第8話


 昔、江戸時代の藩校だったというノボルの通う高校は地方都市であるH市の中心部から少し外れたところにあった。伝統に実績を追いつかせようという目的を、伝統的な方法で成し遂げようと無茶に立ち向かっている、すでにおこっている未来というものに抵抗している組織だった。 

 しかし、どんなに時代に取り残されようと、伝統にも良いところはある。この学校には校門がない。さらに、職員室や事務室等の管理部門が納められている棟以外は、藩校時代から藩士がいつまでも勉学・議論に励めるよう常に解放されている。実際に教室にも、校舎にも鍵らしいものがない。夜中に校舎をたまり場にするような不良がいないという平和なところも手伝って、この伝統は辛うじて維持されていた。


 ノボルはいつも夜明け前に学校に行き、自分の机に伏して、時間が経つのをじっと待つ。立てと言われれば立ち、座れと言われれば座る。教科書とノートは全てを持ち帰り、全てを持ってくる。教室に時計はないが、腕時計も携帯電話も持たない。時間を意識させる物を持たないようにしている。構内にある数少ない時計も眼に入れない。時間を意識すると、死にそうになるからだ。時間という考えは、死と密接に結びついている。時間は死を連れてくる。まだ、死なない間は、時計を見てはいけない。

 ノボルは“酢昆布”とあだ名されていた。髪の毛が昆布のように波打ち、伸び放題であり、その上たまにしか風呂に入らないから酸っぱい臭いがするからだ。たった一人の口を利く人間であるヒデアキに、そう説明されたとき、ノボルはなるほどなあと思った。

「オマエに話しかけてるって思われたくねえから、そのまま聞け。みんなオマエのことを嫌ってんだよ。どうしてか分かるだろ? オマエを見てるとイラつくんだよ」

「別に見てくれって頼んでないだろ?」

「オマエ頭悪いのか? そんな無茶な長髪で机に突っ伏してりゃ、目立ってしようがねえんだよ。それに、どうして学校来んだよ? 授業中も、休み時間も寝てるくせに、意味分かんねえよ」

「意味? もし俺のかわりに考えてくれたら、そのために学校に来てやってもいいよ」

 最初二人が交わした会話は、そんな感じだった。翌日、ヒデアキはノボルが学校に来る意味を考えて来た。“ちゃんと勉強する”

 ヒデアキが差し出したルーズリーフには、細いシャープペンでそう書いてあった。伏した姿勢から少しだけ顔を上げてこれを見たノボルは、この学校に入学して始めて笑った。その後、何かが大きく変わったわけではない。ただ、ヒデアキはときどきノボルに話しかけるようになった。

「昼飯、食わねえのか?」「どうして?」「理由がないと、飯食わないのか、オマエ」「帰ってから、ビールがまずくなる。空きっ腹に飲むのが好きなんだ」「酒なんか飲んでんのか? 道理で酒臭いと思った」「臭いについては……悪いと思ってる」「オマエでも、人に悪いって思うことあるんだな」「鼻は、つまんでくれって頼むわけにもいかないだろ?」「いや、俺はときどきつまんでるけど……後ろの席だからな」「……そうか」

 ヒデアキはノボルの友だちではない。本人からノボルにそう念を押したのだから間違いない。おれはオマエの味方とか友だちでは全くないと。

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