ⅩⅣ 選択はウムアルムング・オア・ハルン

 俺が彼女に声を掛けられたのは大学四年生の二月であった。俺に残されているのは卒業式だけという春休みの最中で、最後の方に残った卒業に必要な単位のテストも無事終了し、解放された冬の空気に全身を伸ばしていた時だった。友人との卒業旅行の日程も迫り、湧き上がる高揚感に浸りたい時期だった。


「こんにちは」

「……? こんにちは」


 大学構内で友人と会う約束をしていた俺は見知らぬ女子に声を掛けられた。


「黒羽根諦さんですか」

「はい。そうですが、えっと……どこかで会ったことあったかな?」


 俺がこのように口調が変わったのはその相手が年下だったからだ。俺は単に女性と称したが、彼女はどう見ても同級生ではない。数個下の後輩でもない。彼女は小学生ではないか、と思った。


「これから何かあるかもしれないですが、どうか頑張ってください。強く生きることを諦めないでください。それとここに行くことをお勧めします」


 俺は声を出せず、されるがままに彼女の差し出す小さな紙を受け取った。それは名刺のように見えたが、書いてあるのはとあるカクテルバーの店名と住所だけ。大学からそう離れた場所ではない。見知った場所だが、そのような店があることを俺は知らなかった。


「あの、これはどういう――」


 俺が顔を上げた時、そこに彼女はもういなかった。俺は反射的に立ち上がり、周囲を見渡したが見当たらない。その場で足を出したり、引っ込めたり落ち着かなく周りを見るが少女はいない。それからしばらく俺の視線はバーの名刺と周囲の冬景色との間を往復していた。


 翌日、俺の携帯にメールが送られてきた。受けて俺が置かれている立場を説明された。


 俺は六年前の六月に殺人事件を起こした。


 当時高校二年生の容疑者、黒羽根諦は昼休みの時間に同級生と口論になり、所持していたナイフで腹部を一突き。容疑者はすぐに病院へ搬送されたが、出血によるショックで死亡した。しかし、容疑者黒羽根諦は保護観察処分にとどまり、一切の刑罰を受けていない。そこに学校側と容疑者、被害者の間で密かに密約が交わされ事件は終息した。しかし、黒羽根の母校で教師が罪を犯し、逮捕。その事情聴取の際に今回の事件が浮上してきた。明日、決定的な証拠が見つかり、警察が俺の家に押しかけてくるという物であった。そこには黒羽根と学校との繋がりの中に不正入学の証拠もあるのだという。単位取得と認定されるのは学年末まで在籍し、出席日数や試験結果が基準に達していたもののみ。このままでは不正入学のため在学が取り消し。高校にはそもそも入学していなかったことにされ、単位もすべて宇宙の彼方へ消える。そんなことがあるのかと俺は疑ったが、メールには明日以降の日付がつけられた新聞記事とニュースの動画が添付されていた。


「ええ……」


 もちろんこの俺に見覚えはない。全くない。人を刺したことも、そこまで恨みを持つような同級生とのトラブルも一切なかった。彼らにマイクを向ければ一様に「大人しい子だった」と同じ意見が帰ってくるだけだろう。問題に巻き込まれるほどの、諍いを引き起こすほどの仲になったことが一度もなかったのだ。大学生になってようやく人並みの友人が数えるほどだができた俺である。他人ごとにしか聞こえなかった。


 真っ先に浮かんだのは昨日の少女。小学生にしか見えない小さな女の子。同時に名刺のことを思いだした。


「電話番号が書いてないな……」


 そこに記されているのはやはり店名と住所だけ。ただのいたずらメールだと決めつけるにはマスコミでの報道が気になる。手が込みすぎている。そして小学生の放った言葉。聞き間違いでなければこれから何かある。強く生きることを諦めないでと言われた。偶然にしてはできすぎだが、考えすぎにも思える。


「いったい何だってんだよ、これ」


 結局俺はもやもやした気分を抱えながら、不安と共に戦いながら夜を明かした。


 そして少女と出会ってから三日目に俺は警察に殺人の容疑で連行された。あのメールを信じればよかった。騙されたと思って行動すればよかった。俺はすべてを否認したが、出てくる証拠のすべては確実に客観性を持っており、主観的証拠で証明しようのない俺の記憶は完全に敗北した。受け入れる諦めを持ち始めた頃、俺は移動中にトイレへ行く許可を求めた。警察官は大人しくなった俺に縄をつけて近くの公衆トイレに連れていった。配慮からなのか、個室を使用して良いと言われた。俺は気力のない顔で礼を言った。


「黒羽根諦さんですか」

「うわぁ!」


 ズボンを下げて座ると目の前に少女がいた。三日前の少女だ。少女はいつの間にか俺の膝の上に座っており、ものすごい至近距離で向かい合う形になった。俺は既に声を吐き出した後の口を慌てて押えるが外の人間が気付いた様子はなかった。


「どうしてこなかったのですか」

「こなかった……それは、どういう」

「にたくです」


 少女は唐突に言う。俺に選択を迫る。


「このままでよければ、このままおしっこしててください。かえたいとおもうんだったら、だっこしてください」


 むちゃくちゃな選択肢だった。おしっこかだっこ。だが少女は表情を一切変えずに俺の回答を待つ。どうやら冗談でもじゃれあいでもないらしい。俺は口を一度だけ開く。


「変えたいって言ったら、変わるのか」

「どうなるかは黒羽根諦しだいだけど、ぜったいなにかはかわる」


 俺は選択した。ブラックボックスに入り込むために選択した。狂ってしまった俺の道を舗装するために選択した。この時点では俺は何も理解していないし、納得もしていない。だが、すでにそこには何も存在しない。もはや恥も、誇りさえも存在しない。ただあるのはズボンとパンツを下げて便座に座り、小学生ほどの少女を抱っこしていた俺が少女もろとも消えていなくなった空間だけだ。外の人間が気付くのには永遠にも近い時間が必要かもしれない。


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