一 草原

 よく晴れた空の下、青々とした丘の上に黒点が浮かび、それは見る間に馬影となった。更紗は洗い物の手を止め立ち上がり、大きく手を振って名を呼んだ。

「ぎーんー!」

 馬上で銀は手を上げたようだった。更紗の声に、気づいた母や叔母が笑いながら幕屋から出てきた。銀とその愛馬である黒馬のスイの姿をみとめ、さらに彼らが引いている数頭の馬を見て目を細める。

「ようやっと帰ってきたね。十日ばかり出かけてたんじゃないか」

「銀にしては長かったね。随分遠くまで行ってたのかね」

 その声を背に、どんどん近付いてくる馬に向かって更紗は駆け出した。小さな子どもも幾人か更紗に付いてくる。あっという間に幕屋の近くまで駆けてきた銀は、そこで駆け足を止め、ほかの馬たちも落ち着かせた。

「おかえり、銀」

「ああ」

 更紗の言葉に、銀はぶっきらぼうにうなずき、巧みに馬たちの足並みをそろえる。

「どこまで行ってたの?」

「湖のあたり。なかなか追いつかなかった。山越えてからはあちこちに散らばってたし」

 放牧していた馬のうち数頭が戻らず、銀が単騎でそれを探しに出かけていたのだった。だいぶくたびれた様子の銀を上から下まで見る。

 十八の銀は既に精悍な若者で、草原の男らしく日に焼けた肌を持ちかさついた黒髪を後ろで一つにまとめている。背は高くないが馬の扱いに長けた身体はよく引き締まっていた。その全身の淀みない動きに、怪我はなさそうなのを確認して更紗はほっとした。

「おまえたち、気が立ってるから、あんまり近づくなよ。蹴られるぞ」

 馬が戻ってきてはしゃぐ子どもたちに釘を差し、銀はスイから降りると順番に馬へ縄をかけていった。更紗も手伝い、まとめた綱を手渡した。銀はそれを受け取り、逆に更紗に日用品の入った袋を寄越す。

「少し歩かせてから繋いでくる。竜は?」

「羊を追いに行ってるはずだけど……遅いのよね。遊んでるのかも」

 しょうがないな、と銀は口の中だけで笑い、更紗から離れていった。濡れ羽色のスイがその後について行く。スイは賢く気高い馬で、銀以外の人間はほとんどその背に乗せないが、銀と一緒であれば主人に何も命じられなくてもよく動き、従った。

 更紗は受け取った袋を抱え直し、幕屋の方へ戻る。母や叔母は既に幕屋の中へ引っ込み、竃に火を入れているようだった。銀が戻ってきたので、豪華な夕食にするつもりなのだろう。

「湖の方まで行ってたみたい」

 幕屋に入り、左隅に銀の袋を置く。火を熾す母の向こうで、叔母が粉を取り出していた。肉饅を作るのだろう。それなら、洗い物を終えたら肉を叩いて細かくしなくてはならない。

「随分遠くまで行ったもんだね。それなら、あちこちで迎えてもらっただろう」

 馬を探す者が訪れたら歓待するのがこの地方の習いだ。馬を探し一人あちこち回るのは大変な仕事で、ろくに物も食べられず過ごすことが多い。それゆえに、たまさか出会った遊牧の幕屋があれば、その家は一晩の宿を提供し、明日以降また馬を追えるようもてなすのだった。

「向こうの方だと、啓真けいしん叔父さんがいるんじゃないかしら」

「ああ、そうかもしれないね。あそこは大家族だから、出会えたかもしれない」

 母たちの会話を聞きながら、更紗はぼうと親戚の家族を思い出す。父方の縁戚のあの家には、若い娘はいただろうか。昨年、仲が良かった同年代の娘が、家畜を探しに来た若者に見初められ嫁いで行った。

「更紗、早いとこ片付けちゃいな。他にも肉を焼くからね」

「……はあい」

 空返事で外に出た更紗を、年長者ふたりは苦笑して見送った。


 昼の間家畜の世話で出ていた男たちが戻って来ると、銀を労い、馬の無事に感謝し山へ感謝の祈りを捧げた。羊を追いながら同時に兎を狩っていた竜が数羽持ち帰り、それを捌きながら賑やかな宴席となった。

「お前は、この忙しい時期に何を遊んでるんだ」

 銀が戻ってきたのを知った竜は、まずい、という顔をして獲物を隠そうとしたが、銀がその頭をぽかりと叩く方が早かった。

 春先は家畜の出産時期であり、一年で一番慌ただしく過ぎる。夜中でも朝でも、出産が始まれば、生まれたばかりの仔が凍えてしまわぬよう気を配ってやる必要があった。放牧中に生まれ、親が仔を置いてきてしまうこともある。春の家畜の世話は一瞬たりとも気が抜けないのだ。

「結局兄貴が戻ってきてちょうど良く串焼きにできるんだからいいじゃないか。細かいこと言うなよ」

「お前、いつからそんな生意気な口聞くようになった?」

「まあ銀、そう怒るな。お前だって竜くらいの頃は、こらえきれなかったこともあるだろう」

 族長であり、養い親でもある靖真せいしんにそう言われると銀も黙るしかなかった。更紗の父親でもある彼は、更紗とよく似た顔で笑った。

「それでお前、叔父上たちには会ったのか」

「いや、会わなかったよ」

 銀は簡単に答え、肉饅を頬張った。馬を集めてからは一直線に帰ってきたので腹が減っていたし、更紗の母、奈江なえが作る肉饅は銀の好物の一つだった。肉汁を吸った生地を咀嚼し、飲み込んでからまた靖真の方を見る。靖真は酒を呑みながら同様に肉饅を食べていた。

「世話になった家で聞いたけど、おじさんたちはもう少し北へ移ったらしい。……あのあたりは最近、盗賊がよく出るみたいだ」

 最後は少し抑えた口調で銀は言った。大人たちは、銀が意識的にそのような口調になっていることに気づくが何も言わない。草原は、日常的に奪い奪われる土地である。そんな中でも、銀と竜の兄弟ほど何もかも盗賊に奪われ、そして生き残ってしまった例は珍しかった。

「それにしても、よく探し出してきたな。どうやって追ったんだ」

「スイが行くところに行けば、いるんですよ」

 奈江の弟である雷牙らいがの言葉に、銀は簡単に答える。

「銀は本当に、よく馬と一つになるね」

 馬と一つになる、とはこの地方独特の言い回しで最上の褒め言葉だった。とはいえ、言われ慣れている銀は、どうも、と軽く背を丸めるだけだ。

「竜とカザミはどうなんだ」

「おれはだめだよ。兄貴とスイだけだ、そういうのが分かるのは」

 からかうように竜に話を振ったあと、雷牙は笑って竜の頭を撫で回し、酒を仰いだ。続いて銀が持っていた杯にも酒を注ぐ。飲めという合図だ。酒に弱い銀は嫌な顔をしたが結局逆らえず、ぐいと煽る。続いて隣の更紗の杯に酒を注ぐと、更紗はこともなげにそれを飲み干した。その流れは順々に夕食を囲む輪を回り、最後に靖真が笑いながらなみなみと溢れそうな酒を一気に飲み干した。皆が揃った食事の場ではよくある光景だ。

「銀、お前ももう馬比べだけじゃなく、馬上試合に出たらどうだ」

 ほどよく酔いが回った靖真がこの話題を口にするのもいつものことだった。それには様々な意図が含まれているのもよく分かっているので、銀は慎重に答える。

「俺は馬比べだけで十分だよ」

「お前、十の頃から負け知らずじゃないか。いい加減飽きんのか」

「おれも、馬上試合に出たい!」

「竜はまだ十三でしょう。馬上試合にはまだ三年も早いわよ」

 飽きないよ、と答えようとした銀だが、弟の無邪気な一声によって救われた。次いで奈江が、ぴしゃりと竜を一蹴して更に矛先が逸れ、助かったと胸をなでおろす。ふと視線を感じ、顔を上げると更紗と目があった。どうやら、こちらを見ていたらしい。更紗は無表情だったが、逆にそれが雄弁だった。銀は彼女から目を離す。

「今年の大祭も、楽しみだね」

 何年も待てない、つまらない、と駄々をこねていた竜だったが、育ての親たちが不平不満を理解しようとしないことを悟り諦めたか突然そんなことを言い、ああ、と銀も笑って答えた。

 初夏、この地方を流浪する氏族が集う祭りが開かれる。全ての族長の上に立ち、草原を統べる王が住まう都へ集まり、人同士、物同士の様々な交流が行われる。同時にそれは、厳しい冬を乗り越え、春に家畜たちの新しい命が生まれたことを天へ感謝する祭りでもある。男衆や子どもたちは馬や弓、腕っ節を競い合い、各氏族から選ばれた女たちが舞を奉納する。

 好奇心旺盛で活発な竜はもちろん、人付き合いの悪い銀であっても、大祭は一年の中で一番大きな楽しみだった。竜は、子どもたちが行う弓比べでここ数年勝ちを譲ったことがないし、銀は馬比べが得意だった。馬比べは、老若男女が己の乗馬技術と調教した馬とを競う競技であり、特に銀とスイが組んだここ三年は、脂が乗った大人の男たちに混ざってもぶっちぎりの一位だった。

 最も華がある競技は、成人した男たちによって行われる馬上試合だ。それぞれの愛馬と得物と用いて戦い、一方が馬から落ちた時点で勝負が決まる。馬を御する能力と戦いの能力と、両方が試されることになり、勝者は真の強者としての名誉が与えられる。もう二年も前に成人を迎えた銀は、当然馬上試合に出るべきだった。

 しかし銀はそうしない。馬上試合に出るということは、男として己の能力を誇示することである。つまり、結婚する意志の表明なのだ。義父である靖真が銀を焚き付けるのも道理であった。

「今年の馬比べは兄貴とスイに勝つよ」

「大きく出たな、竜」

「いいぞ、兄貴を倒しちまえ」

 言ったな、と銀は素早く竜を羽交い締めにした。竜が笑いを含んだ悲鳴を上げる。そのやり取りをやはり笑って眺めながら、更紗は疎外感を覚えていた。

 八年前に全てを盗賊に奪われた時から、銀と竜は他を寄せ付けぬ固い絆で結ばれた兄弟であり、同時に銀は竜の親代わりだった。

 あの年あの時、更紗たち一族が市へ向かっていると、早馬が来て急事を知らせた。父だけが急いで先行し、更紗は何が起こったか知らされぬまま、のんびり市へ到着し、そこでやっと兄弟に起こった出来事を知らされたのだ。

 更紗には何も出来なかった。

 兄弟は族長である靖真に引き取られ更紗の家族となった。旧知だったことも手伝って兄弟はすぐに一家に馴染んだ。竜など、更紗の本当の弟のようだった。けれどふとした瞬間に、やはり彼らは二人だけの兄弟であると思い知らされる時がある。

 それが少し、寂しかった。


 * * *


 食事の途中から、竜は疲れのためかうつらうつらしていた。靖真もどちらかと言うと酒には弱いが、更紗と奈江はあまり酔わない。父と兄弟が寝入ってから後片付けを終え、更紗は母と床についた。

 深酒した夜はいつも父のいびきがひどい。更紗がなかなか寝付けずにいると、幕屋の中を誰かが動く気配がした。薄目を開けて伺う。銀だ。

 銀は足音を立てず幕屋の入り口までたどり着くと、そこで一度振り返り、皆が寝静まっているのを確認して外に出た。更紗は短い間考えた後、彼を追って寝床から出た。

 春の夜はまだ寒い。酒で火照った身体にはそれがちょうどよかった。幕屋の外に銀の姿は見えなかったが、探すまでもなく、馬の囲いへ向かう後ろ姿を見つけた。

「スイ」

「銀」

 呼びかけは同時だった。銀が驚いたように振り返る。普段なら気配で気付きそうなものだが、酔いが深いのだろう。更紗は笑って、銀に応えて近付いてくるスイに歩み寄った。

「いい子ね、スイは」

 鼻面を撫でると嬉しそうに尾を振る。両者に無視されたかたちの銀が苦笑した。

「何してるんだ、こんな夜中に」

「酔い覚ましよ。銀だって、そうでしょう?」

「まあ、な」

 銀の返事は歯切れが悪い。ここで更紗が来なければ、夜であっても遠駆けしようとしていたのだろう。更紗は釘を差した。

「スイだって疲れてるだろうし、休ませてあげなよ。銀も、酔ってるのに遠くに行くのは危ないわ」

「……分かったよ」

 お見通しだなと呟き、銀はスイの耳の付け根を撫で、おやすみと小さく声をかけた。スイは弱く嘶いて目を細める。彼らを見ながら、更紗は夜風に吹かれる髪を押さえた。

 その更紗に視線を移して、銀はため息をついた。

 更紗はこうして、銀の後を追ってくるようなところがあった。昔は逆で、市場や祭で会う度に、面白い遊びを思いついては突拍子もない事をしでかす更紗の後をついて回っていた気がするのに、いつの間にこう変わったのだろう。昔は馬比べだって更紗のほうが早かったが、今はもう、銀のほうがずっと優れた乗り手だ。それでも後ろに更紗がいると、どこにいても、どんなに飛ばしても、振り切れる気がしなかった。

 静かな夜だった。銀と更紗は馬場を離れ、酔い覚ましにふらふらあてもなく歩いた。会話は少なかったが、雲の切れ間から月がその姿を見せた時、更紗は月の光が落ちるのと同じようにぽつりと呟いた。

「銀、わたし、大祭で舞い手になるの」

 銀は驚き、足を止めて更紗を見下ろした。銀の一歩先で更紗は困ったように微笑んでいる。

 大祭の舞い手に選ばれることには二つの意味がある。一つ目は、草原を放浪する多くの氏族、娘の中で、天に祈りを捧げる舞の踊り手としてふさわしい娘であること。二つ目は、年頃の娘として結婚の意志があるということ。特に後者に関しては、男が馬乗試合に出場し己を誇示するのとは異なり、女が舞い手になるのは魅力的な娘として引く手数多になることを意味した。

「驚いた?」

「驚いた……というか、おまえ、そんなに舞いが上手かったのか?」

 銀が思うままに答えると、更紗は不満げに頬を膨らませた。

「銀はいつも、馬比べだけ楽しんで、あとはさっさとどこかに行っちゃうもんね。知らなくてもしょうがないわ」

 確かに、自分が出る時と竜の弓比べさえ終われば、あとは賑やかでうるさい祭りを避け、いつも一人で出かけたり馬の世話をしたりしていた。ややバツが悪くそっぽを向くと、更紗はそれを追って顔を覗き込んできた。

「前に舞いまでいたのは、たぶん、銀がまだ竜くらいのときだったわ」

「悪かったよ」

「そうだ……たしか、馬比べで初めて勝った年でしょう。珍しく浮かれちゃって、はじめはご機嫌だったのに、舞いが下手でどんどん不機嫌になっていって、お父さんが怒ってた。違う?」

 更紗の声が明るいので、銀もこらえきれなくなって吹き出した。

「そうだよ。父さんに怒られた俺を竜が笑いやがって喧嘩になって、結局俺だけまた怒られて、俺は人生の理不尽さを知ったんだ」

 家族を失ったのはその大祭の後だった。なんてことない日常の思い出になるはずだった光景は、忘れられない記憶になった。

「……おまえはあの年、舞いでしか見なかったな」

「馬比べにも出なかったわ」

「だから俺が勝てたんだ」

 それまでは大祭のたびに更紗と馬比べで競い合い、ともに遊び、他の氏族に大勢いる同世代の仲間たちと同じ感覚だった。けれどあの年から更紗は泥だらけになって遊ぶことはなくなり、少し遅れて、銀は更紗が女だったことに気が付いた。

「もう、なにもかも銀のほうが上手いわ」

 舞い以外はね、といたずらっぽく笑う、その声も、息遣いも、昔からよく知る更紗だ。長い付き合いで、その肌の白さも、手足の細さもよく知っている。夜風に遊ばれる黒髪が、針のようにまっすぐに見えて、本人は毛先の癖に悩んでいることも知っている。

 けれど今、火照って赤らんだ頬の暖かさは、まだ知らない。

「……俺は、馬上試合には出ないよ」

 いろいろな思いから目を背け、銀は短く告げて更紗から目を離した。

「……知ってるわ」

 わりあいしっかりした声で答え、更紗も頷く。

 舞い手に選ばれた更紗に今後寄せられるはずの縁談。馬上試合に出場する意味。更紗の父が、幼馴染で気心の知れた銀に、ある種の期待をしているのは分かっていた。おまえなら、と仄めかされたこともある。付き合いの長さの利だけでなく、馬の扱いに関して言えば誰よりも優れている自信もあった。

 けれど、その先を思い描くことがどうしてもできなかった。

「……俺はまだ、竜の兄貴以外にはなりたくない」

 奪われ、守られ、与えられ――それだけの人生になってしまうような気がしたのだった。

「わかってるわよ。しつこい男ね、ばか」

 銀の言葉を更紗は早口で遮り、視線は合わせずころころと笑った。

「だから父さんも銀を見限ったんでしょ。言っとくけどね、舞い手になって、わたしはますます女を上げるわよ。来年にはもう、一緒に暮らせなくなってるかもしれないわ」

 よその男と結婚して氏族を離れるかもしれないと。

 そう言って歩み始める後ろ姿を眺めて、銀は更紗に合わせて小さく笑った。

「おまえみたいなじゃじゃ馬を、誰が貰うって言うんだ?」

「少なくとも、舞もできない仏頂面じゃないことは確かね」

 軽口に合わせて振り返った顔はもう、晴れやかな笑顔だった。手を伸ばせば触れられるほど近くにいるというのに、もう絶対に届かない遠い場所へ行ってしまった気がする。そしてその決定打を下したのは、他ならぬ自分なのだ。

 分かりきっている思いにもう一度蓋をして、銀は幕屋へ戻る更紗を追った。


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