第10話


「ノボルは今夜出かける用事ができたみたいだね」

 留守番電話を聞いたパパさんが包丁を持って、近くに立っていた。パパさんは自分に油断を与えないように、いつでも包丁を持ってる偉い人なのだ。新聞を読むとき以外はぜったいに包丁を手放さない。この前ノボルくんの誕生日に撮った写真には包丁を持ったままにこやかに笑うパパさんが写っている。こんなに出刃包丁が似合う人はうちのパパさんとナマハゲくらいだと思う。

 ノボルくんのパパは精神科医だったけど、ワシが交通事故にあって死にそうになったときのノボルくんのオペ(移植術)で、すっかり別人になってしまった。パパさんは自分の小さな部屋の中でさえ、常に生命の危険と闘っている。ほんの少しの手違いから自分が人を殺してしまうのではないか、そういう恐怖に常に支配されている。例えば自分が道を歩いてると向こうから人がやって来る。自分がいくら邪魔にならないように気をつけていたとしても、その人が自分を避けようとしてたまたま車道の方に少し進路を変えたところに運悪く猛スピードで車が突っ込んでくる。必ず突っ込んでくる! 自分の存在が原因でほんの少しだけ歩く場所が変わったことで、その人は車にひかれて死んでしまう。そんな想像を何百通りも、何千通りも考え続け、常に身震いしている。そんなこと言い出したらきりがないバカバカしい心配でもパパさんにとってはきわめて深刻だ。そして、ほとんど異次元レベルの理屈で、自分が人を殺しかねないということを自覚するために常に手から包丁を手放さない。いや、手放せない。自分を脅かす世界に対する情報を得るため、ノボルくんが買ってくる新聞を丁寧に読み込むとき以外は。

 パパさん、ノボルくんはまだ帰ってきませんよ。今日は調子が良いんですか?

「ほら、そんなに暴れたら包丁が刺さっちゃうだろ? 下の人にも迷惑だから静かにしなさい」

 パパさんは天気が良くて他の人間たちがうれしいときは調子が悪い人だから、今日みたいな嵐の日にはきっと調子が良くなるのだろう。とても逆境に強いパパさんをワシはますます動物として尊敬してしまう。パパさんは縄張りを広げることには興味がないらしく、家からほとんど出ない。さらにめったに部屋からも出てこない。きっと、小さな縄張りを大事にするタイプなんだね!

 

 パパさんは包丁を左手に持ったまま、右手でワシの頭を撫でて

「なあボサヲ、ノボルは大丈夫だろうか。あの子は本当にだいじょうぶなんだろうか」

 パパさんが悲しそうだ。ノボルくんは大丈夫ですよ。高校生なのにアルコール中毒だし、肝臓が悪くて目玉が黄色いし、変な咳と血を吐くのが止まんないし、学校では一日中眠ってて何のために行ってんのかわかんないし、友達がぜんぜんいないくても、全く問題ありません! それからきっと、晩ご飯のことも心配なんでしょう? 前にノボルくんが仕事で遅かったとき、ご飯が無かったパパさんは本当に悲しそうな顔をしていたっけ。 大丈夫です。また、ノボルくんが作ってくれますよ!

「そうか、ボサヲ、こらっ、そんな動いたら、本当に刺さっちゃうだろ」

 カミナリが何度もピカッとして、その光がパパさんの包丁で反射した。それが、すごくまぶしかった。

 ワシはパパさんのことが好きだ。たとえ、パパさんが実際に手に持った包丁を白昼の路上で振り回し、テンパったお巡りさんに「貴様、本官に逆らうのか!」とか言われて、ハチャメチャに撃った銃弾の一発に倒れたとしても、心の底から愛し続けるだろう。命をもらった犬ができることといったら、無条件の愛で応えることぐらいだからだ。

 ノボルくんが、雷と一緒に帰ってきた。

「ボサヲ、ただいまあ。あれ、なんで血流してんの? また、パパと遊んだのかい?」

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