第15話


 暗闇の中でエリさんの唾を飲み込む音が響いた。


 縮こまったミシェルの体が台の上に置かれているはずだが、良く見えない。

 ノボルくんの手元だけがうすぼんやりと光を放っている。

 ノボルくんはため息をついた後、手の上に小さく残っていた青い炎を吹き消した。その瞬間、突然ミシェルからエイリアンの第2形態が発するような“キシャーー”という声がして、背骨が大きくのけぞった。

 肋骨の浮き出た胸が風船のように大きく膨らみ、もう弾けるかと思われたとき、口からプシューと空気が抜けた。そして、その“プシュー”を引き継ぐようにゆっくりと深い呼吸が始まる。


「ごめん。こういうのがミシェルのリクエストなんだ」

 エリさんが見守る中、施術の場である事務所内の“墓地(セメタリー)”でミシェルは息を吹き返した。


 “おまじない”の後、ミシェルは仮死状態のままセメタリーに運ばれ、うつわである生体が痛む前に、ノボルくんの中に貯蔵されていた生命を注がれたのだった。こういうときのノボルくんを見ると、生命の根源成分入りサーバーを背中に背負った野球場のビール売りみたいだと思う。体内に注がれたら“かはー、生き返るぅ”とか、“このために生きてるぅ”とか、“このままグランド3周してきちゃうぞぅ!”とか、思うんだろうか?


 ノボルくんはエリさんの方は見ずに言った。

「ミシェルの体とつながったときに、直接ミシェルの願いが流れ込んできて、あんまりしつこいんで言うこときいちゃった。一度はママの心を独り占めしたいってさ。執念深いね。まるで演歌みたい。……ミシェル、これで少しは納得したかい?」

 ミシェルの顔にははっきりとは分からないけれど、少しだけ満足したような表情が浮かんでいる。

「ミシェル、これはぼくの個人的な意見だけど、あのオバサンの愛情にきみの命を懸ける価値なんてないと思うよ」

 きっと、ノボルくんには分からないのだ。ワシら愛玩動物にとってはそれが全てだということが。飼い主がどんな人間かなんてことには興味がないし、人間たちが彼女に対して抱く感想と動物にとっての好感度は全く関連がない。“オールユウニードイズラブ”状態のミシェルにとって、ノボルくんのアドバイスが心に染みることなんて永久にありえないと思う。


 キヨミさんがエリさんに話しかける。

「この前話した通り、体に影響が出る量ではないらしいんだけど、生体の駆動源“ネウマ”をアナタからミシェルに移植させてもらったの。調子に変わりはないかしら?」

「はい、だい、じょうぶ」

 顔面蒼白でブルブルと震えている様子は全く大丈夫そうに見えないが、これがエリさんの“普通”なのだと思う。

「ノボルがあの時言ったこと、気にしないでね。物の言い方を知らない子だから。……アナタのせいじゃない。受験のときにアナタが摂食障害を発症したことで、お母さんや周りのニンゲンたちの注目がアナタに集中したことがあったとしても、少なくとも意図してやったことではないでしょう? でも、さらにアナタが医学部に受かった後に起こった家族内の地位変化は、彼女にとって女王から下女に転落したのと同じこと。それが、ミシェルにとっては非常に受け入れ難いものだった。あの子も意図したわけではないでしょうけど、疾病利得しっぺいりとくを求めて学習された症状が出現してしまったのね。そして、それはお母さんを右往左往させ、実際上手くいき、強化されていった」

 エリさんの反応がない。キヨミさんが“ちょっと、聞いてる?”という感じで、彼女を顔をのぞき込んでから、尋ねた。

「これから、どうするつもり?」

 エリさんはまだ固まっている。蝋人形のように瞬きもしてない気がするが、本当に“だい、じょうぶ”だろうか?

「わたし、家を出ます。ミシェルと、暮らします」

 突然話し、また固まる。こうやって少しずつ言葉を紡ぐのが彼女のペースのようだ。こんな飼い主だったら、夜のフードの準備を始めて気が付いたら朝になってましたということが起こりそうなので、アル中でも何でも、ワシはノボルくんが飼い主で良かったと思った。とにかく、飼い主に多く望んではいけないということだな。

 続けて、エリさんがボソリという。

「母は今日、新しい猫を、買いに、行きました」

 ノボルくんがフフフっと笑った。

「お母さんはとっても“前向き”なんだね。うーんと、これからもミシェルには手を焼くかもしれないけど、いいのかい?」

「はい!」

 これは即答だった。

「これからも、ミシェルは、ずっと、わたしの、女王様ですから」

 蝋人形の頬に少しだけ赤みが差した。


 『ミシェル、食べないネコ』終

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