第2話 死別《わかれ》


 彼と一緒にいて、僕は色んな事して色んな事を学び覚えた。明らかに彼自身からしか聞いた事の無い――多分、他の小説家も知らないかもしれない――創作の知識も有って驚いた。恐らくこれからも、彼以外に作品知識や技術を学びたいと思わないだろう。

 だが。最初に僕が語るのは『死別』という、僕とこの物語の結末告げる無粋なお話になる……。僕と先輩のお話はとても長くなるので、僕としては多分、読んでいる貴方が途中で飽きてしまうと思う。そうなってくると、頁や物語の全てを飛ばして「先輩と僕との結末を知ってみたい」という思いに駆られるはずだ。

 だからこそ最初に、この物語の結末を書いておこうと思う。

 『死別』と書いた通り、僕は先輩と死に別れた。先輩は死んだのだ。だがそこは些細な問題だ。本当に僕が語りたいのは、彼の思い、彼の考えてきた道筋、彼の願い、彼の夢、彼が何を愛していて、何を求め何と戦っていたのか……なのだ。何だか書いていて照れ臭くなってきた。だから多くを語るのは止めよう。僕には彼が何を感じ何を考え、何を目指していたのか。凡人の僕には計りようもないのだから。

 ……ただ一つだけ。もしこのお話を読んでしまい、何かを感じとったなら。どうか静かに彼の――先輩の言葉を思い出して欲しいのだ……。


 ◇ ◇ ◇


 僕の小説の先輩の事を一言で表現するのなら……『星の王子さま』で事足りる。ぱっと見る限り言動に一貫性の欠片も無く、それでいながら冷静な分析能力と異常な行動力を持った、熱しやすく冷めやすい……まぁとにかく変わり者だ。幼い感性のまま大人になった変わり者という訳だ。自分も大概に変わり者だが先輩は更にその上を行っていた……。先輩と共に笑い共に学び共に遊んだあの記憶は今でもはっきり思い出せる程に懐かしい。

 だが……僕はある日を境に疎遠になった。会いに行く時間が目に見えて減り、仮に会いに行っても彼に会える時間が減ったのだ。

 どうにも疎遠になったのはいつからだろうか……? 高校に上がる前はまだまともに遊びに行っていたのだけれど……。

 自分が高校に上がった時に進路の事で気を使ってくれたのか?

 いや、ない。先輩の身勝手さはここ最近のマンガやライトノベルのヒロイン並みだ。そこまで気を回さないし、回したとしても三日で忘れてやってくる。

 何か、理由があるのだろうか?

 ……まさか?

 僕の脳裏にある解答が過る。そう、まさかだが、遂に『最高傑作』が完成したのかも知れなかったのだ……。

 高校の夏休み、その終わり。八月三十一日。逸る気持ちを抑え、僕は先輩の住んでいるボロアパートへと向かう。先輩の部屋は一階の一番奥で六畳もある家賃一万二千円の部屋だ。なかなかに激安物件である。ちょっと薄暗い感じの角部屋の前。チャイムが壊れて鳴らないその扉の前に僕はいた。ひんやりとまとわりつく冬の湿気みたいな冷たさ。百足やゲジゲジが全身を這い回っているような総毛立つ雰囲気。チャイムの鳴らない事を踏まえても、ここだけは雰囲気が異色だ……。まるでそう、何人たりとも寄せ付けないと、言わんばかりだ。

 コンコン。チャイムが壊れているからノックをする。

「居るぞ。誰だ?」

 奇跡だ。僕は涙を流すのを必死で堪えた。

「僕です。○○○(自分の本名だ)です」

「久しぶりだな。入れよ。鍵はしてない」

 ガチャリとノブを捻り、僕は入る。

「よぉ。元気そうだな」

 片手を挙げて、先輩はにやっと笑う。……ただし、大分やつれていた。頬はこけていたし目の下には墨で描いたような隈もある。

「先輩は……何で?」

 必死に答えれたのはそんな言葉。何だよ、これは? こんな事しか言えないのか僕は。

「……なぁ。これを見てくれ。おれが創り上げた最高傑作だ」

 そう言うと彼はハードカバーの書籍を見せた。

 丁寧なプロ仕事を思わせる印刷所製の、黒一色の表紙に金色の縁取りと同じ色のタイトル――間違いない。彼が心血を注いで書いていたあの作品だった。

 僕は受け取り先輩に目配せ。読め、と言いたげに。先輩も出来る限りの力強さで頷いた。

 ページを開いて次々と物語を読破する。頭で、双眸で、唇で、指先で、追ってゆく。脳裏に描く風景が万華鏡のように変わる。思わず物語に合わせて身体が躍りだしそうな凄くて――恐い作品だった。

 ……しかし。

「……これ、が。なんですか? 本当にこれが最高傑作ですか?」

 僕は尋ねる。そう、確かに凄いのだがどう贔屓目にみても、この作品は最高傑作とは思えない……。

「馬鹿言え。こっちの草稿の方が凄いぜ」

 にやりとしながら先輩は左上を紐でまとめた原稿を見せた。

 ……だけど。やっぱり最高傑作には、先輩が毎回中毒になるように宣言していたような、最高傑作にはまだ届いてはいない……。

「……これが、最高傑作、なんですか?」

「あぁ、最高傑作。おれが未来に用意出来る最高傑作さ」

 さらに本棚から『聖書』を手に取りながら。先輩は不敵に嗤う。

 僕は、悲しかった。


 ◇◇◇


 その夜はささやかで静かな宴会だった。中天に遠く高く浮かぶ満月を観ながらお酒を僕らは酌み交わす。僕は普通に缶チューハイ。先輩はバドワイザー。肴は満月の他には七輪で練炭を焼いて焼き肉だ。

「お! 相変わらずお前カルビが好きだなぁ♪」

「先輩こそ相変わらずラム肉が多すぎません?」

「おれは牛肉よりもラム肉派だからな♪

 ……お前はまだビールはダメか」

「あのアホ親父を思い出すからビールは嫌いです」

 未成年にお酒は厳禁だが、今日は無礼講。どうでもいい。

 話を始めて色んな思い出を語り合った。遠出をして取材に行った事、街中で実験を繰り返した事、曰く付きの代物をオークションで落札した事、ヒーローもどきみたいな事をやった事……様々な事を話していて、最後の話題は小説の話になった。やっぱり自分達は作品を創る事が好きなのだなとひしひし感じた……。

「そー言えば先輩」

「ん?」

「昔アホな作品のプロット考えていませんでしたか?」

「あぁ……もしかしてあの魔法少女の作品か?」

「そうそう、それです」

「確か『お願いを何でも叶えて貰ったはいいものの、酷い現実を突き付けられて、最後は絶望して皆死ぬ――のを最後に主人公が命をかけて止める』ストーリーだった奴か」

「はい、それです」

「ぎゃはははっ! ありゃ没だ。あんな作品ウケるかよ。ウケたらこの世が終わりだ」

「もしどっかのアホがそんな作品創ったらどうします?」

「おれなら全力で止めるね。絶対に」

 彼は、力強く、語る。

「ところで先輩。この本はどうするんですか?」

 僕の質問に、

「画竜点睛。最後のピースを『完成』させたらどこぞのオークションか古本屋にでも投げ売りするよ♪」

 すっかり上機嫌の先輩が返す。「食えよ」と僕の皿にカルビの焼き肉を入れた。僕は黙って焼き肉を噛み締めた。涙が出る。やれやれ、相変わらず泣き虫な奴だなぁと。先輩は苦笑していた。 

「……先輩」

「んー?」

「……いつか僕。皆が幸せになる作品を書いてみせますね」

 静かに優しく、それでいて決意を込めた声音で。チューハイの缶を握りながら僕は先輩に告げる。

「……あぁ。やってみなよ。

 ……ならペンネームでも贈らないとな……何がいいかな……」

 先輩はしばし悩むと――。


「『なつき』……だな。なつきがいい」


 にへら……と崩顔する。

「……大事にしますね。そのペンネーム。

 ……じゃあさようなら」

 僕は立ち上がり、部屋を出てゆく。

「……お前はどこでも生きにくい奴だろうが頑張って生きろ。息災に、な」

 後ろ手で扉を閉める時に、先輩のエールがしっかりと心に届いた。

 早足で、アパートから、遠ざかる。涙が、止まらなかった。

 

 ◇◇◇

 

 ……それからしばらくして、先輩の訃報を聞いた。詳しくは判らないが自殺だという話だ。

 ……その訃報を聞いた時、僕は「やっぱり」と思っていた。

 あの人は『作品を書き上げた』。それも、最高傑作を。それが意味するところはただ一つ。

 彼の人生にはもう、やる事が無くなったのである。

 作家として、自分の望む最高傑作を、この世に送り出した。それだけで……ただそれだけで、彼の世界は完成したのだ。

 

 ……本当に、そうなのか?

 

 ……僕には時折それが、疑問に感じる時がある。

 それはたまに僕がお酒を買って、あの夜みたいな満月を肴に呑む時だ。静かに浮かぶ冷たい月明かりの下でお酒を口にする時に、いつもそれが疑問の泡となって浮かんでくる。

 良く先輩は言っていた。「死ぬ前に最高傑作を書きたい!」……と。

 だが最後に読んだ最高傑作は、余りにも理想からはかけ離れた代物であった。

 それなのに、何故? ……なんで、先輩はあれを「最高傑作」なんて言ったのか? 先輩の創作力ならもっともっと凄い作品ぐらい創れた筈なのに……? どうしてあれを最高傑作なんて呼んだのだろう?


 ◇◇◇

 

 ……そう言えば以前。僕は先輩と一緒にある鬼才と呼ばれた小説家の住んでいた廃屋に忍び込んだ事がある。その小説家は世間的には対して有名にはなれなかったが……噂では恐ろしく凄い作品を書き上げたと真しやかに語られていて。その作品達が今でもこの廃屋に残っているという話だ。是非ともその作品の一部でも資料として手に入れたいと考えたからだ。

 ……そんな噂も話も、聞いた事無いですよと。懐中電灯片手に僕は廃屋の中で先輩に尋ねた。先輩は先輩で「クトゥルフ神話みたいに有名じゃないからな」と答えたっきり黙り込んで探索している。僕もそれにならい、探索を続行した。……とは言うものの、どんな物か検討もつかない僕は、ただただ適当に探りを入れるばかりだ。

「……そう言えばお前、聖書って知ってるか?」

 不意に先輩が話かけてきた。

「もちろん知ってますよ。旧約も新約もどちらも」

 僕はきょろきょろしながら返した。

「ギリシャ神話は? 北欧神話は? 中国や日本の神話は?」

「もちろんどれも知ってますよ。どうしたのですか急に?」

「今挙げた全ては創作の、フィクションのストーリーだと判るか」

 先輩は、屈んだまま、背後の自分に言葉を投げる。

「はい。もちろんです」

「……大勢の人から信じられているそのストーリーが心からフィクションになっているのだと、断言できるか?」

 え? 僕は絶句して、探索の手が止まる。

「最初はただのストーリーで、誰もそんな物は信じなかっただろう。だが少しずつ信じられてきた。そして今ではこうして歴史の中に残っている。大勢の人々がエデンや理想郷を心から信じていて、研究や時には戦争の原因にもなっている。それでもこの世界でそれらのストーリーがフィクションだと言い切れるか?」

 ぞくりと総毛立ち。僕は一歩身を引いた。時同じくして、ピシ……、パキリ……と家鳴りが闇の中に響く。何故こんな時に……と思う。

 あれ? 先輩がいない? いつの間にか先輩がいなくなっていたのだ。僕は慌てて屋敷の中を懐中電灯で照らす。駄目だ。目につく範囲にはいないようだ。

 僕は廃屋の中を孤独に行く。進むも引くも、足音が佇む闇の中に吸い込まれて何も聞こえない。静けさが耳に痛いとはこんな世界の事だろうか……? 闇という漢字の形が今現在、門構えと『音』になったのにも、こんな由来からなのかも知れないと感じながら先を進む。

 ふと風の流れが変わった気がした。黴臭い中に、ふと、新鮮な風が吹き込まれて来たのだ。

 僕は親指を舐めて湿らせると。風の出所を探る。ひんやりと、指先の右側が冷える。右側を照らすとそこには地下へと至る階段があった。

 僕は階段をゆっくりと降りてゆく。やがてその階段の終わりに一つの部屋が見えた。扉が開いていて、申し訳程度の光が洩れている。

「先輩……ここですか?」

 僕は懐中電灯で中を照らす。

 そこは多分地下書斎で、そこには確かに先輩がいた。

 ……だが。僕の方は見ていなかった。ただただ書斎の机にある一画、そこの落書きを見続けていた。

「先輩? 何か見つけたんですか?」

 僕の問いに、

「なぁ。ここに住んでいた作家はどんな作品を創っていたか知ってるか?」

 先輩は落書きを見ながら返す。

「知らないです」

 僕はふるふると首を振る。

「『生きた作品』を、創ろうとしたらしい」

 先輩まだ、落書きを見つめている。

「何ですか? それ?」

「文字通り、意味通り、さ。ただの文章作品だけでなく、物語それ『自体』をこの世に生み出そうとしていたらしい」

 それを聞いた時。僕の身体は硬直した。喉がからからに渇き、動悸が早まる。

「そんな事……できるんですか?」

 やっとの思いで、僕は先輩に尋ねた。

「……何の為の神話だ?」

 先輩はただ一言だけ、そう答えた。

「……帰るか」

 先輩がこちらを向いた時。僕は後ずさった。恐かったのだ。この屋敷の時が止まったような闇の中でも光を帯びてるような彼の双眸が、妙に恐ろしかったのだ……。

 

 ◇◇◇

 

 でも先輩は……もう死んだ。この世を去って行った。彼はもう、この世には存在しない。おれが皆を幸せにする作品を完成させても、一緒に楽しんでくれる人はもういない……。こうしてたまに満月の綺麗な夜にお酒を買って月見酒をする時に、思い出すぐらいだ。

 今日もそうだ。こうしてラム肉の焼き肉とバドワイザーで一杯する時に先輩の事を思い出した。

 そう言えばいつの間にか、苦手だったラム肉が食べれるようになっていたな……。ふとたまに、そんな処が気になったりする。

 そう言えばいつからだろうか……?おれがバドワイザーやビールに抵抗が無くなったのは? いつからラム肉が食べれるようになったのだろうか……? いつから『僕』という言い方が『おれ』に変わったのだろうか……?

 ……先輩が言った、『最後のピース』とは、何だったのか……?

 まぁ考えても詮無き事だ……。だって人の心の中は覗けない。気にするだけ無駄だろう。今はこうして、先輩との思い出話をどこかに紡いでゆけば良いのだから……。

 

 そう言えばずっと。忘れられない言葉がある。学校の勉強が苦手でいつも成績が悪かった自分に対して、

 

『勉強する事が大事な理由が二つあるぞ。一つは百人に聞いたら百人が答えられる答え、『自分を高める事』。

――もう一つは。『知識を使って相手を独りぼっちにさせない事』、だな』

 

 満月を見つめてバドワイザーを呑んでいると、おれはいつもそれを思い出すのだ。

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