Viertens Kapital § Zahlloss Universum §

ⅩⅧ 見知らぬ、トラバーチンムスター

 それから俺は曖昧だった。自分の意志で指を動かし、その意識がようやく自分に帰着していると自覚するのには時間が掛かった。自己存在さえ疑わしくなっているこのときの俺が最初に見た絵がトラバーチン模様だった。トラバーチン模様とは天井の模様のことだ。オフィス等でよく見かける、無作為かつ無駄に穴が開いているように見えるあの見ていると不安になる模様。あとはそれを販売されている大きさで区切られていた線が規則的に目に入った。学校でもよく目にすることからきっと、どこか大手の会社の製品だろうといつも思っている。お、なんかあの模様顔に見えるぞ。あ、なんかこの線はあみだくじになりそうだ。



「……どうして俺は天井を見ているんだろうね」



 すくっと起き上がり、視界に入ったのはやはりまだ来たことのない場所だった。だが今度は想像に容易い。



「保健室、かな」



 ベッドは簡易的だが心地の良い布団があり、数は俺のを含めて二つと少ない。隔てるカーテンもどこか簡易的だ。ベッドの下には見覚えのある俺の靴があり、少し安心した。うろうろと周囲を物色してみたが誰もいない。銀色の二段トレイに簡易的な医療用具がぎっしりだった以外は、何もない。たぶんここはとある高校だと思うのだが、それがいつのとある高校なのかはまだ不明。


「まずはそこから確かめないとな」


 俺はどうして保健室で寝ていたのか。寝ていなければいけなかったのか。自分から寝た……とは考えにくい。仮定が正しければここは学校だ。俺はそこまで病弱な体質ではないため、病人として自ら寝た……という可能性は低かろう。他の理由、例えば、転校早々に階段から落ちた、体育で倉庫から物を取ろうとしたら上から物が落ちてきた、廊下の曲がり角で出合い頭にぶつかってしまい、それから、それから、そこから始まる運命的な出会いと物語が今、ここに幕を開けて――。


「おい、あやめ。小声で俺の脳内を作るな。小声でもやめてくれ。それと、いちかを利用して読み取るな」

「ばれた?」


 ばれないと思った方がおかしい。文字だけでは分からないだろうが、音声が付けば声色で一発である。その点、文字は恐ろしさを秘めている。


「おはよう、二人とも。ここは保健室?」

「は、はい。そうですほけんしつです」


 いちかが普通にいる。俺たちのクラスメイトとして、そこにいる。彼女の他人の思考や心を読み取ってしまう副作用的能力も健在。ここは元の、七夕の準備を行っているときの世界だろうか。そうだとすると、随分懐かしい気がしてしまう。


「そうか。記憶があいまいだな……」

「え? 大丈夫ですか? どこか痛みますか?」

「いや、痛みはないが記憶が交錯していて……混乱しているのかな」

「もう、みんな心配したんだよ。自分だけ課題が終わったから七夕の方に行っておいてさ、きらりと二人して倒れてるんだもん。すずねぇが血相空けて飛び込んできた時はどうなるかと――」

「え?」


 きらりが倒れた? 俺と一緒に?


「先生がすぐに来てくれて、今きらりを看病してる。皆、交代で看ていたんだから、少しは感謝してよね、もうっ」


 そういうあやめは緩み切った顔でぷりぷりと怒っている。あなたを忘れる勇気だけ下さい、とか歌いだしそうである。


「分かった。すずねさんは、今どこにいる」

「え、ええと――」

「私ならここですけど」

「ああ、すずね先輩。心配かけました」

「諦くん、良かった。急に倒れちゃうからびっくりして。もう大丈夫?」

「ええ、体はもう大丈夫そうです。それより、お聞きしたいことが――」


 それから俺はすずねさんから大体の状況を聞いた。ここは俺が初めに来たとある高校で間違いない。時空間旅行する前の、七夕の作業を始めようとした世界だ。彼女が言うには、俺がきらりに富士山がどうこう、という話をした直後に二人とも魂が抜けたように倒れたのだという。その後はあやめの話した通り。俺はきらりが寮で寝ており、その側に担任がいることを確認してからある場所へ向かった。これは誰かのためではない。自分に起きた不可思議ときちんと向き合うため。かつて差し出された選択肢を選んだあの時の自分を完遂するため。俺はまだ一か月も過ごしていない。二年と五か月以上俺はまだここで過ごさなくてはならないのだ。ここがどんな場所だろうと俺の知ったことではない。個々に通う生徒がどんな想いを抱えているのか、抱きしめている過去の欠片に痛がっているのか。そんなことは知らない。俺は狂った俺の過去と未来を今まで通りに戻すためにここに来たのだ。だから何が起きようと俺はあと千日弱をここで過ごし切らなければいけない。これは真実を探しているのでも、事実を確認するのでもない。俺の現実を受け入れに行くのだ。それがたとえ、これまで生きてきた世界での価値尺度で測ることのできない不可思議であっても。目の前で起こればそれが俺の現実だ。


「すみません、ダンジョンへ行かせてください」


 俺は購買のおばちゃんにそう頼んだ。その横に魔女はいない。おばちゃんが「物好きだねぇ」と言いつつも準備を始めてくれた。装備を手にした俺は、ダンジョンの扉を開いた。


「黒羽根諦さんですか」


 ダンジョンの扉の前に、当然のように彼女はいた。そして、あの時と同じ問を掛けてきた。俺はこれにとても驚いた。なぜなら同じ問であっても、彼女は俺をこの世界に導いた少女ではなく、俺のよく知る少女だったからだ。


「……このは、ちゃん? どうした、一緒にダンジョンに行きたいのか?」

「黒羽根諦さんですか」


 彼女は表情を変えずにもう一度言う。俺は素直に「そうです」と答えた。


「そうですか。どうですか、強く生きることができていますか」


 ここまできて察しの付かない俺ではない。目を閉じて息を吐き、それから目を開ける。


「いや、俺は強くない。強く生きることはできていない。今までの人生を振り返っても、これからの人生を考えてもたぶん無理だ。俺は生きるために強くあろうと、そうすることしかできない。簡単に言えば見栄だ。強くなれるとしたらそれは、誰かの人生の強さにしかなれないだろう」

「そうですか。では案内します。こちらです」


 俺の戯言を、譫言を彼女が聞いているのか、俺には良く分からなかった。少女は短い髪のこのはから、初めに出会った時の肩を超える長さに戻し、それから俺を背中で案内し始めた。俺は黙って少女に導かれて行く。彼女が出てきたということは、おそらく俺に何らかの選択肢が委ねられるのだろう。この不可思議ダンジョンで何があっても自分の意志を保てるように、自分で選択することができるように、俺は心を強く両手で抱えながら、ダンジョンの奥へと向かった。

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