#07 芽吹き

 面積の8割以上が草木の生い茂る植物で埋められ、人の気配はこれっぽっちも感じさせない小さな無人島。

 しかし普段であれば虫と湖魚しかいないようなその孤島に、海岸線の一角でポツンと佇む一人の男がいた。

 近代的な軽い装備を身に付け、上から黒いロングコートを羽織る30代程度の男。おそらくは彼の物であろう、明らかに周囲の光景には似つかわしくない背丈ほどある巨大な大剣が、その傍らの地面に突き刺さっている。


 男は、太さ7ミリ、長さ100ミリ程度の、先端から白い煙を立ち上げる白い筒状の紙―――シュガレット、つまりタバコを口に加えながら、ブラウンの髪の毛から覗く瞳でぼんやりと夜明けの空を眺めていた。


(……あー、面倒なことになっちまったなぁ)


 ハンサムな顔立ちも相まって、さながらドラマのワンシーンかと思うほど中々決まってる雰囲気ではあったが……男の心情はどちらかというとマイナス方向である。

 彼は口からタバコの煙を吹き出しつつ、視線を自分の足元付近へと移動させていく。


(特務で珍しくこんな地域まで来てみれば……どうしてこういう時に限って)


 彼の足元には、半ば地面の砂に埋もれるようにして……全身を海水で濡らした、若い少女が倒れていた。

 彼としても、ただそこに倒れているだけならまだ良い。いや良くないが。まあ現状よりか確実にマシだ。

 問題なのはその少女……見るだけでも致命傷と分かる、とんでもない傷を複数に渡って抱えていることである。


 パッと見ただけでも、左腕と左脚が綺麗になくなっている。この時点でやばい。

 それに加えて、胸のど真ん中に貫通した刺し傷。

 当たり前だが、どこからどう見たって転んで擦りむいたとかちょっと車に撥ねられたとか、そんな軽い事故レベルの傷ではない。


 男はうんざりしながらもその場でしゃがみ込み、じっと少女の体を確認する。


(こいつ左目も……後頭部まで貫通してんのか? ひでぇな……)


 それ以外にも、小さい傷跡やその痕跡が多数見受けられる。

 ……正直、どう見たって死んでる。

 状況から察するに、どこか別の島か大陸からここまで流されてきたのだろうが、だとしたら余計に生きてる可能性なんてゼロに等しい。

 ―――普通の人間なら、という話だが。


 男はコートのポケットに手を突っ込むと、そこから掌サイズの小さな端末を取り出した。体温計のような棒状の形をしている。

 端末の側面についている小さなボタンを押し込むと、そのまま、倒れる少女の口の中に先端だけをそっと差し込む。3秒ほどじっとして……直後、ピッという電子音と同時、端末の中央にある小さな液晶画面が淡い緑色に点灯した。

 それを確認して、男はある確信得る。


(やっぱこいつ、まだ死んでないな。まさかとは思ったが適合者か。通りでしぶといわけだ)


 生きているとは言えないが、100%死んでるとも言い切れないかなり瀬戸際の状態。

 少なくともこのまま放っておけば間違いなく近いうちに死ぬだろうが……まだギリギリのところで踏み止まっていると分かった以上、放っておくわけにはいかない。

 彼は片耳につけたインカムにそっと手を添えつつ、傍から見れば独り言のように口を開いた。


「あー、あー。聞こえるか? こちら第三部隊隊長アルザス。応答頼む」


『はい、聞こえています。……え? アルザス隊長、ですか?』


 インカムのスピーカーを通して、少し低めの女性の声が返ってくる。

 女性はこちらの声を聞くと怪訝そうにした。


『本日の第三部隊は北米支部で待機だったはずですが……』


「あー……俺だけあれだ、本部長様からありがたい特務をいただいてな。単独行動中だ」


『あ、なるほど。失礼しました』


 生真面目な言葉が返ってくる。

 スピーカーの向こうで女性は気を取り直すように続ける。


『それで、なにかご用件でしょうか? 特務中のエージェントは基本、オペレーターとの通信も切断して行動するはずですが』


「悪いが緊急だ。大至急医療班を送ってくれ。移動中の治療ができる人員と設備も忘れずにな。ポイントは今から送信する」


 男は反対の手で、コートの懐から長さ10センチ程度の携帯端末を取り出す。中央のボタンを押すと端末の頭に、半透明の非物理ウィンドウが浮かび上がった。

 端末の十字キーといくつかのボタンを操作し、現在位置情報の送信を行う。


『ポイント受信しました。ここは……極東地域ですね。医療班をすぐに手配します』


「可能な限り特急で頼む。それともう一つ、技術班のキャシーも連れてきてくれ」


『……キャシーさん、ですか。彼女、研究室に篭ってなかなか出てきてくれませんが』


「例の躯体装具運用のサンプルが手に入った、って伝えてみろ。喜んで出てくるからよ」


『はあ。分かりました』


 女性はいまいち納得できていなさそうな声色だが、それ以上は何も聞かずに向こうからの音声がピタリと止んだ。

 諸々の手配に入ったのだろう。男もインカムから手を離し、通信を切断する。

 ……ふと見れば、吸っていたタバコが根元まで灰になっていた。男は面倒くさげに携帯用の灰皿を取り出すと、残った部分をグリグリと押し付ける形で中にねじ込む。


 改めて、彼は足元に転がる少女を見据える。

 背丈は平均的か、少し小さい。肩に届くかどうか程度まで伸ばされた黒髪は、海水に濡れて肌に貼り付いている。服装は一般的。どこでだって見れそうな素朴な格好。故に、彼女が負っている傷跡は見た目に反して似つかわしくない痕跡である。


(……さて、どうなるかねぇ)


 男はのんびりとした動作で立ち上がる。

 生死の狭間を彷徨い、そこに横たわる一人の少女―――アカバネ・サクラを見下ろしながら。






*****






 ―――気持ち悪い。

 暗く、深く、重たい、無限に続くような闇の中で。サクラが初めて抱いた意識はそれだった。

 全身に大量の鉛でも圧し掛かったみたいに体は重たく、ピクリとも動かせない。今の自分には肉体そのものが存在しないような、そんな錯覚まで感じる。

 そもそも、生きているのか死んでいるのか。

 自分自身のことさえも理解できず、真っ暗な闇の牢獄に全身が囚われている。


 けれど。

 体の感覚が遮断されているのに反して、視界には光が差し込んだ。

 正確には―――無理矢理こじ開けられた。

 自分の意思ではなく他の誰かの手によって外から瞼を開けられたのだと、脳が理解するまでにひどく長い時間を要する。

 右目の情報しか得られない中で……視界の中には、見知らぬ天井と一人の男が映っていた。


『よお。聞こえるか?』


 朦朧とした意識と、薄く靄がかかったみたいにハッキリとしない視界。聴覚も正確に働かず、男の問いかけはまるで反響してるかのように脳に伝わる。何か答えを返そうと喉に力を込めようとするが、ちっとも力が入らず喋ることができない。

 男がサクラの顔に添える手をスッと放す。途端、瞼にとてつもない重量が加わり今にも閉じられそうになる。

 一瞬でも気を抜いたらそれだけで意識を喪失しそうだった。


『返事は無理そうだな……イエスなら瞳を動かせ。上から下に、頷くように』


 言われた通りにサクラは視線を動かす。たったそれだけの運動とも言えない動きで、とてつもなく体力を消費するような感覚を覚える。

 男はサクラの反応を確認すると応えるようにして頷いてみせる。


『よし、聞こえるみたいだな。ならこっちからの用件をさっさと伝えるぞ。お前さんの時間もあまりなさそうだからな』


 ここはどこなのか。

 あなたは誰なのか。

 脳内に薄っすらと浮かび上がるサクラの疑問だが当然口にすることはできず、男はつらつらと自分の言いたいことだけを喋り始める。


『伝えることは三つ』


 男はサクラに見えるように指を三本立てると、うち一本を曲げてみせる。


『まず今のお前さんだが、ちょいと特殊な劇薬を打って無理矢理意識を覚醒させてる状態だ。体の状態は正直かなり不味い。その意識が続くのも長くて数分。時間が無いってはそういうことだ』


 淡々と、男は言葉を続ける。


『ボロボロのお前さんを回収して約一時間、こっちとしても懸命に治療しているが……ハッキリ言って、このままじゃ助からない』


 その言葉は、余命を告げる医師の言葉なんかよりもとても軽く、何でもないように言われる。


『治療を続けたところで、成功確率は大目に見ても20%。仮にそれで成功しても植物状態になるのが関の山だ。……つまり失敗したらこのまま死んで、成功したところでどの道死ぬのと変わりない。確実にお前さんは、助からない』


 まるで死刑宣告のようだと、サクラは感じた。

 ならばなぜわざわざサクラの意識を呼び起こしたのか。その疑問に答えるように、男はもう一本指を折り曲げてみせた。


『ただし、お前さんを助ける方法が一つだけある』


 男の鋭い瞳が、射抜くようにサクラを見つめる。


『そいつを行えば確実に記憶も意識も無事なままお前さんを助けられる。何があったか知らんが、破損してる腕と脚もついでに何とかできるだろうな。間違いなく、五体満足無事に生かしてやれる訳だ』


 だが、と男は続ける。

 そんな簡単な話ではないと伝えるように。


『代償がある。細かい詳細は時間が無いから省くが……人間として当たり前の機能を、いくつか失うことになる。脳にダメージを受けてるのが何よりやばい点でな。そこを修復するのはいいが、確実に影響が出るのは間違いない』


 さらにもう一点。

 補足するように男は付け加えてくる。


『加えて、その医療法はうちでも最高クラスの技術レベルだ。余所者のお前さんに施すとなると、それでハイ終わり、とは行かない。情報の保護やその他諸々も含めて……お前さんの出自に関わらず、その体はうちの"物"になる』


 男は腕組みをすると、淡白な調子で続けた。


『ようするにうちで働いてもらうっつーわけだ。お前さんの意思に関わらずな。言っておくがクソみてぇな職場だぞ? 汚れ仕事ばっかりの戦場だ』


 本当に面倒くさそうな表情で男が言うところを見るに、言葉通りなのだろうと推測できる。

 ぼんやりとした意識の中で話を聞くサクラに、彼は言い聞かせるように人差し指を立てて、僅かに顔を近づけた。


『んで、これが最後。話を聞いた上で、お前さんはどうしたい? このまま死ぬか、オレ達に協力することを承知して助かるか。前者ならこのまま寝ろ。後者なら……さっきと同じように目を動かせ』


(―――……、)


『さぁ、どうする?』


 じっと、サクラは男の言ったことを反芻する。

 正直、そのほとんどが理解できていなかった。霧のように薄っすらとした意識の中で、彼の言葉を聞いても頭が働かずに情報の整理がまったくできない。

 ただ一つ分かることは、サクラに迫られた選択は二つ。

 死ぬか、生きるか―――、ただそれだけ。


 "どっちだっていい"。

 それがサクラの気持ちだった。

 仮にここで生き延びても、サクラの中にはすでに何も残ってはいない。どうせただの人形みたいに、虚しいだけの生を消費していくだけ。

 そして死んだところで、サクラにとってこの世に思い残すことなんて何も―――、


 ……思い残すこと?

 ピキリと、頭のどこかに痛みが走り抜けた。


(…………、ぁ……)


 ジワジワと、ジワジワと奥底から広がってくる記憶。


(ぁ……、ぁあ……)


 血に染まる、地獄のような光景。

 共に笑いあった友の無残な死に様。

 自分を大切に育ててくれた母と、

 厳しくもずっと見守ってくれた父の、

 死体。


(あ、っ……、じ……ん……、)


 そして、鮮血で沈む死体の真ん中で。

 嗤いながら歩み寄ってくる一人の男。

 惨劇を作り出した張本人である―――その男の姿が。

 脳裏に、蘇る。


「……―――、がっ……あ゛……ッ!!」


「!? お、おい! どうした!?」


 突然電気ショックでも受けたみたいに、ガクンッ、とサクラの体が跳ね上がる。

 全身が痙攣を起こし瞳孔が定まらない。しかしサクラは自分の体などお構いなしに、血走った視線で男を見ると―――感触すら感じない右手を無理矢理動かして、彼の腕を掴みあげた。


 狭い視界の外から、初めて目の前の男以外の人影が現れる。全員が青のスクラブスーツを身にまとっていた。暴れられると判断されたのか、彼らに残ってる手足や胴体を上から押さえ付けられる。

 しかし、関係ない。サクラは充血した右目で、少し驚いた様子の男を見つめる。その右手は異常なほど力がこもり、決して離すまいと男の腕を握り締める。

 喉は完全に渇き切っており、何か喋ろうとするだけで焼けるような痛みが走る。それでもサクラは、酸素マスクが被せられた口を懸命に動かし、言葉を口にしようとする。


「おね、が……いっ、……わた、し…、は……っ!」


「……」


「いきなきゃ……ならない……!!」


 死の淵に立たされた少女からの、搾り出すような声。

 ―――まだ死ねない。

 蘇る記憶によって、惨めなまでに生へとしがみ付こうとするサクラの中にあるのは、たったそれだけの血の滲むような思い。

 男はそんなサクラの眼光をじっと受け止めて……やがて、ゆっくりと頷いた。


「……分かった。何としてでも生かしてやる」


 その言葉を聞いた瞬間―――心が安心したように、フッと全身の力が抜けていくのが分かった。

 男の腕を放し、右腕は力なく落ちる。瞼が急激に重さを増して、視界が少しずつ黒に染まっていく。

 再び闇に呑み込まれ、消え行く意識の中で。

 サクラは思う。


 ―――死ねない。生きる理由はないが、死ねない理由ならある。

 サクラの心の中には、例えどんなに小さく今にも消えそうな炎であっても、決して消させるわけにはいかない漆黒の炎が宿っていた。

 故に、這い蹲ってでも生きなきゃならない。どんなに見っとも無く、惨めでも。






*****






『よっ、サクラ。半年振りだな』


『はははっ、分かった分かった。兄さんが悪かったよ』


『サクラは意識高いなぁ。うんうん、兄ながらその姿勢は関心するぞ』


『そうだ。この後家に帰ったら、久々に兄さんが稽古付けてやる。どうだ?』


『……よし! そうと決まったらさっさと帰ろう! サクラ、家まで競争だ!』


『サクラ。道場で待っててくれ。用事が済んだらすぐに向かう』


『なーに言ってんだ。世の中早い者勝ちなんだよっと。んん、うまい』


『朝の稽古と言えば……ふ、ふふ……今思い出しても笑いが……』


『……ああ、いいぞ。当然だが、時間があったらな』



『あれをやったのは……全部俺だ。こいつを使って全員殺した。母さんも、そして父上も』







「……、」


 ―――最低最悪の夢を見た。

 だが、夢だと分かった時点ですぐに覚めた。

 ゆっくり瞼を開くと、見たことない白い天井が真っ先に目に飛び込んできた。


 唐突に意識を取り戻したサクラが真っ先に感じたことは―――全身が、物凄くしんどいということ。

 動かせないことはない。だがその気力を引っ張り出すのが非常に億劫なほど、とにかく体が重い。

 なにより。


(……お腹、痛い)


 妙な腹痛を感じた。

 激痛、というほどではない。チリチリとした薄く小さな痛みが継続的にへその少し下辺りから感じる。下痢などの不快感とは少し違うため、我慢できないというレベルではないが。


(ここは……)


 呆然とした意識の中、ゆっくりと視線だけを動かして周囲を見渡すが……さすがに分からない。

 ここはしっかり確認しようと、全身の気だるさに抗うようにグッと上半身に力を込めた。ピキピキと背中と首辺りから骨を鳴らす音が聞こえる。よほど長い間寝ていたのだろうか、体の筋肉がかなり凝り固まってることが分かる。


 ゆっくりと上体だけを起き上がらせ、ふぅ、と一息。意識も少しずつ覚醒してきた。

 辺りを見渡す。白い天井に、白い壁。床は丁寧にワックス掛けされているのか、証明の光が綺麗に反射している。窓は一つ。今はカーテンが閉ざされているが、隙間から外の日光がわずかに差し込んでいた。

 部屋全体は8畳ほどの個室で、サクラが上に寝る病床の他にも、小さいテーブルやスタッキング可能な簡素な椅子などが置かれている。パッと見たところ、ちょっと豪華な病院の個室といったところ。


「……え?」


 そこまで確認したところで、ふと気づく。

 あまりにも自然だった為に今まで一切気づかなかった。


 ―――左目が見えていた。

 思わず瞬きを何度も繰り返したり、右目だけ瞼を閉じたりして確認するが……間違いなく鮮明に見えている。

 あの時確かに、刀で貫かれたはずなのに。


(なんで……)


 首を動かす。ベッドの左側にある病頭台―――その上に置かれていた小さな手鏡を手に取り、自分の正面まで持ってくる。僅かに緊張した面持ちで、反射されて写る自分の姿を確認する。

 当然だが、他でもないアカバネ・サクラの顔であった。

 額には鉢巻みたいに包帯を巻いているが、いつもの自分の顔である。

 小まめに切り揃えていたショートボブの黒髪。前髪の下に見える自分の両目は至って健在。左目付近にはこれといって傷跡もなく、眼球も普通。刺されたことなど嘘のよう。


 さらに、気づく。

 これといって意識することなく手鏡を手にしていたが―――切断されたはずの左手で鏡を持っていた。慌てて自身の体を見下ろすが、薄緑色の病衣に身を包んでいるという点を除けば普段通り。左足も、しっかり動かせる感覚がある。


 すべての間接をスムーズに動かせて、触感や感覚もある。

 信じられないが、確かに失った体の一部が元に戻っていた。


(あり得ない……けど、まさかこれ……)


 神妙な面持ちで自身の体をじっと見つめるサクラ。

 そんな時。

 ヴィン、と部屋の奥から機械的な音が鳴る。

 顔を上げて振り向くと、部屋の入り口らしき自動ドアが開いて一人の男が立っていた。

 180センチはあるだろうか、高めの身長。年齢は30歳程度だろうか。暗いブラウンの髪の毛はウルフカットに整えて、前髪の隙間からはどこか気だるそうな目が覗いている。黒の長いロングコートを身にまとい、一応病室だろう部屋にも関わらずタバコを当然のように吸っている。


 彼の姿にはなんだか少し見覚えがある気がする。

 男はサクラの姿を見ると少し驚いたように目を見開き、黙りこくった後、困ったように顎に手をやった。


「こういう時どうすんだっけ? 医療班に連絡入れりゃあいいのか? ……まあいいか、後で」


 適当な独り言をぼやきながら、彼はのそのそと部屋に踏み込んでくる。

 病床のすぐ隣まで来ると、近くにあったスタッキングチェアを一つ引っ張ってきて腰を下ろす。彼はサクラの顔を伺うように見ると、人差し指と中指で挟んだタバコを小さく持ち上げて見せた。


「いいか?」


 近くで吸っていいか、という意味だろうか。

 吸いながら部屋に入ってきた時点で今更な気もするが、別に気にすることではない。サクラは僅かに目線を逸らす。


「……別に」


「お、そうか? じゃあ遠慮なく……、はぁー。最近はタバコの煙を嫌がるやつが増えたからなぁ。ニコチンとタールがなきゃこっちは生きていけねぇってのに、困っちまうぜ」


 別に聞いてもいないのに心底辛そうにそんな事を言う男。

 それからたっぷり5分ほど。隣でプカプカ煙を吹かし続け。

 ようやく吸い切ったのか、彼はポケットから携帯灰皿を取り出し押し込むようにして吸殻を処理する。

 灰皿の蓋を閉めて再度ポケットに突っ込むと、改めてこちらに視線を投げかけた。


「―――さて、改めておはようさん。3日ぶりの起床はどうよ」


「3日……?」


「ああ、ずっとぐっすりだったぜ。地獄の瀬戸際から帰ってきた感想でも聞きたいところだが……ま、その様子じゃ気分のいいものではなさそうだな」


 初めてまともに話す相手に愛想笑いの一つも浮かべないサクラを見て、ヘラヘラ笑いながら男はそんな事を言う。

 別にそれが理由ではないが、実際、気分が最悪なのは事実だ。面倒なので適当に聞き流す。

 変わりに浮かんでいた疑問を口にした。


「……あなた、誰?」


「ん? あぁ、自己紹介がまだだったな」


 うっかりしていたとばかりに男は手を叩く。

 さっきから何を話すにしてもわざとらしい態度ばかりで、いまいち対応に困る男である。


「俺はアルザス・ラングレー。ここで働いてる。覚えてるか? 倒れてるお前さんを助けたのは一応俺なんだ、感謝しろよ」


 言われてようやく気づく。

 ここで意識を取り戻すより前―――アルザスと名乗る彼の言うことが本当だとすれば、三日前。非常に曖昧な記憶ではあるが、一度だけ意識を取り戻していた時間がある。

 あの時自分に語りかけていた男と目の前のアルザス。二人の外見と声が一致して、ようやく納得がいった。


「ああ……あの時の」


「思い出したか? ったく、あん時は大変だったんだぞ? 最後に無理して体動かしやがって。余計な治療の手間が増えたんだからな」


「……そう」


 自分から聞いておきながら、素っ気無い態度のサクラ。

 しかしアルザスは気にすることなく、なぜかじっとこちらを見据える。

 思わずサクラは睨み返す。


「なに?」


「なにって、次はそっちの番だろう? いつまでも『お前』じゃ不便だからな」


 面倒な奴だ、とサクラは思う。

 つい以前までの自分だったら逆に愛想が良い相手で話しやすかっただろうが……今はもう、鬱陶しいとしか感じられない。それほどまでにサクラの心は、磨り減って別物に成り代わっている。

 とはいえ、名前を先に聞いたのはこちらだ。自分も名乗らないわけにはいかない。


「……サクラ」


「サクラ、か。姓はなんだ?」


「……、」


 一瞬、喉が詰まる。それを口にすると、どうしてもあの血塗れの光景を思い出してしまうから。


「……、アカバネ」


「アカバネか。お前さん、生まれは極東地域でいいんだろ? っとなると向こうの名前の形式に合わせると……アカバネ・サクラか」


 アカバネ・サクラ、アカバネ・サクラ……、と覚えるためか小声で呟くアルザス。

 最初数回はイントネーションが少しずれていたが、何度か言う内に正しい発音に。

 それで彼は満足気に頷いたが、


「アカバネか……なんか聞いたことがあるような、ないような……」


 と俯きながらブツブツ呟き始める。

 とはいえ、すぐ考えることを諦めたのか。『ま、いいか』と勝手に一人で締め括った。

 じっと無言で見ていたサクラにアルザスは改めて視線を合わせると、軽く前かがみになりながら口を開く。


「よし、サクラ。お前さんとはこれから長い付き合いになると思うが、まあよろしく頼む」


「……?」


 何をよろしく頼むというのか。

 疑問に感じたことをすぐに聞き返そうとしたが、その前にアルザスが続けて言葉を挟んでくる。

 その際、彼の視線はサクラの左腕辺りへと運ばれる。


「んで、サクラ。体の調子はどうだ? そいつは馴染んでるか?」


「馴染む……?」


「なんだ気づいてないのか? 人間の体は失った部分が3日で生えるほど便利じゃないぞ」


「……、馬鹿にしないで」


「はは、怒んなって。その左腕と左足、義肢だからな」


 義肢。

 つまり、作り物の腕と足、ということ。

 それはよく分かる。サクラだって自分の手足が切断させた時の記憶は今でも鮮明に覚えている。今更実は夢だったなんて、現実逃避するようなこと考えない。

 だが、どうしても疑問が残る。


(これが義肢? 感触がこんな正確に伝わってくるのに……)


 ベッドのシーツを撫でた時の肌触りから、衣服に包まれている微妙な感触まで。試しに左腕の肌を強めにつねってみるが……痛覚もしっかりと感じられる。

 怪訝な表情のサクラに対し、アルザスはからかうように口を開く。


「手のひらを耳に当てて指を動かしてみな」


「……、」


 その言葉の真意は謎だが、言われた通り左手で耳をふさぐようにして五本の指を乱雑に動かしてみる。

 ―――するとごく僅かだが、間接が動くたびにウィー、ウィー、といった骨ではありえない機械的な音が鳴っていることに気づく。


「本当に……」


「ああ。ついでに表面の素材は新型ヒューマノイドに利用してるものと同じだからお墨付きだ。お前さんの身体から逆算して99%元の手足に近い形で作ってるから、おそらく違和感もないはず。ああちなみに、左目も同じだ」


「……じゃあ、この触感は?」


「ん、あー……それはだな」


 アルザスの説明だけでは納得がいかない、間違いなく脳へ情報が伝わっている左腕が感じる触感の回復。

 その問いを向けると、しかしアルザスは歯切れが悪そうにして頭を掻く。

 サクラの問いには答えることなく、彼はそのままコートの懐に手を伸ばすと、一枚の封筒を取り出した。おもむろに中から三つ折にされた一枚の紙を取り出すと、こちらへ手渡してくる。


「なに?」


「ま、見てみろって」


 眉をひそめながらも、仕方ないので紙を受け取る。折られた紙面を開き、中へ目を通してみる。

 ……正直、難しいことが大量に書いてあって理解できなかった。というか細かい字が敷き詰まっていて読む気になれない。

 たが、一つ分かることは。

 ズラリと文字が書かれたもっとも右下に、明らかな署名欄があるということ。

 アルザスは小さく笑いながら言った。


「要はそいつにサインしたら教えられるってこった」


 つまり、何かしろの契約書ということになる。

 サクラは以前の記憶でアルザスが言っていたことを思い出す。


『加えて、その医療法はうちでも最高クラスの技術レベルだ。余所者のお前さんに施すとなると、それでハイ終わり、とは行かない。情報の保護やその他諸々も含めて……お前さんの出自に関わらず、その体はうちの"物"になる』


『ようするにうちで働いてもらうっつーわけだ。お前さんの意思に関わらずな。言っておくがクソみてぇな職場だぞ? 汚れ仕事ばっかりの戦場だ』


 記憶を遡って、なるほど、と納得する。

 サクラは、薄く小さい、虚無的な笑みを僅かに浮かべた。


「……ここにサインしたら、私は何をしてるかも分からないあなた達の仲間ってこと?」


「そうなるな」


「あなた達がどういう連中なのか、先に説明はないわけ?」


「契約してからでなきゃ教えられない決まりなんでな」


「……それで? 私に拒否権はないんでしょう?」


「ああ。そういう約束だったろ?」


 とんだ連中だとサクラは呆れる。

 まともに喋ることもできない相手に妙な治療を施して、『治療した換わりにうちで働いてもらう。拒否はできない』である。

 普通だったら命を天秤に掛けられた恐ろしいほどの悪徳契約だ。

 だが……瀬戸際で、それを頼んだのは他でもないサクラ自身。

 はぁ、と小さくため息を吐く。


「……分かった。ペン貸して」


「話が早くて助かる。ほらよ」


 サクラの従順な態度にアルザスは頷くと、胸ポケットから万年筆を取り出してこちらへ渡してくる。一緒に、ベッド備え付けのテーブルを奥から引っ張ってくれた。

 テーブルの上に契約書を置いて、万年筆のキャップを外す。

 署名欄へとペン先を移動させて―――、

 一瞬、サクラの手の動きが止まった。


(……、)


 本当に、こんな訳も分からない連中との契約書にサインなどしてしまってもいいのか。

 そんな僅かな逡巡が脳裏を過ぎる。

 だが、


(……どの道、私に残ってるのは自分の命だけじゃない)


 迷いは一瞬で絶たれた。

 今のサクラには後ろ盾はないが、同時に、これ以上失うものもない。そもそも迷う必要なんて存在しないのだと。

 すぐに手を動かして、スラスラと、サクラは目の前の契約書に、間違いなく自身の名前を記入した。

 ―――アカバネ・サクラと。


 この瞬間、契約は交わされた。

 サクラと、アルザスが所属するその"組織"との、切っても切れない契約が。


「よし、これでお前さんは正式にうちの一員だ」


 サインが終わった契約書をサクラから受け取り、間違いが無いか確認したアルザスは満足気に頷く。

 彼は言う。孤独に闇へ佇むサクラへと、手招きでもするように。

 その組織の名を。


「ようこそ、『クラウド』へ。ここが正真正銘、世界で最も血生臭い戦場だ」






 ―――全ての始発点。

 アカバネ・サクラという少女のお話は、ここから始まる。




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クラウドウォッチ ゆたなるい @yutanarui

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