第4話


 階段を上りながらワシは言う。

“だめでしょ? 待っとけって言われたのに。大人の言うことは、表面上黙っておとなしく聞いておきましょうよ。今はワケの分からない、とりあえず言っとけ的な指図に思えてもですね、将来、ああ、あの時ぼくが言われたのはこういうことだったのだなあと思う時が…”

 と完璧に論理的なお説教を食らわせていると、無駄に無鉄砲な少年は踊り場の壁に4と書かれた脇の防火扉を開けようとして

「ありゃ、こっちからはだめみたい」

 と残念そうに言った。

 ……ええと、完膚無きまでにシカトされ宙に浮いたままのお説教は、きっと悲しみの海を渡って、報われなかった思いやりと一緒に、森深くの墓地へ葬られるでしょう。


 ノボルくんは特徴のあるタラッ、タラッ、タラッという断続的リズムの足音を響かせながら3階へ踊るように駆け下りて行く。

 ワシも仕方なく、犬的にすごく苦労しながら階段をヨッコラヨッコラとおぼつかない足取りで降りていった。途中、蒲田行進曲の階段落ちのシーンが3回くらい頭をよぎったけど、“悪いイメージは弱い自分”って言葉のセラピーを繰り返し念じて乗り切った。

 ワシの存在など眼中にないアル中少年が、さっき同様3階の取っ手に手をかけると、今度はすんなりとドアが開いてしまって、「セサミ~♪」てな感じで嬉々として中に滑り込んでいった。ワシはまだ入ってないのに。

“そりゃないよね? 何か冗談だよね?”って、悲しみの海が目の前に広がり、その海辺に佇んで石でも投げようかと考えていたら

「早く来いよ。ぼさお。何やってるの?」

 とノボルが好奇心でキラキラした顔を覗かせた。

 車の中での缶ビールといい、こいつは犬の身体的構造に対するリスペクトが完全に欠けとる。

 不自然でしょ? 犬がスミマセンとか言って、器用にドアを開けて入って行けたら…。

 脳内体育館の裏にノボルを呼び出し、部下のドーベルマン2匹(棘の首輪をしてるやつ。名前はスケさんとカクさん)に「誰がボスか教えてあげなさい」と指令を下しておいた。


 扉の向こうは雪国だった。


 いや、本当の話でまっ白だった。扉の前の階段や踊り場も白っぽかったけど、ここは壁も床も見分けのつかないほど白くてまぶしい。作ったヤツがよほど腹黒くて白に憧れてるのか、「ボクの白ぉ!」とか叫びながら壁にほおずりでもするんじゃないかと思うほど、白い。

 壁に点々みたいのが見えるので顔を近づけてよおく見てみると“spirit”とか“heart”とか“soul”とか書いてある。

 うーん、うまくは言えんが、ナニカガドウカシテイル。

 ここはもしかすると、迷い込んだらどんな悪人でも必ず反省しちゃうという「精神の部屋」じゃないのか?小さい頃母犬から聞かされたような気がする。


 扉を開けてすぐ長い廊下になっていて、等間隔にドアが四つ並んでいる。きっと、それぞれの部屋には白いボスキャラが潜んでいるに間違いないので、ワシはできるだけこんなところは早く通り過ぎようした。そして、突き当たりの一番無難な選択肢に思える別の扉に向かう。ソロリソロリ、ソロリソロリと。 

 それで、そこをちょっと覗いて

“ほうら、ノボルくん、なんにも無かったでしょ? 世の中はあなたが思ってるほど面白いことに満ちてるわけではないのだよ!”

 と先ほどは失敗した教育的指導をフルスウィングして、速攻で元の扉から帰る、…計画だった。


 ところで、こういう言葉を、小さい頃母犬から聞いた気がする。

 “飛んで火に入る夏の虫”

 意味:明かるさにつられて飛んで来た夏の虫が、火で焼け死ぬ意から、自分から進んで災いの中 

    に飛び込むことのたとえ。


 やっぱり、こういうことだけはしてほしくないと思ってるとかならずそれをするんだよ、この子は。

ノボルくんが煩悩の赴くまま四つのうち一番手前のドアノブに手をかけている。

 アアア、それはダメだよ。ダメだよそれは。

 分かってはいたけど、実際されると、ボスキャラに対峙する前から、HPを根こそぎにされた気分になる。


  もうドアを半分開けているノボルくんを見て、“いくらなんでもいきなりビンゴ!はないっしょ”と無理に楽天的になろうとしてた。けど、体を半分入れたまま固まってるノボルくんから、“やっちゃった”雰囲気を感じて、恐る恐る不思議の国を覗いてみる。

 白い恋人(たち)ってこういうのをいうのかな? 白衣を着た男女が、少年少女たちが近い将来似たようなことをなさるとしても、今は見せたくない行為の途中で、固まっていた。

 アチラとコチラの間に流れる言葉のいらない濃密な時間。

沈黙は最も雄弁なコミュニケーションである。


「職場恋愛って難しくない?」

 ノボルが、ボソっとつぶやく。

 ノボルくん、それを言っちゃだめでしょ? 本人たちも分かってやってんだから。

 とにかくそれがキューとなって、静止してた時間がドッと流れ始めた。男が「誰だ、君は!」って言いたかったんだろうけど、“なれわ、いみわ!”って、何語? みたいな音声を発しながら、ズボンを履き始める。

 どうして、こういう時ってズボンが上手く履けないんだろうねえ。ここらへんの事情は、ヒト科オスのみなさんであれば、思春期に突然母親に部屋を開けられて、気まずい思いをしたアノ日のことを思い出してもらえるといいと思う。

 あんまりかっこ悪いんで、ワシは見ててかわいそうになったが、血も涙もない餓鬼道まっしぐらのノボルくんは、踵を返してダハハハハと笑いながら廊下をまっしぐらにダッシュしていく。

 黙って置いてかれるのに慣れっこのワシもすぐノボルについて行った。

 ここで白い恋人(たち)に捕まったら、きっとソ連暗黒時代方式の拷問で、一番にヒトに晒したくない子犬時代のトラウマからプライバシーの最深部まで洗いざらい吐くことになるに違いない。“spirit”も“heart”も“soul”も、バイバイ! もう絶対来ないから。

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