次の移動の時に、南端の市場に寄ろうと思う、と靖真が告げたのは、ある日の夕食時だった。以前銀が久しぶりに帰宅した日とは違いいつもどおりの夜であり、床に広げた食事を囲んでいるのは、族長夫婦と更紗、そして兄弟だけだ。

「そこらで少し過ごしたら、次は都へ北上せにゃならんからな。よく肥えさせておけよ」

 馬の放牧を主に任されている銀が、パンで口を一杯にして頷く。奈江が銀のカップにお茶を足しながら更紗へ声をかけた。

「色糸をもう少し揃えておく? 朱色が足りないのよね」

「赤みよりも、緑が欲しいな。葉の部分の刺繍が寂しいもの」

 ごくりとパンとお茶を飲み込んで、銀は幕屋の隅にまとめられた布の山を横目で見た。

「まだ出来ないのか、衣装」

「舞も出来ない仏頂面には分からないでしょうけど、繊細な作りなのよ。それに、手伝ってくれずに逃げ回る人もいるしね」

 一つ言うと十の文句が返ってくる。さすがに靖真がたしなめるように更紗を睨んだが、非があるのは基本的に銀であり、更紗はちっとも堪えない様子だった。奈江が銀と更紗を苦笑交じりに眺め、話を変える。

「銀の衣装もそろそろ虫干しして、繕わないとね。あんたの背が伸び切って安心したよ」

「おれはまだまだ伸びるよ!」

 ここぞとばかりに、竜が元気よく手を挙げた。その無邪気さに、毒気を抜かれたように靖真は笑い、竜の頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。

「竜は、まだまだガキだなあ」

「なんだよ親父さん」

「でも竜は、銀が竜くらいだった頃より大きいし、そのうち銀の背を抜きそうだねえ」

「兄貴より大きくなるよ、おれ」

「分かった分かった、早く食って寝てろ」

 軽くあしらうと、竜は不満げに鼻を鳴らした。不意と兄から顔を背け、煽るように言う。

「兄貴はそういう風に兄貴ヅラするところが嫌いだ」

「……おまえ、最近本当に生意気だな。今度仕事をサボったら本当に怒るぞ」

 竜はぎくりと身を震わせた。急いでまだ皿に残っていたものを口の中に詰め込み、お茶で流し込む。ごちそうさまです、と口の中でもごもごと言って立ち上がり、外に出ていった。

「夜に何しに行くんだ、あいつ」

「カザミを見に行くんだよ。昼間は他の子に弓を教えたり、自分の弓の練習ばかりでカザミの世話に来なかったから」

 呆れながら銀が答えると、靖真はそうかそうかと頷き、おかしそうに笑みを深めた。

「竜は、本当におまえに弱いな、銀」

「……兄貴だからさ」

 簡単に返すと、その答えが気に入ったのか靖真は声を上げて笑い、酒をぐいと煽った。養父が楽しそうなので銀も良い気分になってきて、奈江に酒を注いでもらう。珍しい、とからかうように更紗も笑った。

 和やかな食事風景だったが、やがて静かに靖真が口を開いた。

「銀、おまえ前に、南の方で盗賊が多いようだと話していたな」

 馬を探して戻って来た日の出来事だ。銀もよく覚えていた。靖真が、竜がいなくなった今を見定めてその話を始めたのだということも察して、一つ頷く。

「……家畜が――馬がよく狙われるという話だった。もちろん、いくつかの家族で協力して後を追ったこともあるけど、捕まらなかったらしい。……組織だって動いているんじゃないかな」

 ふむ、と頷き考え込み始めた靖真だったが、銀が珍しく歯切れが悪そうな顔つきなのに気付き、どうかしたのかと促した。銀は奈江と更紗を気にして少しだけ渋ったが、結局聞いたままの事を伝えた。

「……市場で女をさらうこともあると言っていた。何人か帰って来ない女がいるらしい」

 家長と銀の会話を無言で見守っていた女二人が眉をひそめ、奈江は娘の手をぎゅっと握った。靖真は半ば予想していたのか、表情を変えずにそうかと繰り返した。

 牧で生きる遊牧の民と、点在する街で定住して生きる人々と、草原の数少ない資源を奪って生きる盗賊と。それらは決して交わらず、けれど常に干渉し合い、奪い奪われ、与え与えられ営みを繰り返している。

「……大人数で行けば目立つから狙われることも少ないだろうが、一応、次の市では二人とも、一人で行動するなよ。銀も気にしておけ」

 はい、と三者は一様に答える。それから、ふと思い出したように奈江が表情を和らげた。

「市には、この時期ならそうと香奈江がいると思いますよ。鷹の知らせも来ましたし。いろいろ聞けると思うし、久しぶりにあの子達の顔が見れたらいいのだけど」

 更紗の姉であり二人の長子である香奈江と、その夫である奏の名に、そういえばと靖真も銀もほとんど同時に手を打った。奏は遊牧を生業とせず、主に笛を扱う楽師として生活していた。祭や慶事弔事の時はもちろん、日常においても、祈りを曲に載せ、願いを歌に込め、楽は生活に根付いている。彼ら楽師はあちこちの市や小さな集落を転々とし、請われるままに楽で人の心を慰めて暮らしていた。

 更紗にとってもちろん香奈江は仲の良い姉であり、銀にとっても奏は気の知れた兄貴分だった。

「そうだな。会えるといいが……」

 定住せずに流れて暮らす草原の民は、離れて暮らす氏族と連絡を取り合う確実な方法はなく、会いたい時に会いたい人間と会えるわけでもない。遊牧のルートはある程度決まっており、誰がどこにいるかだいたい予想することはできるが、それをあてにして出かけても、全く違う場所にいるということもざらである。だからこそ、普段離れて暮らす家族とたまに出会えば、その時間を大切にして過ごす。

 もう長いこと顔を見ていない家族や友人を思いながら、夜は静かに更けていった。


 * * *


 あ、と思う間に統制を失った羊があちこちへ飛び出していった。

 一面の緑に白い獣が散らばる。転んで羊の群れに突っ込み、騒動の発端となった少女が大声で泣き出した。子どもたちがわあわあ歓声と悲鳴を上げ、犬が放たれる。好きに群れていた馬たちの中に他の家畜たちが飛び込んで行き、興奮を煽られた馬が更にあちこちへ駆け出して行く。

「あらまあ、大変」

 まったくそう感じさせない調子で奈江が呟き、ちょうど騎乗していた銀や靖真が家畜を追いに出た。更紗も荷車を引いていた馬の綱を素早く解き、馬具を付ける間も惜しんで飛び乗った。

 よくしつけられた犬が羊や山羊の前に回り込み、追いついた子どもたちがチョッ、チョッと家畜を追うときの呼び声を出し、動物たちを落ち着かせる。それらは比較的小柄でおとなしく、子どもたちと犬だけで十分に対応できた。けれど馬や牛はそうもいかない。早駆けする馬を抑えられなければ、またそれを追って何日も遠出する羽目になる。そうなったら市場でのうまい食事もお預けだ。銀は一気にスイの足を早めた。

 後方をちらりと振り返ると、もはや小さく見える荷車の近辺で、残った者がなんとか場を収めようとしている。靖真や更紗といった騎乗した者は四散する馬を囲い込む。銀に付いてきている者はいなかった。一番面倒なのはおまえに任せた、という無言の要求を受け取り、銀は軽く舌打ちする。せめてもうひとりいれば、もう少し簡単だったのに。竜の愛馬であるカザミも追う馬の中に入っており、竜は地上で小さな子たちと一緒になって山羊をまとめていた。

 仕方なく前方に集中する。追いつくことは容易い。後は少しずつ群れの動きを制限し、速度を緩めていけば良い。スイは群れの中でも上位に属する馬で、スイの動きに従う個体も多い。

 しかしいくら銀が片側から圧力をかけても、遮るもののない草原では反対側に走っていくばかりだ。丘の傾斜を利用すべく進路を斜めに取ったところで、丘の上に馬影が見えた。

 逆光でもそれと分かる、美しい漆黒の馬だった。丘の上から駆け下って来て、好き放題走っていた馬たちを牽制する。銀もその動きに合わせて旋回した。ピュイ、ピュイと口笛を吹いて馬を導くと、あれほど無秩序だった馬たちが統制を取り戻していく。

 視線を上げると、黒馬の主が同様に馬を囲もうとしていた。丘の上から見ただけで、どのような場面か悟り協力してくれたのだ。見知らぬ馬に群れは怯えたが、それを煽らないよう静かにだが確実に囲いを狭めていく馬術は見事だった。

 銀の視線に気づいたか彼も顔を上げる。草原ではあまり目にしない、色あせた金髪が陽光と風を受けてきらりと光った。見知らぬ男だ。

「ほかにも、逃げたやつはいるのか!?」

 大声で問われる。途中で群れから離れていった馬はなかった。銀も大声で答える。

「いや、いない!」

 そうか、と答えて男は笑ったようだった。彼の馬――スイと同じ、美しい濡れ羽色であるそれが、主の笑顔を知っているように楽しげに嘶いた。

「助かった、ありがとう!」

 馬上で彼は大きく手を振った。気にするなということだろう。それでも銀は続けて言った。

「礼を言いたい。うちに招かれてくれないか?」

「いや、いいよ。気にしないでくれ、お互いさまだ!」

 遊牧民は、受けた恩は家に招き、もてなすことで返すのが普通だ。それを断るのは不思議だったが、急ぐ用でもあるのかもしれない。銀は深追いしなかった。

「風がいつも、共にあるように」

 それは草原では決まり文句の、祈りの言葉であり、祝福の言葉であり、時には挨拶の言葉であった。感謝を込めた銀の言葉に、男はもう一度手を振って答え、馬体を翻した。群れは既に落ち着いており、あとは銀一人でこと足りる。丘の向こうへ去っていく黒い姿を眺めながら、あんな馬が、あんな乗り手がこの近辺にいただろうかと銀はひとりごちた。



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