Ⅹ 般若心経からのワールド・イヒトアプズィヒト

「……観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄。舎利子。色不異空空不異色色即是空空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減。是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法。無眼界乃至無意識界――」


 暗い室内。夜独特の安らかな静けさ。二段ベッドの上下から聞こえる布の擦れる音と小さな呼吸音。上の方に小柄で生意気だが憎めぬ奴が寝息を立て、その下のベッドで俺をこの部屋に誘い込んだ少女が夜に溶け込んでいる。一方、地に無造作な格好で布団を被ったり出たり寝返って一回転しており、般若心境を心のなかで唱えているのが俺である。般若心境のこの世の苦楽は幻で、人の価値観や感じ方なんてそれぞれでいい加減だからこだわるな。見えない明日を照らすよりも愉しく生きていけ。全てを忘れるとロクなことにならないが、恐れも人生の糧になる、と唱えた日本人の感性に通ずる人生観を如実に現した有難いお経なのだ。決して成人童貞で年下女の子と一夜を共にする状況に狼狽えているわけではない。句読点なく素早く唱え続けているのも動揺して眠れないからでは、決してない。


「……三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経、般若心境」

「……般若心境ってなに?」

「…………。」

「…………?」

「…………起きてたんだ」

「…………うん、ちょっとね」

「…………ごめん。聞こえちゃった?」

「…………うん、最後だけだけど」

「…………まあ、ただのありがたいお経だよ」

「…………そっか」

「…………そうだよ」


 会話はここで途切れた。俺はお経に関する弁明をしようといろいろ考えたが、そこで会話は完全に途切れた。彼女は夜の中に再び溶け込み、ふと眠ってしまったのだと俺は思うことにした。きらりが俺を部屋に招いてくれたのは純粋な情けとそのやさしさによってだ。だが純粋に近い華の女子高生が欲望と私欲の権化である男子大学生を一夜とはいえ、同じ部屋に誘い込んだのだ。いかがわしき妄想や感情を抱かなかったというとそれは嘘になる。何か展開があるのではないか、秘められた好意が密やかな夜の風のように囁かれるのかもしれないと期待してしまった。


「そしてこれを機に、いよいよラブコメが急速に加速し、二人はクラス公認の仲となり、寮生活を通して、こう、愛を育んでいくのだと、この俺は、いや僕は考えずにはいられず、今も寝ることができずにいる。ああ、その美しい寝顔に――」

「……こら、あやめ。俺の頭の中を勝手に作るんじゃない」

「……大きい声だすときらり起きちゃうよ?」

「……だから声を潜めているんだろうが」


 ガサゴソガサ。


「……ヨイショ」

「……なぜ下に降りてくる」


 ガサガサゴソ。


「……なぜ俺の布団に潜り込んでくる」

「……ヒトの温もりを――」

「……おい。お前は、未婚のアラサーか。二十代が終わるに連れて募る焦りと共に訪れる現象か」


 二十代前半の俺でさえ確かに人肌の温もりは恒常的に得られているとは言い難い。だって、彼女いなんだもん。こんな辺鄙な所に来る前の大学生活といえば? 一人暮らしという自由に満ち溢れた生活をこれでもかと満喫し、この自由をより楽しむために大学から家へ直帰を繰り返したために友人がほとんどおらず大学では一人のことが多いのだから出会いとかない。授業中に目の前に女子が複数座れば、これは雑談でうるさくなるぞと席を離れる。少し前に女子が座れば黒板もパワーポイントも何も見えないぞ、とまた席を移動する。これが男子の場合は呪いと殺気を存分に浴びせてからベストポジションを探す。つまり一番前だ。教授と質疑応答を強制的にさせられて有意義な一時間半を過ごすことができる。勉学と妄想に耽るにはベストポジション。……まあ普段の現実にそのようなことはなく、大体は後ろの方でぐだっと講義を受けているのが現実だったりするんですがね。


「……それで、なんでまた俺なんかを招き入れたんだ。きらりは優しいやつだが、そこまで恥じらいなく大胆不敵で積極的な女の子には思えないんだが」

「……なんのことでしょうか」

「……相部屋のあやめがきらりをそそのかしたんだろう? この状況を作りたくて」


 この状況というのはもちろん俺とあやめがコソコソと話をし、それがきらりに聞こえるような――正確には聞こえてしまうような――状況だ。きっと彼女はこれを望んでいるのではないか。俺はそう考えた。根拠は俺がお経をあげていた時にずっとベットの柵に顔を突っ込んで指だけを下に向けていた行動だ。明らかに下に降りてもいい? という合図。「おやすみ」と言って電気を消してから三十分ほどはすやすやしていたはずなのだが、いつの間にか俺に謎のサインを送っていた。まさかとは思うが、本当に寂しいから一緒に寝ようとか、きらりはもう寝たよ? 今なら……ね? 少しぐらいなら、別に、いいよ?


「…………ほら、ゆっくり手を伸ばして、ここだよ。ほら? わかる? ああん、そう、やさしく――」

「……おい。変な声出すなこの変態。なんだよ、また俺の脳内に侵入しやがって、一体何がしたい――」


 仰向けで目を閉じて考えながら聞いていた俺があやめの方に体を向ければ、それは本当に自然のことで、当然の状態になる。


 それはもうゼロ距離メートルであった。


 息遣いが直接伝わり、冗談交じりに言い放ったを直に感じることができる。少しでも動けばその熱を持った肌に触れることができるし、間違いだって起こすことができる。きっと何かのせいにして、ハプニングに身を任せることもできた。だが、俺は特に何もしなかった。ただただ一人の少女でしかないあやめという女の子をじっと見ていた。彼女が今何を考えているのか。何を感じているのか。これが彼女の誘いの意なのか、おちゃらけていたようで本気だったのか。俺はゼロ距離メートルを保つ。


 そういえば昔、恋愛がゼロ距離メートルとかいうゲームあったなぁ。俺はミサキ派だったけど、こいつは当てはめるならノキアだな。やんちゃさがそっくりだ。


「……あの、なんで黙ってるんですか。まさか本当に、このまま、キ、キスとか――」


 こつん&布団を引っ張る。


「……用がないなら寝るぞ。俺は明日、味噌汁を任されている。俺の朝は早いんだよ」


 味噌汁担当に出世した初出勤だからな。気合い入れて寝て起きなければ。仕事は信用と信頼が大事だ。


「……ごめんなさい、ごめんなさい。私が誘いました。ゆっくりと話したくてお誘いいたしました。だからお願い、もう少しだけ付き合って!」

「…………きらりが起きるぞ?」


 たぶんまだきらりは寝ていない。俺とあやめはそう思っている。この俺たちのやり取りをしっかりと聞いているんだろう。それにしてもいつまで茶番が続くのだろう。


「……今日はどうだった? 楽しかった?」

「……え?」


 俺は素直な声が出た。聞かれた質問が何を聞いているのか分からなかった。今日って……魔女のこと? 魔女に襲われてみんな大変だった。絶望に打ちひしがれて、それで――。


「……きっとなにか常識では考えられないことが起きて、だからいちかが本物の魔法少女になったんだよね。その体験をしたのは諦くんで、影響を受けたのはいちかってことになる」


 いつもの調子とは違う、真面目な声音は俺を黙らせるのにじゅうぶんだった。これは警告だ。咄嗟に告げた謎の声は間違っていない。


「……興味があるのはわかる。この世界面白いもんね。私も嫌いじゃないし、以前よりいい生活が過ごせていると思っている。何より楽しいよ。でも、これは普通じゃない。通常じゃない。それだけは覚えておかないといけないの。今日さ、みんな黙り込んだときあったよね」

「……ああ」


 俺が声を出せたのはこれだけ。そして次にくる言葉は予想できる。いつもの奴だ。


「……私たちは普通から逸脱しているの。そして、」

「……教師であって生徒ではない」

「……そう。私たちの決まり事。約束事。不可思議なことが自分に起きたらそれは自分の歪だ。外れた理由だ……ってこなの。きらりに言われたんだ。たぶん他の皆も言われてるとおもう。だから――」


 だから、と彼女は言った。それが彼女たちに呼ばれた原因だった。俺は最後まで意見を口にしなかった。相槌だけだった。きちんと話を聞いている意思を伝えるだけ。俺の言葉がこの夜にこだますることはそれ以降なかった。


「――だから他人の不可思議には手を出さないで。現実では知らないけど、ここで他人の人生に手を出すと起こる不幸はあまりに重すぎるから」


 「わかった」と俺はこれを受け入れた。聞きたいことや知りたいことは吐きそうなほどあったが聞くのは野暮だ。俺がここに来たのは唐突に失われた卒業必須単位を取り戻すため。自分の未来を取り戻すため。それだけだ。


「……ありがとう」


 あやめはとびっきり優しい声でそう言った。そして俺は思わず惚れてしまいそうになる。なぜなら、


「……これはサービスね。もう二度としてあげないから」


 あやめは俺の額にキスをしたから。薄暗くてよく見えなかったが、彼女の笑みには俺にないものがある。


 俺はまだまだガキだったのか、と浅ましく思う。体から去りゆく重みと温度から落ちるように、今度こそ目を閉じた。

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