第6話
エリの登場がきっかけとなり、おばさんの話が一段落したところで、ワシらは肝心の“あのコ”に会わせてもらうことになった。
キヨミさんが前もってワシとノボルの必要なことをそれなりに説明はしたのだろうが、ここでおばさんが、あのコは猫だから犬はちょっと…なんてことを言い始めた。
本当にもう、ワシが人間なら一言「アンタが何もかも悪い」と言って帰りたい。
でもキヨミさんは、もう一度淡々と話をする。いわゆる動物との翻訳者として、どうしてもワシが必要なこと、これまでの経験上、一般にみられる動物どうしの闘争はワシと患者との間ではみられないこと、一部の病院で採用されているセラピードッグと同様に衛生面では最善を尽くしていて、人間が接近する場合と衛生的リスクは変わらないかむしろ低いこと等を、丁寧に話していく。
おばさんはもともとある程度あきらめていたのかもしれないが、物言いがやんわりと却下されると渋々引き下がり、「それじゃ、本当に気をつけてくださいね。ミシェルちゃんは、犬がとても嫌いなので」と、またワシを最初の「何なの」みたいに一瞥してから、患者のいる場所へと案内した。ミシェル? 何じゃ気取った名前つけちゃって…フランス人かっつうの! ワシはこの家の何もかもにいちゃもんをつけたいクサクサした気分になっていた。
入り口のドアを開けるとまず、芳香剤にケモノ臭が混じった匂いが鼻をつく。
たぶんここはミシェルのための部屋なのだろう。子供部屋としても広過ぎる部屋に猫グッズが散在している。もともと日当たりは良いようで、今は閉じられている遮光カーテンのわずかな隙間から光が漏れ、部屋の中の塵が
入り口のドアからほぼ対角線上の壁際に大型の二階建てケージが据えられている。ゆっくりと近づいて、中を覗くと、痩せ細ったケモノが眼球だけ際だった顔面を向け、ギロリとこちらを睨んでいた。顎が尖り、口の端には口腔内にしまいきれなくなった剣歯がのぞいている。顔面との対比で耳が異様に大きいが、皺の寄った旗のように力なく顔面の輪郭にとり残されている。体毛は艶が無く、けば立っていて、背骨や肩胛骨、肋骨が、毛皮を通しても浮き上がって見えた。本来猫の体が持っているしなやかな曲線が失われ、骨に沿った突起や直線が際だっている。四肢はわずかな肉に突き刺さった棒きれのように突出し、棘のような鋭角を描いて屈折している。猫というよりも、小柄な鬼のミイラだった。
全体は老いさらばえた
コワイ。
ワシは目の前の飯食わぬ、乾ききった鬼のような猫と、少しでも真っ当な会話ができるのだろうか?
できなかったら、ワシはクビになるんだろうか? 芸のできなかった犬をクビにして、ゴハンをあげないとか、犬小屋から追い出すとかいうのは、動物虐待じゃないだろうか。そういう場合にはどこに相談したら良いんだろうか? やっぱり保健所? いや、もしかしたら要らない動物として「そういうところ」に直行になってしまうかもしれん。 お役所とメス犬は信用したらいかんって母犬(ママ)も言ってたしな。そういえば、もうおやつの時間なのに、完全にスルーされてるのは、もしかしてワシに対してそういうプレッシャーをかけようっていう、わけだろうか。ワシ、おやつ抜くと低血糖で気持ち悪くなるんだよな。うっ、なんだか吐きそうになってきた。ここで吐いたら、キヨミさんに蹴られて、クビ決定だ。飛ぶ犬あとを濁さず、去る犬後を追わず……長い間本当にありがとうございました。ここでみんなと過ごした時間はワシの大切な思い出です。うっ、吐き気が本格的になってきた。さっきからじっと見てるよ。ワシの考えてることが分かるんだろうか。まいったな。まいっちゃったな。何か言わなくちゃ。何か……
「調子はどう?」
……当然のごとく無視だね。そうだよね。あっもしかして聞こえなかったとか
「ちょ、調子はいかがですか?」
……あっ、やっぱり最初は自己紹介からだよな。いや、いやワシとしたことが、
「あの、ワシ、いやボクは、あなたの飼い主に頼まれて、相談にのるために来ました、“ラッキー”といいます。いや、生まれてすぐからあんまり困った顔をしてたんで、少しでも幸せな気分になるようにってつけられた名前らしいです。この世に出てきてまもなくから、そんな気を遣われちゃうなんて、それだけで猛烈にアンラッキーな気がするんですけど、でも広島県の水族館に4匹のラッコがいて、アッキー、ラッキー、スッキー、カッキーっていうらしいんです。出身地の「アラスカ」に“ッキー”つけただけって、ラッキー以外言葉の意味ないじゃん! それに比べたらだいぶましかなって思うんです。だって、意味が分かるのに4匹揃わないといけないなんて、半人前ならまだしも、四分の一人前ですよ? これはきついです。四分の一はきついです。四人で1セットなんですから、注がれる愛情も、もらえるゴハンも、きっと四分の一です。それで、人気がなくなったらアラスカ行き決定。きっと、おやつもなくて、無茶苦茶分厚い氷の下を泳いでるこんなちっちゃーい魚を捕まえて口で食わえながら、オレをこんな目に合わせた奴を許さないとか復讐を誓って、黒幕を捜す旅にでちゃいますよ。ゴハンは大事です。たとえアラスカでも、ゴハンさえちゃんと食べてれば犬もニンゲンも何とかなります。顔色悪そうですけど、ごはんはちゃんと食べてます?」
何言ってるんだ、ワシは、ピンポンイトで一番やばいことを! イケナイ、イケナイと思ってると余計そっちに引き寄せられてしまう魔の引力がいけないんだ。
「ワタシ、最近、食べてないの」
「えっ、食べてない、ですよね。だから呼ばれたんですよね。ぼく、変なことを……ごめんなさい、ごめんなさい!」
「いいのよ。ごめんなさい、こちらこそ気を使わせて」
「いえいえ、いや、あの、でも、どうして食べないんです? ボクなんか、オヤツ食べないだけでも相当まいちゃうのに。おいしくない? どんなものが食べたいのか言ってあげようか、飼い主に」
「ごはんはおいしいわよ、きっと。食べてないから良く分からないけど。前はおいしかった」
…………
「おいしいとか、おいしくないとか分からない。それはそうと、あなた変わったワンちゃんね。普通は私たちをそれこそ“毛嫌い”するもんだけど」
「そんな、お客様は神様だから……いやっ! ボクは昔っからどっちかっていうと、ネコ派ですから。犬って子どもっぽいでしょ? なんか仲間どうしでいてもテイストが合わないっていうか、もともとIQとか、EQとか、BBQとか、そういうのがぜんぜんレベルが違うっていうか……ところでもしよろしかったら、今日あたりから、サクッっとごはん食べちゃうっていうのはどうでしょう? そしたら、一発解決っていうか、お互いイヤな思いをせずに後腐れなくこのままバイバイ、いや、何言っっちゃってるんだろ、ボク、ハハッ、ハハッ」
「そうできたらいいんだけどねえ……ねえ、ちょっと訊いて良い? 私って太ってない?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます