第12話
白い恋人のオジサンのおかげで、ワシらはとりあえず訪問診療を継続することになった。
前回の訪問でミシェル姐さんは微睡みながら、ネコ特有の記号的な言語も含めてこんなふうに言ったのだった。「愛でお腹がいっぱいなの。誰か、わたしのお腹を切り裂いてこの愛を取り出して欲しい。そして、それが本物だって証明して欲しいの。もう、疲れたわ。全ては愛のため。愛を受け、愛を返す。ネコって難しいわね。どんなふうに返していいか分からなくなったの。あなたは犬に生まれて正解よ。犬の方が難しいことを考えなくて良いんでしょ? エリちゃんにごめんなさいって伝えて。そして、最後はママのために。もう眠りたい」と。
いかにも舶来のネコらしく妙に芝居がかっているのと、犬についておそろしく誤解しているのが気にくわなかった。明らかに教育的指導が必要な状況だったが、それ以外の点に関して、とにかく初めて自分の気持ちを率直に語ってくれた。ノボルくんはずっと、あの日ミシェルから聞いたことばの意味を牛みたいに何度も咀嚼しているようだったが、噛んでるうちに中身がなくなったのか、ついには考えるのを止めてしまった。まあ、世の中には考えてもどうにもならないことがあるからね。考えててもしょうがないということが分かったところで、エリさんに尋問……じゃなくて質問することになった。キヨミさんからエリさんに連絡をして、エリさんが大学に来るときに、会社の事務所に寄ってくれることになった。
オドオドした様子で入ってきたエリさんに受付のシンシアが一発目を放つ。「どうも、わざわざ遠くから来てくださりやがったかあ? お茶と水と砂糖、どれにするう?」敬語の使い方が根本から間違っている上に選択肢が挑戦的だった。電化製品だったら、とっくに動作不良を理由に送り返されていると思うが、どうやら日本の居心地が良いらしく会社の2階に住んで、留学生として大学に通っている。懐が深すぎるぞ、日本の大学!
エリさんから多少なりとも情報を得ようと思ったのに、座った当初から緊張が強すぎて会話にならず、シンシアの選択肢で「砂糖」を選んだ結果出てきたどす黒いコーヒーを吐き出すし、全身の震えが治まらずに声を出してもバルタン星人みたいだし、とにかく本人が医者になる前に脳の病気も含めて一度病院できっちりみてもらったほうが良さそうだった。それでも、3000ピースのジグソーパズルみたいな情報をつなぎ合わせてみるとなんとなく景色みたいなものが浮かび上がってきた。ノボルくんがニヤニヤしていて、きっと何か良からぬことを考えているに違いなかった。いつもワシは、その良からぬことにブンブン振り回され、宇宙飛行士の訓練みたいなことになっている。
このエリさんの来訪をきっかけにノボルくんはオペをするつもりになったらしい。これまでずっと、ギャンブルオヤジに貯金を費やすようなもんだとか、底の抜けたバスタブにポンジュースを注ぐようなもんだとか言って、やってくれなかったのに。飼い主の理不尽な行動に振り回されるのも、犬の存在意義と言えなくもないと自分を納得させる。犬の報われない忠誠心をエネルギーに転換したら日本に原発は必要なくなると思う。でも、ワシはどうしてノボルくんがこのめんどくさいケースに取り組むつもりになったのか、本当はなんとなく知っている。その言葉を聞いたとき、つまんなさそうなノボルくんの顔つきが少しだけ変わったのだった。エリさんはそれだけはちゃんと言ったのだ。「ミシェルを、本当に、助けたい」と。
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