#06 散桜

 残すはもう、アカバネ一族本家―――つまり、サクラの自宅だけだった。

 靴や肌がどれだけ血で汚れようが、走ってる際に転んで擦り傷を作ろうが、ただ無我夢中に村の中を走り回り。涙を枯らしながら、この地獄の中で生き延びている誰かを捜し続けて。

 しかし―――何十もの無残な殺され方をした死体ばかりがサクラの瞳映り、生きている人なんてたった一人さえも見つからず……ここまで戻ってきた。


 焦点が合わない虚ろな瞳で、サクラは自宅であるお屋敷を見上げる。

 ここには当然、父と母……そして、丁度仕事の休暇で戻ってきている兄がいる。

 親しかった者達の死体を幾度となく見せつけられて心が完全に砕け切っていたサクラは、最早半分以上諦めかけていた。どうせ家族も、と……だが、僅かに希望もある。


 ここはアカバネ一族の本家。

 嫁いできた母はともかく、父と、そして兄は、アカバネ流の剣術と一族に伝わる血継が使える猛者だ。サクラがいない間に一体どれほど凶悪な殺人犯が村にやってきたのかは知らないが、あの二人はそう易々とやられるほど甘くは無い。


 もしかすると、まだ。

 彼らなら生きているかもしれない。

 ほんの僅かだが、胸のうちに湧いた希望を抱いてサクラは自身の家へと踏み込んでいく。

 靴は脱がない。母に見られたらきっと怒られるが、まだ何が起こるか分かったものではない。もしかするとこの惨劇を起こした張本人が、未だ近くにいる可能性だって十分にある。


 最初に居間を訪れた。数時間ほど前には、家族四人で夕食を食べた場所。

 障子を開けると……誰もいなかった。人がいないというだけで、普段通りの変わらぬ光景がそこにある。


「……、」


 障子を閉めることなくその場から立ち去ると、次に父と母の寝室へと赴いた。

 兄はともかく、両親がいる可能性が最も高いのはここだ。父は……今晩会合があると言っていたからいないかもしれないが、母は間違いないはず。

 障子を開ける際、一瞬手が止まったが……僅かな逡巡の末、ゆっくりと開け、中を覗いた。


「……?」


 しかしここにも、人影は見当たらなかった。

 布団の上には誰も寝ておらず、物陰になるような場所もないためどこか隅の方で……ということもあり得ない。

 怪訝に思いながら、しかしどこの部屋にもいないというのはまずないはず。

 寝室にいない以上、他の部屋もしっかり捜して回ろうと改めてその場を動き出した。

 父と母それぞれの個室に、書斎や物置、浴室、トイレ。挙句使っていない空き部屋もしっかりと探索していくサクラ。

 だが、一通り回って。

 両親の姿はどこにも見受けられなかった。


(……兄さんも、いない)


 最後に訪れた、兄の自室。

 外から見るだけでなく中に踏み込んで隅々まで確認してみたが、ジンの姿も同様に見受けられなかった。

 行き場を失ったように、つい立ち竦むサクラ。

 ほぼ全ての部屋を回ったにも関わらず、家族の姿はどこにも見当たらない。仮に外出してるとして、他に家族が行きそうな場所を考えるが……そもそも、そういったところは家に戻ってくる前に全て寄ってきたはず。


 となると、村の異変に気付き先に逃げたのではないか、という可能性が湧いてくる。

 しかしそれも、ちゃんと方向を考えて逃げるのであれば、村の正面入り口から歩いてきたサクラとすでにすれ違っているはずだ。可能性としては非常に低い。


 しばし考えこみ、サクラは兄の部屋に置かれた立て掛け式の鏡へと視線をやった。

 ……酷い格好だった。体中砂や埃に汚れて、肘と膝は何度も転んだせいで大きな擦り傷が。つま先から膝にかけては血溜りを幾度と無く疾走して踏み抜いたため、その時浴びた飛沫でところどころが赤く染まっている。

 何よりサクラ自身の顔。まるでかなり厳しい食事制限でも行った後かのように、完全にやつれきって、自分でも驚くぐらい暗い表情になっている。しかし直そうとは思えなかった。そんな元気、塵とも湧いてこなかった。


 ―――だが、何気なく鏡を見たおかげでサクラはある事に気が付いた。

 すっかり存在を忘れていた、腰の後ろに携えている父からもらった小太刀。それを鏡越しに改めて確認した途端、まだお屋敷の中で唯一行っていない場所があることをふっと思い出す。


(道場……)


 毎日サクラが稽古を欠かさず行っている、家に備え付けの道場。ただ一つ、まだ行っていない場所があるとすれば……そこだけだ。


「……」


 身を翻し、サクラは再び足を動かす。

 僅かな希望を……家族三人が、サクラのことを笑顔で出迎えてくれる小さな可能性だけを信じて。屋敷の道場へと重たい足取りで向かった。






 そして。

 辿り着いたサクラを出迎えたのは。

 母・キッカの―――亡骸だった。


「……、」


 道場へ入る薄い引き戸を開けると、そのすぐ真下に転がる、胸の中央を貫かれた母の死体。

 真っ先に飛び込んできた光景に、サクラは……なぜか自分でも不思議なほど、心は冷静だった。

 とても悲しいのに。自分を生んで、今まで育ててくれた母が息を引き取って悲しいはずなのに。

 ここに来るまでにあまりにも憔悴し切ったサクラの心には、『ああ、やっぱりか』という事実確認にしか最早感じられなかった。


 ほんの数分前まで抱いていた希望も容赦なく打ち砕かれ、しかしそれさえもどうでもいいとさえ感じる。

 ここは正真正銘の、地獄。

 希望なんて、ありはしないのだ。


 おそらくは、ここに父と兄も。

 そう思って、ゆっくりと虚ろな視線を持ち上げる。


 ―――血が見えた。

 血溜りにうつ伏せで沈む、大きな体。

 間違いなく、父・カロクだ。生きているのか死んでいるのか……これまでの光景を思い出せば、どちらかは容易に想像できてしまう。


 18年。ようやくサクラを認め、素直に褒めてくれた父。

 厳しかったけど、だからこそ、あんなに優しく頭を撫でられてとても嬉しかった記憶。

 それら全てを血で染める醜悪な光景がそこにあって―――サクラの心は、涙を流すことさえできなかった。


 だが。

 直後に、見えた。

 血溜りに沈む父の体の傍らに―――じっと佇む、一つの影を。


「!!」


 ゆっくりと視線を持ち上げていた最中、その爪先が見えた途端サクラは衝撃で顔を上げた。

 そこに二の足で立っている人間がいるとは思わなかったから。てっきり自分以外は死んだものだと絶望に落ちていたその瞬間である。

 サクラの見つめる正面―――倒れる父の傍らで、"淦翅流"と書かれた掛け軸の手前に。

 そこに……一人の男が立っていた。

 サクラはその背中に、見覚えがある。癖の少ない黒髪に、170センチ程度の平均的な身長。忘れるわけが無い。桜が常に目標として掲げ、必死に追い続けていた大きな背中なのだから。


「兄さん……?」


 ―――アカバネ・ジン。

 彼はこちらに背を向け、見たところどこにもそれらしい傷を受けずにじっと佇んでいた。

 サクラの小さな呼びかけに、彼の肩がピクリと動く。その反応ひとつで、ジンがしっかりと生きているという事実が確認できる。

 彼はゆっくりとした動作でこちらへ振り向くと、薄っすらと口元に笑顔を浮かべた。

 なぜか普段とまるで変わらないように。


「ああ、サクラか」


 ジンが一歩、こちらへ近づいてきた。倒れる父の体を跨ぐようにして。

 対しサクラは、体が反射的に―――前ではなく、後ろへ下る。

 そんなサクラの反応にジンは、心底不思議そうな表情で問いを投げかけてくる。


「? どうしたんだ、サクラ。なんで逃げる?」


 その言葉には、何の陰りも当然感じられない。いつもの兄と変わらず、何気なくサクラに対して言葉を向ける。

 サクラも分かってる。普通は嬉しいはずなのだ。一人でも生きている人がいると信じ、捜して、とにかく村中捜し回って、ようやく出会えた生存者。それも、他の誰よりも尊敬してやまない兄妹のジン。

 今すぐにでも彼の胸に飛び込みたい。溜まった全てを吐き出すように、彼の腕の中で命一杯涙を流したい。

 他でもないサクラが、自分の心をよく分かっている。

 けれど―――そうできない理由が、目の前にあった。

 ゆっくりと、確実に近づいてくるジン。

 彼の様子には何もおかしなところはないし、妹のサクラを安心させようととても優しい笑顔を浮かべている。


 ただ一つ。

 その右手に―――血に塗れた一振りの刀を握り締めてさえいなければ。


「兄さん……それ、なに……?」


 震えた声で恐る恐る尋ねる。

 兄は足を止めると、キョトンとした表情で右手に持つ太刀を軽く持ち上げてみせる。それだけの動作で、ポタポタと赤い液体が床へと滴り落ちる。


「これか? なにって、お前も知ってるだろう? 父上が昔、俺にくれた刀じゃないか。名は"鬼切おにきり"」


 そうじゃない。

 今サクラが聞きたいことは、そんな話ではない。


「そうじゃ、なくて……! なんでっ、そんなもの抜いて……!」


 わざとらしい素っ頓狂な態度のジンと、彼が持つ鮮血が滴る一振りの刀。そしてジンの足元に倒れる血塗れの父。

 何より、今まで見てきた死体の数々を―――その殺害方法が、改めて脳内に浮かび上がり。

 とてもじゃないが、信じられない仮説がサクラの中に浮上した。

 まさか、あり得ないと。そんなことする理由が無いと、サクラは懸命に心の中で首を振る。

 サクラの心情を知ってか知らずか、ジンは悠々とした態度で腰に手を添えつつ、村の正面大通りの方角へと首をめぐらせた。


「サクラ、お前もここに来るまで見てきただろう? 村のみんなをさ」


「え……?」


「みんな綺麗さっぱり死んでただろう? 心臓か頭を引き裂くか突き破るかして、確実に絶命する手段で殺されていた。だろ?」


 なにを。

 ジンは一体、なにを言っている。

 掴みどころの無い彼の態度と、どう足掻いても想像してしまう絶対にありえないはずの仮説が、目の前で合致しようとしている。

 それを聞いてしまったら、引き返せない。

 何もかもが終わってしまうとサクラは感じる。

 しかしジンは、何の迷いも躊躇いもなく、お気楽な調子でそれを口に出してしまった。


「あれをやったのは……全部俺だ。こいつを使って全員殺した。母さんも、そして父上も」


 ―――決定的なことを、ジンは気軽な調子で言ってみせた。

 頭の中が真っ白になる。何と答え、どう行動すべきなのか。分からない。何もかもが分からない。

 呆然と立ち尽くすサクラに、ジンはまるで自慢話でもするかのようにノリ気で口を動かす。


「ゲンナイさんを袈裟斬りで真っ二つにしたのも俺。その奥さんを、庇おうとしたポーラごと八つ裂きにしたのも俺。雑貨屋のトミタさんや、ラーメン屋のタカさんを殺したのも俺。勿論、マチエの首を刎ねたのも俺だ」


「……う、そ…」


「ん?」


「嘘……嘘だ……そんなの、だって……あり得ない……」


 信じられるわけがない。

 ジンが口走る荒唐無稽なことなど、断じて信じられるわけがない。


「ねぇ、兄さん……? 嘘なんでしょ? 何かの悪い冗談なんだよね? それも……ほら、兄さんがこれをやった犯人をやっつけてくれたんでしょ? ねぇ……?」


 ほとんど縋るように。本当はそうであってほしいと願いさえも込めて、サクラはジンに言葉を向ける。

 ジンは心底困ったような様子で頭を掻いてみせた。


「なんだよサクラ、兄さんの言葉が信じられないのか? 困ったなぁ」


 『ま、いいか』と後ろに付け加えると、ジンは再び前進する。

 刀は決して鞘に収めることなく、いつもと何も変わらない笑顔だけを顔面に貼り付けて。一歩一歩、サクラに対して距離を詰めてくる。

 が、そんな時。

 ゴソッ、と兄のすぐ真後ろで何かが物音を立てた。

 再度足を止め、ジンは肩越しに後方へと視線を配る。

 そこには―――サクラも、てっきり死んだと思っていた父・カロクが、地面に這い蹲りながらジンの片足を掴み鋭い眼光で見上げていた。

 まだ生きていた。

 その事実にサクラは今すぐにでも駆け寄りたい衝動に駆られるが、間に立つジンの存在があまりにも大きく、その場から一歩も動けない。

 血に濡れた父の口が、僅かに動く。その瞳はサクラへと注がれていた。


「サクラ、か……戻ってきて、しまったのだな……」


「父、さん……?」


 搾り出された父のかすれた声は、どこか少し物悲しげな様子を感じさせる。

 その父に片足を捕まれ、じっと佇んでいた兄は面倒くさそうな調子でそこを見下ろしている。


「なんだ父上、まだ生きていたんですね。しぶとさも村で一番ですかね」


 しかしジンはそこまで言い切ると、はっと何か良い事でも思いついたかのように顔を上げた。

 この状況にはどうあっても似合わない明るい表情で、彼は再びサクラの方へと視線を投げかける。


「サクラ、兄さんの言葉が信じられないんだったよな? なら今から証拠を見せてやるよ」


「……証、拠?」


「ああ。サクラはきっと、俺が村の皆を殺しただなんて信じられない。兄さんはそんな悪い人じゃないって、俺のことを美化して見てるんだろ? なら実演してみせるのが一番だよな」


 ―――"実演"。その何気ない単語に含まれる、邪悪な意味。

 まさか。考えは一瞬にしてある結論へと辿り着く。

 刀を握る兄の右手が僅かに動いた。それを目で捉えた瞬間、サクラは自分の考えが事実であることを理解して、


「や、やめっ―――」


 ヒュンッ、と兄の持つ刀の刃が月明かりに照らされる中で一瞬の煌めきを放った。

 直後に、ボトリ、と床へ力なく落下するジンの足を掴んでいた父の片腕。


「ぐっ……!?」


 父の顔が、さらなる苦痛で歪む。

 簡単な話だ。

 斬り落としたのだ。刹那の斬撃で、父の腕を。

 思い出したかのように切断された腕の断面からドバッと血が噴き出し、道場の床に更なる血溜りを生んでいく。

 ジンは体ごと横たわる父の方へと振り返ると、淡々とした口調で言葉を紡ぐ。


「父上。サクラがなかなか俺のことを信じてくれなくてさ。悪いけど、サクラのために父上のこと使わせてもらいますね?」


 『サクラはよく見てるんだぞ』と、こちらへは背中を向けたまま軽い調子で言うジン。

 サクラは引きつった喉で何も言う事ができず、制止しようと手を伸ばしかけていたところで固まって。ジンは桜の様子などお構いなしに、右手の刃を頭上へと掲げた。

 そして。


「よっと」


 まるで台所で野菜でも切るような調子で、倒れた父へ刀を容赦なく振り下ろす。

 ブシャッ、と鮮血が宙を舞い、床や天井が更に血で濡れる。ジン本人も返り血を浴びて体を赤く染めるが、まったく気にする様子もなくジンは再び刃を振り上げる。

 振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。振り上げる。

 そんな単純作業を幾度と無く繰り返し、ほんの数秒もしない内に、道場の中のほとんどが真っ赤な血で染まっていた。

 人間の体のどこにこれだけの血液が流れているのか、最早何も言う事ができず、ただ呆然と立ち尽くすだけのサクラはそんなどうでもいいことを考えてしまう。

 ジンはこれで何か納得がいったかのように手を止めると、満足気にこちらへ振り向く。


「どうだサクラ? 兄さんはこういうことを平気でできるんだ。これで信じられるだろ?」


「……ぁ、」


 何か言おうと口を開くが、言葉が出てこない。

 他でもないジンが、今まさに目の前で父を滅多斬りにした。その事実を突きつけられて、思考も体も、何もかもが麻痺してしまう。


「……、サ、クラ……」


 声が。

 今にも消え入りそうな声が、ふとサクラの耳に届く。

 全身をグチャグチャに切り裂かれて、最早原型すら保っていないのに……父は極僅かに残る意識の中、サクラに言葉を投げ掛けてきた。


「お、前は……い、きろ……、逃げてっ………生き―――、」


「しつこいよ、父さん」


 言葉を遮るように、ザンッ!! とジンの刀が振り抜かれた。

 こちらを見つめる父。言いかけていた、最後の言葉。そんな父の頭が、ごろりと力なく床を転がった。


「ぁ……ああぁ……っ、」


 無残にも、兄の手によって殺された父の惨殺体。

 途端に、つい数時間前サクラを褒めてくれた父の優しい顔が脳裏に蘇った。

 瞳から光を失い二度と笑うことの無い父の生首と、記憶の中のあの笑顔が、目の前で重なって。

 すでに枯れたと思っていた涙が、また溢れ出してきた。

 膝から床へ崩れ落ちる。涙で視界がぼやけるが、それを拭う気力すら湧かずにサクラは力なく項垂れる。


「これで分かっただろ、サクラ? もう説明は不要だよな?」


 そして―――この惨劇を作り出した張本人であるアカバネ・ジンは、父のことなどもう忘れたとばかりに気楽な調子で、再びサクラへと言葉を向ける。

 きっと何かの冗談なんだ、という希望的観測はすでにサクラの中から消え去っていた。

 他でもない目の前の光景こそが、揺ぎ無い証拠。

 ジンが全てを殺し、壊した。

 殺戮の限りを尽くし、この地獄を作り出した張本人。

 彼は血で染まった床を平然と歩きながら、サクラへ一歩一歩近づいてくる。


「さて……残るはサクラ、お前だけだ。何が、なんて聞くなよな? それぐらい分かるだろ?」


 分かりたくない。それが本音だ。

 だがこの状況を見れば、嫌でも理解してしまう。

 ジンはサクラのことも殺そうとしている。

 容赦情けなんて塵ほどもなく、今まさに父が殺されたのと同じように。

 笑顔を浮かべて、いつも通りの変わらない態度で。


「じっとしてるんだぞ、サクラ。抵抗しないんだったら痛みは一瞬で終わらせてやるから」


 彼はさぞ妹を気遣うように言いながら、サクラの目の前まで歩み寄って、立ち止まる。

 虚ろな目でサクラは目の前の兄を見上げた。 

 どこも変わらない。唯一、全身を返り血で汚しているというただその一点を除けば、兄はサクラがよく知っているアカバネ・ジンと何も変わらない。

 もういっそ―――。

 自分も、ここで殺されてしまえば。

 これ以上辛く苦しい現実を見る必要だってなくなる。なぜ兄がこのような惨劇を起こしたのか、その理由を仮に知ったところで、父や母、村のみんなが蘇るわけじゃない。

 自分も一緒に死んでしまえば、楽になれる。ジンの言うとおり痛みは一瞬なのだ。


 サクラは抵抗の意思を見せなかった。

 全てを諦めて、ダラリと全身の力を抜いている。

 ジンはそれを見下ろし、うんうんと満足そうに頷く。


「素直な妹は兄さん大好きだぞ。じゃ、そのまま動くんじゃないぞ」


 躊躇いは一切なく、刀が振り上げられる。サクラから見ても分かる。首を狙って、一撃でしっかりと殺すつもりだ。


(もう、どうでもいいや……)


 サクラはそっと瞼を閉じた。

 これで終わる。何もかも、全部。他の事なんてどうでもいい。

 自分も楽になりたいと―――サクラは、刻一刻と迫り来る己の死を、ただジッと受け入れようとして。


『お、前は……い、きろ……、逃げてっ………生き―――、』


 感情を無にした途端―――つい先ほどの、父の最期の言葉が脳裏を過ぎった。

 その瞬間、体の感覚がまるでスローモーションのように感じられ。父の言葉と同時に―――己の腰後ろに携えていた、自分自身の小太刀の存在を思い出す。


『いいのか、これで?』


『ここで抵抗無く殺されて、それでいいのか?』


 無限にも感じる数瞬の意識の中で、サクラの本能が、今の自分自身に問い掛けてくる。

 父を、母を、友を、仲間を。

 理由も分からず殺されて、それで本当にいいのか? 納得できるのか?


 こんなところで、死んでいいのか?


 ―――否。

 体の生存本能が、バチバチと稲妻を走らせたように改めて稼動する。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 ただそれだけの感情が胸の奥から溢れ出し。


 刀が振り下ろされるほぼ同時。

 サクラの手が動いた。

 逆手から抜きやすいよう腰の後ろに携えている、父から授かった無銘の小太刀。

 迫り来る刃にピッタリと重ねるように、それを素早く抜き払った。


 ギィンッ! と刃同士が激突する金属音。

 すんでのタイミングで防がれるとは思っていなかったのか、ジンの両目が僅かに見開かれる。

 驚きで僅かに硬直した兄の腹部目掛けて、サクラは低い姿勢のまま全力で蹴りを突き出した。


「!」


 足裏から確かな手応えを感じ、ジンの体は僅かに後方へとノックバックする。

 その隙を突いてサクラは―――斬りかかるのではなく、慌てて立ち上がり、道場の出口へと全力で駆け出した。


 道場を抜け、狭い廊下を一気に駆け抜けて―――、正面玄関ではなく屋敷の裏口から、戸を蹴破るようにして外へ抜け出す。

 全力で駆け抜け、兄と対峙していた自宅の道場から瞬く間に距離を離す。


(とにかく……っ、今は逃げないと……!)


 真正面からジンと切り結んだところで、決定的な実力差があることは他でもないサクラがよく分かっていた。

 剣技も、血継の錬度も、遥かにジンが上を行く。

 全力でぶつかったところで勝率が限りなく薄いことは目に見えている。

 ならば今は、逃げるしかない。

 無様だろうがなんだろうが、最期の父に言われたとおり、逃げて逃げて、生き延びるしかない。


(村の裏手を抜ければ、確かっ……、海岸沿いの崖……! まずはそこまで……っ)


 村の正面から逃げても、一直線の大きな道であるため背中から刺される大きなリスクが伴う。ならば今は、少しでも複雑な道を通り、追ってきているかもしれないジンを素早く撒くことが優先される。

 未だに震えて竦みそうになる両足に鞭を打ちながら、民家の隙間を潜りぬけ、村の裏側へ。

 この先は海食岸しかないため、子供が間違って進んでしまわないよう竹柵が広めに設置してある。が、それをひと思いに飛び越えると、雑木林の道なき道へと足の回転を緩めることなく突き抜けていく。


 不安定な足場に度々転びそうになり、短い枝や草木で肌を切るが、とにかく今は構わことなく全力で足を動かす。

 ―――やがて、歩けば10分以上は掛かるはずの雑木林を物凄いスピードで抜け、村の裏手にある海岸沿いの崖までサクラはやってきた。月明かりが照らす夜空の下、僅かに聞こえる波の音。崖の縁まで来てようやく足を止め、息を整えるサクラは約25メートルはある断崖絶壁を見下ろした。


 柱状節理の安山岩による、海食によって岩肌が削られた大きな崖。当然、なんの考えもなしに飛び降りればかなり危険だが……サクラは周囲へと視線を巡らせる。


(どこか……下に降りれそうな場所。崖の壁面を背にして何とかやり過ごす……!)


 少なくともスタミナの限界までただ走り続けるよりか、逃げ切れる可能性は幾分か高いはず。そう考えての逃走経路であった。

 ……だが。


「どうした? 鬼ごっこはもう終わりかな?」


「っ!?」


 背後から、声。

 慌てて振り返ると、先と変わらない姿のジンが太刀を片手にそこにいた。

 サクラと違うのは、一切息を切らしていないということ。汗ひとつかかず、余裕の表情でそこに佇む。

 崖を背にするサクラは、右手に持つ小太刀をギュッと握り締めながらそんな兄の姿を睨み付ける。


「兄さん……」


「まったく、突然逃げ出すから見失うところだったじゃないか」


 言う割には、後ろをピッタリくっ付いてきたんじゃないかと思うほど、短時間でサクラに追いついてきたジン。

 サクラは察す。ジンはあくまで、本気なのだということを。

 ただ何となく殺したいとか、浅い理由ではない。彼をここまで突き動かすほどの何かがあって、本気になっている。

 でなければここまでするだろうか。

 村の住人を片っ端から確実に殺し回って、他でもない自分の肉親さえも容赦なく手に掛ける。

 サクラは小太刀を握り締める手に、自然と力が篭るのが分かった。


「兄さん、なんで……」


「?」


「……っ、なんでこんなことしたの!!」


 人を殺したことへの罪悪感などまるで感じさせないジンの表情に、サクラは生まれて初めて兄に対し純粋な怒りが湧き上がる。

 同時に、彼の真意を知りたい。知らなきゃならない。そういった使命感が胸の中に浮き上がる。


「みんな……っ、みんな兄さんが帰ってきて嬉しかったんだよ!! ゲンナイさんは話を聞いたら嬉しそうに笑って! マチエさんは兄さんに久々に会えるのを楽しみにして! 母さんは大げさなぐらい喜んで、あんなに一杯ご馳走を作ってくれて!!」


 叫べば叫ぶほど、消沈していたサクラの感情が膨れ上がり、口から言葉として次々と吐き出されていく。

 目尻に涙が滲んで、溢れる。皆の笑顔と死体が記憶の中で重なって、心が強く締め付けられる。

 それでもサクラは、叫ばずにはいられなかった。


「父さんは……いつもしかめっ面だったけど、ちゃんと私や兄さんのこと考えてくれて……っ! みんな! 兄さんのこと大好きだったんだよ!! なのになんでっ……、なんでこんなことしたのよぉ!!」


 吐き出される感情の全て。

 しかしジンは―――サクラの言葉を受けて、つまらなそうに眉を寄せた。


「あのなぁサクラ。なんでなんでって……全部聞かなきゃ分からないのか?」


 その口調は、相変わらず妹をなだめる兄のそれと何も変わらない。

 彼は刀をその場で一度強く払い、刀身を濡らしていた血液を僅かに雑草が茂る岩の地面へと振り払う。刀の棟を下に置くようにして、肩に刀身を担いだ。


「サクラ……この際だからいいことを教えてやる」


「いいこと……?」


「ああ。兄からの大事な教えだ」


 ジンはサクラから視線を逸らすと、夜空に浮かぶ月の光に目をやる。どこかしみじみと、たそがれるように彼は言う。


「世の中はな、常に何かの犠牲の上で成り立ってる。人間が、肉や魚といった元は生き物だったものを食うのと同じ。食物連鎖って言葉は知ってるだろ? 1は2の犠牲に、2は3の犠牲に……そうやって世の中は回ってる」


 当たり前のことを、当たり前のように語るジン。

 彼は小さく笑いながら、さぞ退屈そうに言葉を続ける。


「人間ほどの自我や意志を持っていない動物達は分かりやすいよな。彼らは自分達が生きる為に何かを犠牲にし、また自らより上位の存在によって踏み台にされて、そんな食って食われつの連鎖を繰り返しながら生きてる。……でもそれは、何も人間にだけ当てはまらない、なんてことはあり得ない」


 ジンの瞳が、再びサクラへと移された。

 そこに宿す感情は、まったく分からない。

 しかし、ただ一つ。

 身の毛もよだつような、邪悪な何かをピリピリと感じさせていた。


「人間の中にもあるんだよ、"上"と"下"っていうのが」


「なにを、言ってるの……?」


「分からないか? アカバネ一族にだって例外なくそいつは当てはまるわけさ。人間の中の、食物連鎖。犠牲にする側とされる側。生きるもの全てにいつか終わりが来るように、一族にとっては今日がその日だったんだよ」


 ジンの言っていることの意味が……サクラには理解できなかった。

 あまりにも荒唐無稽で、気が狂っているとしか思えない理由。

 そして、何より。

 皆を殺した言い訳を、そんなクソみたいな理屈で語ろうとしていることに。

 沸々と、サクラの感情の奥底で……今まで一度たりとも感じたことがない、何かがあふれ出そうしてくる。


「アカバネが滅ぶことは、この世の中……いや、世界の為なんだよ。世界を廻す歯車は、繊細で、ほんの小さな綻びすら許されない。古い歯車は取り替えなきゃならない……そうだろう? だから殺すことにしたんだ」


「…………、」


「アカバネ一族は歯車にへばり付く細かい錆だった。刀と同じで、錆付いたものは使い物にならない。よって一人ずつ、丁寧に、確実に……殺した」


 聞けば聞くほど、サクラの奥深くから"それ"は滲み出してくる。

 黒く。

 黒く。

 どこまでも黒い。

 真っ黒な感情が、心を覆い尽くすように侵食していく。


「父さんも、母さんも、村の仲間達みんなも、全部全部全部……邪魔だった。だから俺が、この手で殺した。他でもない"世界"の為に、な」


 ジンはそれだけ言い終わると、改めて刀を肩から下ろした。

 不敵な笑みを浮かべながら、じっと動かないサクラに歩み寄るべくゆっくりと近付いてくる。


「これで理解したか? サクラ、お前もみんなと同じだ。世界の錆なんだよ。だから死ななきゃならない。俺に殺されなきゃならない」


「………、な……ぃで」


「ん? どうした? 俺も人の子だ、言い残すことがあったら聞いてやるぞ」


 変わらず屈託無く笑うジンへ、サクラはゆっくりと顔を上げた。

 散々涙を流し切って、悲しみや怒り、様々な感情を交えた虚ろな瞳がジンを射抜く。


 ―――ではなんだ。村の仲間達も、父や母も。

 その訳も分からない、世界の為とやらで殺される運命だった、とでも言うのか?


 その眼光の深遠に―――炎が、宿った。


「―――ふざけないで……、」


 それは、光を宿す灯火ではない。

 身を焦がすほどの灼熱の意思と、冷たく凍えきった絶望の感情が煮えくり返り。

 一切の光を拒絶し遮断する―――漆黒の業火。


 歯を食いしばり、両目が見開かれる。

 小太刀を握り締める手に、血が滲むほどの力が込められる。

 逃げるとか、隠れるとか、そんなことどうでもいい。全身に稲妻が迸ったかのように、踏み出せと、本能が脳に叫びかける。


「―――ジィィイイイイイインッ!!!」


 その男の名を、喉が弾けんばかりに叫び。

 ―――"殺意"。

 たった一つ、その感情に全身が突き動かされ、サクラは全力で前へと飛び出した。


 瞬く間、一瞬にして互いの距離が縮まり、右手に握る小太刀が月光を浴びて一閃。

 驚異的な反応速度で防御を滑り込ませたジンの刀と、真正面から激突した。

 ギギギギギッ!! とあまりの速度と驚異的な力に、鍔の根元で衝突した小太刀が、刀身の半ばまで火花を散らしながら押し込まれる。僅かに、受け止めたジンの体も後方へと下がる。


「へぇ……」


 殺意にまみれたサクラの視線を受け止めて、互いに鍔迫り合いで拮抗しながら、尚もジンは薄っすらと笑う。


「サクラ。さっき言ったよな? "抵抗しないんだったら"痛みは一瞬で終わらせてやるって」


「黙れぇ!!」


 サクラは悟る。

 目の前にいる男は、もう……サクラの知っている、アカバネ・ジンではないということを。

 優しくて、心強くて、いつだって頼もしかった、あの頃の大好きな兄は、もういないと。


「お前、だけは……ッ、」


 今そこにいるのは、サクラの大切なもの全てを笑いながら奪い去った―――ただの"敵"。

 父から授かったこの刀で最も最初に殺すべき、サクラの"敵"だ。


「お前だけはぁぁ!!」


 目的はただ一つ。目の前の男を、全ての力を以て斬り殺す。

 咆哮と同時、競り合っていた刃を無理矢理押し込み、刃の交錯。一瞬のヒマすら与えず、斬り返す刃で奴の喉下を狙う。

 ジンは半歩後ろへ下がることで迫る刃を避けてみせるが―――反撃は許さない。

 後退するジンを更に追撃し、前へ前へと踏み込みながら幾度とない連撃を浴びせていく。

 ことごとくが防ぎ、弾かれ、避けられるが、その一振り一振り全てには、奴の命を刈り取るべく純粋な殺意が宿る。


「なるほど、いいじゃないか。だったら稽古の続きといくか」


 サクラの攻撃を受け流しながら、ジンは尚も余裕の表情で口を動かす。

 黙らせるべく顔面目掛けた刺突を織り交ぜるが、僅かに顔を反らすことで容易く回避される。


「ルールは血継有りの実戦形式だ。先に相手を殺した方が勝ち。単純だろう?」


 言われなくとも、こちらは元よりそのつもりである。

 今サクラが求めるものは、家族と仲間を笑顔で殺した、目の前の狂った殺人者をこの手で斬り裂くこと。

 一切の猶予を与えず、剣戟に剣戟を重ねて奴の喉笛へと接近するのみ。


「いい攻めだな。だけど……、」


 ジンは僅かに刀を持つ右手を下に下げる。

 手首のスナップだけで、自身の真後ろへと刀を放り投げた。

 ―――朝方の訓練では、これと同じ戦法で不意を突かれた。

 だが。


(同じ手は二度も通用しないッ!!)


 刀を投げ捨てる予備動作が見えた段階で、サクラは一瞬攻撃の手を止めて、右腕を振りかぶるとジンの頭上スレスレを狙うようにして自身の小太刀を投擲した。

 瞬間。

 サクラとジン、二人の血継がほぼ同時に発動する。

 互いの体が青白い光を拡散して消滅し―――サクラから見て3メートルほど前方に、一瞬にして姿を現す。

 サクラは、空中で再び握り締めた小太刀を、ジンの頭上から重力を乗せて一気に振り下ろした。

 ガギィッン!! と一際強い衝撃で、互いの刃が相打つ。交わる刃越しに、互いの視線が交差する。


「過去の反省はしっかり生かされてるみたいだな」


 ―――アカバネの血継は。

 手放している自身の武器の元へと、一瞬にして肉体を転移させる力。

 血継を用いて距離を離されるなら、こちらもまた、同じ力を利用して食い下がっていけばいい。


 地面に着地したサクラは、手を休めることなく更なる猛攻を仕掛ける―――のではなく。

 切り払いつつ、背後へと一気に飛び退いた。その際、ジンの顔面目掛けて小太刀を投げ放つ。続けざまに繰り出す武器の投擲にジンの両目が僅かに見開かれたが、彼は冷静に、迫り来る小太刀を上空へと弾いた。


「ッ……!!」


 サクラの研ぎ澄まされた意識から、再び血継が発動する。

 打ち上げられた小太刀の元へ、体が転移。真上を取ったそのポジションからさらに刀を投げ放つ。

 尚も弾かれ小太刀は明後日の方向へと吹き飛ぶが―――、すかさず血継発動。

 小太刀の元へと転移し、またもジンへ向けて投擲。

 超速で血継による瞬間転移と武器の投擲を繰り返し、四次元的に飛び回りにながら相手を翻弄する。これがアカバネ流の真の形。

 今まで感じたことがないほどの錬度と集中力がサクラの動きを次へ次へと段階的に上昇させ、一投一投繰り返す度に、速度と威力が更なる高みへと上り詰めていく。


(速く……!! 奴の反応速度を超えるだけの速さを……ッ!!)


 ―――確実に、その段階へと迫っている。

 ジンが完全にサクラの動きを読み切っているのであれば、投擲される小太刀を狙った位置へ弾き飛ばし、血継で転移してくる場所に先置きするようにして攻撃を繰り出せば確実にサクラの動き止めることができるはず。

 だが、それができていない。表情も僅かに眉間を寄せて、先程よりも険しくなっている。

 今ならば、超えることができる。

 目の前の男を、サクラ自身の憎悪の刃で殺すことができる―――!!


「ぁぁあああああッ!!!」


 咆哮一閃。

 血継の転移で背後を取った刹那、全力を用いて投擲する刃。

 月光に反射する銀の煌めきが、流星のようにして一直線にジンへ突き進む。

 だが―――ジンは動かない。反応できなかったのではなく、その刃が自分をギリギリ外してることを読んだから。

 おそらくはフェイント。敢えて小太刀を外すことでタイミングをずらし、次で確実に狙ってくると―――そう判断し慌てることなく動きを止め、次の投擲を迎え撃つために意識は小太刀の行く先へと。

 だが。

 それは大きな判断ミスだ。

 回避行動も取らず、当たらないと確信して佇むジンの真横を小太刀が突き抜ける―――その瞬間目掛けて。


 サクラの血継が発動する。

 ジンとその真横を抜ける刀が、最も接近した僅か一瞬を狙って。


「!?」


 ジンの表情が、その時初めて焦りに染まった。

 回避も防御も間に合わない……当然、武器を投げて血継の転移で回避する暇もありはしない、肉薄するほどの超至近距離で、小太刀を強く握り締めるサクラ。

 ―――完全に、取った。

 勝利を確信する、絶対に外しようがない致命の一撃。


「はぁっ!!」


 吐息と同時に。

 今度こそジンの喉笛を確実に斬り裂くべく、必殺の刃が振り払われ。



 ―――空を切った。



「……え?」


 思わずサクラの口から間抜けな声が漏れる。

 目の前にジンはいた。確実にやり切れる間合いと隙を作って、殺したと確信した。

 しかし瞬きの一瞬のうちに、突然姿が消えて―――、


 ドッ。


 混乱した脳に雷でも落ちたかのように、突如、胸の中央から全身に向けて衝撃が走り抜けた。

 ビクンッ、と体が一瞬強張り、息が詰まる。


「……ぁ、」


 まるで金縛りにでもあったような動かない体で、それでもゆっくりと、何とか首だけ動かして衝撃を受けた胸の中心に視線を落とす。


 ―――刺されていた。

 ジンの持つ刀に、胸を貫かれて。


「あ……ぇ……?」


 それを視界に収めた途端、ジワジワと、刃で貫かれている箇所から強烈に熱したような痛みが広がってくる。

 気管か肺に大きな傷を受けたせいか……うまく呼吸ができない。

 服に段々と赤い染みが広がっていき、サクラの足元に血液がポタポタと滴り落ちていく。

 震える視線を持ち上げると―――貫く刀を握り締めるジンが、こちらを見下していた。


「今のは少し危なかった。強くなったなぁサクラ」


 一体今、目の前で何が起きたのか。理解がまったく追いつかない。

 ジンの姿が突然消えたと思ったら、また現れて、刺された。ただそれだけ。しかしその手段が一切分からない。

 当然だが、血継を使ったようには思えない。サクラが血継で転移した際に出る火花のような青白い粒子も、発動時の炸裂音も、確かになかったはず。

 ジンは相手を褒め称えるようにニッコリと笑いながら、サクラの視線を見つめ返した。


「でも、やっぱり兄さんの方が一枚上手だったな。アカバネの"血継"……いや、この"異能力"は使えるようになってからがようやくスタートライン。今見せたのが力の本質だ」


「はぁ……っ、あ、…っ!」


 何を言われているのかさっぱり分からない。それどころか、胸を刀で突き刺されていることによる激痛と呼吸困難が、サクラの判断能力を不安定に揺るがす。


「一族でもここまで目覚めるやつはそうそういないらしいが……もうちょっとの間しっかり修行できる時間があったら、サクラ、もしかするとお前も目覚めてたかもな」


「な……に、を……っ」


 しかしサクラが喋ろうとしたその瞬間。

 ジンはおもむろに、刀の柄を握る右手を90度捻ってみせた。

 グチュ、と。貫かれた胸部の肉が内側から抉られる。


「がっ、ぁぁああああああっ!?」


 想像を絶するほどの激痛が全身へ迸り、ガクガクと体が痙攣を起こす。

 涙と唾液が溢れ、同時に喉の奥からせり上がってくる不快感。苦痛を伴う咳が3回、4回と続き、口の中が血の味でいっぱいに広がる。咳と同時に吐血していたのだと理解する。

 悶え苦しむサクラを前にジンは笑顔を崩さぬまま、勢いよく刀を引き抜いた。


「ぐうぅっ!?」


 ジュボ、と栓を抜いたように、空いた風穴から大量の血が溢れ出してくる。岩肌の地面に他でもないサクラ自身の鮮血がぶちまけられ、小鹿のように震える足元に大きな血溜りを作った。

 胸の中央からは気が飛びそうなほどの痛みが常に脳に伝わり、視界はチラチラと白く点滅を起こし焦点が合わない。立ち続けているのもやっとの体で、しかしサクラは、尚も正面を睨み付ける。


 なぜならサクラの手には、まだ父から貰った武器があるから。

 戦うための武器があり、目の前には敵がいる。

 例え足に杭を打ってでも立ち続け、目の前の男を殺さなきゃならない。


「ぐ、あっ……、ぁぁあああああッ!!」


 血を吐き出しながらも、サクラは叫ぶ。

 右手に持った小太刀を振りかぶり、正面に棒立ちでいるジンに力任せに刃を叩き付けようと、全力を持って振り下ろす。

 ―――だが。


 一瞬、ジンの体が水平方向へ大きくブレたかと思うと。

 目にも留まらぬ速度で彼の持つ刀が弧を描き、バキィッン!! という甲高い金属音が一帯へ響き渡った。


「あ……、」


 ふと気づけば、サクラの小太刀が―――振り切る前に、根元から折れていた・・・・・。

 ナイフ以下の短さまで短縮したそれは、あまりにも虚しく空を切る。叩き折られた刀身はクルクルとしばらく宙を舞うと、遥か後方の地面にカランカランと音を響かせて転がった。


「今のも。応用すればこんなこともできるんだ。凄いだろ?」


 何をされたのかも分からない刹那の出来事。

 ただ一つ確実なのは、父から貰ったサクラだけの大切な一振りが、ものの一瞬でいとも容易く破壊されたということ。右手に残る無残にも砕かれた小太刀が、その証拠として寂しく残る。


「さて、これで武器はなくなったが……、」


 ジンは冷静に視線を下へ移すと、流れるような動きで再び刀を振り払った。今度は虫でも払うような乱雑な動きで。

 下段を狙ったそれは、サクラの左足―――大腿部の中央辺りへ吸い込まれると、特につっかかりもなくスパッとスムーズに切り抜けた。


 ―――左足を太ももから斬り落とされた。

 そう頭が理解するより早く、ガクン、と視界が大きく傾き、体の支えの半分を突如として失ったサクラは、左後ろへと力なく倒れこむ。少し遅れて、サクラの体の一部だった左足がただの肉塊として、地面に崩れ落ちた。


「ぎっ、ぁ、ぁあああああああ!?」


「悪いな。痛いだろうけど、また逃げられても困るからな」


 胸を貫かれ、左足を失い、大きな蛇口のように血液を垂れ流すサクラ。口角からは血に混じって泡を吹き出し、全身がガタガタと痙攣し、尿失禁を起こす。

 普通の人間であればすでにショックで気を喪失、乃至とっくに死んでいたっておかしくはない。

 しかし。

 しかしサクラは。

 全身を裂かれんばかりの痛みに顔を歪ませながらも、殺意を宿す瞳でジンを射抜く。

 根元から折れた刀も、残る全ての力で握り締め、未だ諦めまいと離しはしない。


「………、」


 ジンは空いた手を伸ばし、サクラの首を掴む。爪が食い込むほどの握力で握り締めながら、人形のように力なく垂れ下がるサクラを眼前まで持ち上げる。

 ―――その時、ジンが初めてあからさまな本心の感情をサクラに向けた。

 "冷酷"。

 無様な姿の妹を、完全に凍えきった氷のような瞳でじっと見つめる。


「ふーっ……! ふーっ……!」


 荒い息を吐き出しながら、憎悪にまみれた表情でそれを見返すサクラ。

 ガタガタと震え、力なんて込めようのない左手で、自分の首を締め上げるジンの腕をどうにか掴もうとするサクラ。掴めたところで、最早なにもできないことは明白だというのに。

 ジンはその手が自分の腕に届く前に、素早くを刀を動かした。

 一瞬の風切り音。

 次の瞬間二人の足元に、ぼとり、と二の腕から切断されたサクラの左腕が落下する。斬られた断面からはまたもドバッと血が噴き出す。

 ―――それでも。

 ―――それでもサクラの瞳には。

 "目の前の男を何としてでも殺す"と、沸騰して収まらない憎悪がひたすらに宿り続ける。


「……お前は本当にどこまでも、自分の心にしか従えないんだな」


 その言葉は、こんな状況で始めてジンが口にした本心からの言葉に聞こえた。


「お前、だげ、は……っ! ぜ、っだいに、……ッ!!」


「……、」


「絶対、に……殺すっ……!!」


 サクラは、体に残る全ての力を右手に集中させ。

 素人でも分かるほどのゆっくりとした速度で、右手に持つ折れた小太刀をジンの顔面へと突き出した。

 当然、当るわけがない。小さく首を動かすだけで避けられる。

 対してジンは、刀を振り上げつつその切先を―――サクラの左目に向けつつ、水平に構え。



「……サクラ、稽古は俺の勝ちだな」



 一息に―――、突き刺した。

 90センチはある刀身が左瞼を入り口に深く沈み込み、眼球、肉、骨、そして脳を削りながら内部を突き進んで、後頭部から再びその切先が顔を出す。グチャグチャと気色悪い音を立てながら深く深くまで刺し込んで、刀の鍔が押し付けられたところでそれは止まった。


 サクラの体は―――そこで完全に動きを停止した。

 ガクンッ、と全身から力が抜けて、最後まで握っていた小太刀もついに手放し……それは虚しい音を立てながら岩肌の地面に落下する。

 ピクリとも反応しなくなったサクラを、ジンはしばらくじっと見つめた後、顔面に突き刺した刀を勢いよく引き抜いた。支えを失った頭は力なく項垂れ、左目に空いた風穴からドクドクと血を流す。


 サクラの首を掴んだまま引きずるようにして崖際まで歩いたジンは、特に興味もなさ気に、彼女の華奢な体を―――その断崖絶壁から、放り投げた。


「じゃあな、サクラ」


 一言。

 本当にただの別れ際に交わす軽い挨拶でもするかのように。

 捨てられるぬいぐるみみたいに、脱力したまま空を舞って暗い海へと落下していくサクラを。

 冷酷な目で見つめながら、ジンはその場で身を翻した。






 冷たい風を受け、重力に任せて下へ落ちるサクラの瞳には、その場から去るジンの後姿だけが浮かび上がり。

 頭をやられ、まともな思考も取れない中。

 無意識にたった一言、彼女の口は小さく動いた。


「……にい、さん……―――、」


 力なく落下していくサクラは、やがてその真下の水面へと叩きつけられて。

 サクラの意識は海底へ沈むように、闇の奥深くへと閉ざされていった―――。




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