第5話

 速攻で一階に降りると、普段でも不機嫌なキヨミさんが間違いなくこれから人を刺しに行く形相をして立っていた。

「どこにいってらっしゃりやがったか! このクソガキとクソイヌが!」

 日本語が怪しい上に、クソが2つも!

 むしろさっきの「白い恋人」たちにつかまったほうが文化的に扱われたような気がする。ノボルくんが胸ぐらを捕まれて、首をガクガク揺すられている。そんな時でも薄ら笑いをやめないノボルくんに屈折した男気を感じる。

 いつもだ、絶対良いことなんてないんだ。ノボルくんについて行って良かったことなんて一度もない。

 Curiosity kills the cat.

 ネコなんか知ったことじゃないけど、無責任な飼い主の好奇心は確実に犬を殺すだろう。


 それにしても、「白い恋人」のオスのほうはズボンを履いてるときの勢いから絶対に追ってくると思ったけど、結局ノボルくんがキヨミさんの腕の先でヘッドバンキング人形になっている間、階段を下りてくるような気配は全くなかった。案外、邪魔者がいなくなったところで、本来の不純な任務遂行に戻ったのかもしれない。ワシは人類の種族保存欲求に感謝した。

 ノボルくんはキヨミさんの尋問にも結局、緘黙を通した。言ったらいけないことはペラペラ言っちゃうクセに、別にしゃべったって構わないようなことは絶対にしゃべらないんだ、この人は。ノボルくんの頸椎からクチャクチャと変な音がし始めたら、さすがにやばいと思ったのかキヨミさんの責め苦も終わった。

 エレベーターに促され、扉が閉まり、動き出してから、ワシはまだ笑っているノボルくんに、言った。

 “病院って、やっぱりコワイ所だね”



 エレベーターを降りてから、すぐのところに鉢植えなどを配した小さな日本庭園があって、玄関のわきには、一体だれをおどすためなのか鹿威ししおどしまであった。キヨミさんが先に入ってワシらを招き入れ、そこで、おばさんの「何なの」的視線にさらされて、慣れてはいるけどきついなあとか思いながら、部屋に案内された(今度は中華風!)。今まで色んなところに行ったけど、このお宅の趣味はちょっとファンキー過ぎる。3階の「白の間」も怖かったが、庭園を通り過ぎてからも、異国情緒というより異空間情緒と言ったほうが良さそうなブッんだ装飾が続いていた。廊下の突き当たりにあったバカでっかい蛾の標本なんて目に染み着いてトラウマレベルだ。


 このオバサンの口はいつまで動くんだろう。


 やっぱり「要注意」だった。だいたい偏見というやつは、偏見ができる理由があるからそういう見識が生まれるのだから、現実と合致する可能性が高くて当然なのだ。そして、またワシはオバサンという種類の生き物を少し嫌いになった。


「良さそうだと聞けば、すぐに連れて行きました。東京の獣医が名医だと言うので、車で半日以上かけて連れて行って、6時間近く待たされた挙げ句に点滴だけされて、食べられない理由は分からないし、“これで様子をみるしかありません”って、そんなことさんざん言われて困ってるから遠くから連れて行ったのに…」

 この話が出たのがもう4回目だった。

 本当はこの人はこうやって口の筋肉を鍛えてるだけなのかもしれない。

 テレビでやってたもんな、現代人は顎が弱ってるって。


「獣医じゃだめだと思って、今度は主人の知り合いで、人間の総合診療科にも意見を聞きに行ったりしました。もし人間であればこういう状態を“摂食障害”って言うんだとおっしゃるから、病気が分かったんなら治療してくださいとお願いしたら、それはできないって、いったい何のための診断なの! 主人にも文句を言ってやったら、それはそういうものなんだって言うし、いったいどんなものなの! まったく、人間の医者も役には立たないわ」

 どんな練習好きのアスリートだってこれくらいハードに一カ所の筋肉を酷使したら、ちょっとは休憩するよ? このおばさんの顎の筋肉をマラソンランナーの大腿四頭筋に移植したら、すごいことになっちゃうに違いない。いや、まじめな話で記録自体はともかく、きっとゴールした後も止まれないと思う。


「健康食品も色々試して、有機野菜とか何とか酵素とか、人間の漢方医にも相談して、食欲が出るような調合をしてもらったら、結局合わないみたいで無理にチューブで飲ませたら下痢してしまってピーヒャラピーヒャラ。かえってあのコにかわいそうなことをしました」

 下痢の説明に「ピーヒャラピーヒャラ」って、雅楽演奏家に恨みでもあるんだろうか? 

「評判の神社の先生におまじないを受けたり、青森の霊能カウンセラーのところまで相談にも行きましたよ。動物のことだと分かるとひどくぞんざいに扱われた上に、御札1枚に九万八千円って、どうして心理価格なの? 有り難み無くなったじゃない? 悲しくなるじゃない? いったいこれって何?」

「何?」初めて会ったときも、目の前の犬と子供について、おばさんの目がそう言っていた。いや、声こそ出さなかったが、実際に口も動いていた。ワシらの存在については「何?」と尋ねたい気持ちが分からなくもないが、神社の価格設定についてきかれても答えようがない。

 この後も、今にも死にそうな飼い猫より、おばさん自身の苦労話が延々と続いた。飼い猫のためにそこまでなさるなんて、あなたはやさしい人ですね、偉いですね、すごいですね、立派ですね、悲しいですね、大変でしたね、涙モノですね…と。別に皮肉でもなんでもなく思うけど、他人からそういうのを無闇と引きだそうとするヒトには動物として邪悪なものを感じてしまう。滝ような情緒の垂れ流しは、ワシらがヒトん家の前で抵抗無く排泄するような嫌われる行為だと思うんだけど。


 キヨミさんは意外にも辛抱強く「なるほど」とか「そうでしたか」とか、相づちを打って聞いている。キヨミさんの調子の合わせ方は、歌い手を気持ち良く歌わせるよう控えめな伴奏をするようだった。このヒトがうまいこと聞いてしまうせいで、おばさんの話が終わらないんじゃないかとワシは疑惑の目で眺めていた。

 ノボルくんは大人しくはしているが、ぼーっとして、テーブルの彫刻を見ている。ようく見ると、目を見開いて少し黄色く濁った眼球をプルプル震わせていて、気持ち悪いことこの上ない。以前、本人から聞いた話だが、この人は時間をつぶすとき、自分が身長1ミリメートルくらいになって、テーブルの上など手近に見えるあらゆるフィールドで思う存分遊び回るところを想像するらしい。たぶん今頃、これでもか!というほど、中華風芸術の上を遊び回って、ダイナミックな地形を満喫していることだろう。

 ワシは無限ループに陥っているオバサンの独演会をBGMに自分の社会的ポジションについて、ひとり反省会をしていた。“こんなことになったのは、そもそもアレがいけないのかもしれん。でも、一番悪いのはアノことで、根本的にはアレがあったからいけないワケで、違った視点から見て、どちらかというとあそこでアレをしたのが原因じゃないか、でも、アレのほうがずっと悪いよな。あああ結局一番悪いのはワシじゃないか、もお、ダメだあ!”って叫び出しそうになるのを必死に我慢していた。


 自分の無力さを呪いながら、メジャーなところからお願いして、十何番目かの神様に祈りを捧げていた時、入り口のドアに控えめなノックがして、ノボルくんよりは少し年上に見えるくらいの女の子が立っていた。かなりぼんやりしていて、道ばたにいたら3人に2人くらいが「大丈夫?」と声をかけそうなタイプだ。

 その少女の“ぼんやり”が移ったみたいに、ワシらもぼんやりとその存在を眺めていた。ひな祭りに飾る雛壇の脇役のさらにサポート係みたいなおかっぱ頭で、皮膚の色は妙に白く、学校にいたら4人のうち3人くらいが「具合悪いの?」と声をかけそうなタイプに思えた。


 自分から入ってきたのに何も言わない少女に、優しい声をかけたのは、さっきまで工期ぎりぎりの道路工事みたいな調子でしゃべり続けていたオバサンだった。

「お客様よ、ほら、あのコのことでいらっしゃった」

「ダ、ダイジョウブ?」」

 それだけ言うと女の子は、そっとドアを閉めていなくなってしまった。フッと、残された記憶にも確信が持てないほど痕跡無く消えた。

 それに「ダイジョウブ」って、どういう意味? 誰に? むしろ、ダイジョウブ?ってこっちが言いたい。


「ごめんなさいね、少し人見知りで」

 少し?、人見知り? 

 おばさんは慣れているのか、同じように軽い調子で「娘のエリ」と彼女を紹介した。そして、自慢の娘らしく、エリが今年私大の医学部に入学したこと、きっと将来は医者と結婚して二人で病院を継いでくれるだろうといった展望まで、訊いてもいないのに話してくれた。

 大学生? 医学部の?

 彼女からは全く、その年齢や進路に見合う成長や成熟の片鱗が感じられず、案外そういうもんかも、で済まないギャップがあった。

 しかし、何にしろ、エリが現れたのがどんな神様にお願いしたときだったかは忘れたが、彼女は、彼女の母親であるおばさんの果てしない話にノックダウンされそうだったワシにとって、天使に等しい存在だった。彼女が見た目通り高校生だろうが、本当に医学生だろうが、茫然自失の天然娘だろうが、それらのこととは関係なく彼女はとにかくワシを異次元トークから救ってくれた救世主に他ならなかった。ワシはあの子の言うことなら、とりあえず一度だけ(金以外の相談なら)何でもきいてやろうと思った。

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