壱章 月と猫【序】

 ……突然だが、俺は今死ぬところだ。

 街を歩いていた所で、背後から襲われた。突っ伏した地面が冷たい。おそらくそう長くはないだろうと、俺の直感が告げた。

 死ぬ前に、少しだけ、俺自身に言い訳がしたい。

 ……他のやつに殺されるようなことを、俺はしていない。

 俺はごく普通の生活をしていた。何一つ、非のあることはしていない。いついかなる時も、この社会のルールを俺なりに守って生きてきたつもりだ。

 街を歩き、俺なりの向上心を持ち、

 俺の同胞に会っては、その尽くを

 強きモノが生き残り、弱きモノは血肉となる――弱肉強食、それが2003のルール。俺はそれに忠実だった。何も悪いことなんてしちゃいない。それなのにこれだ。

 俺の突っ伏しているすぐ側には、まだ犯人が立っている。確実にトドメを刺すつもりなのだろう。気配だけがそこにある。

 ……そろそろ限界だ。意識も薄れてきた。ああ……だが。まあ。そう、だな。不思議と、怖さはない。むしろ、清々しい。だって、俺を殺したのは、きっと――


 ……。


 名東区は本郷の、小さな公園のすぐそばに、古い骨董品屋がある。アンティークなものを取りそろえ、どこからか掘り出し物を見つけては店頭に出し、古めかしい、どこか懐かしいにおいのする店だ。中に机と椅子が設置されていて、誰が使ってもいいよう開放されているからか、昼下がりは専ら休憩目的での来店が多い。

阿南あなみ マイ」も、そんな「休憩目的の客」の1人だ。

 学業に励むべく、はるばる九州からこちらまで越してきたのだが、毎週水曜日と金曜日は大学の講義がなく休みであり、だからと言って借りているアパートのやや汚い部屋でごろごろするような気分にはなれず、いつも昼からふらりと出かけては、いつもここへ寄っていた。


「こんにちは、カンナさん」

 そう言ってマイはいつも店に入ってくる。店に入った途端、マイのメガネが一瞬で曇る。今日は昼間でも冷えたからか、今日はいつもより少し厚めのコート、白いニット帽と白いマフラー。腕から下げたビニール袋から、いい匂いが店の中に広がっていく。

 出迎えたのは、『カンナさん』と呼ばれた若い女性だ。本名は「並木 カンナ」。この骨董品屋を一人で切り盛りしている。整った顔つきに、紫基調の和装がよく似合っている。マイとはあまり年齢が離れていないらしく、よく話が合う。マイがこの店の常連になった、もう一つの理由が彼女だった。

「こんにちはマイさん。あら、この匂いは……」

「はい、パン屋さんに少し寄ってきて。おすそ分けでも、と」

「ありがとうございます。では、いただきましょう。紅茶でよければ、お出ししますよ」

「本当? ありがとう!」


「――でね、その先生がまた面白い人なの! 時々その人の飼い猫がやってきてね?」

「ふふっ、本当に先生がお好きなのでしょうね、その猫さん」

「そうそう、でもたまに学生の目の前で寝転がっちゃうから、それがちょっと困るところかな……」

「あらあら、そんなことが。寂しいんでしょうね、きっと」

「え、そうなの?」

「はい、先生も忙しそうなので、誰でもいいから構ってほしいんでしょう。今度マイさんの所に来たら、撫でてあげてはどうでしょうか」

「よっしわかった、今度来たら、試してみる!」

 昼下がり、カンナとマイは机に座り、マイが持ってきたクロワッサンを仲よく頬張っていた。専らマイが喋り、カンナが相槌を打つ、そんな会話が続いていく。マイの学校のこと、マイが最近読んだ本のこと、マイが最近発見したこと――ありきたりで、とりとめのない、小さな話題が、まるでアジサイの花が咲くかの様に弾んでいく――毎週恒例のそんな会話が、カンナは何より好きだった。

「私も、マイさんのような学生に憧れますね」

「……そっか、カンナさんは高校にもいかなかったんだよね」

「はい。この店を継ぐと、決めたので」

 カンナが、所謂中卒であることを、マイは常連になってしばらく経ってから知った。大学に通いながら店を切り盛りしていると誤解していたことも相まって、自分が二重に驚くぐらい大きな声を出してしまったことは、今でもマイは後悔している。

「なんかごめんね? つらい話ばっかりだったかな」

「いえ、以前も言いましたが、お気になさらず。むしろ、もっとしてほしいです……私の知らないこと、私はたくさん知りたいですから」

 マイさんだけが頼りです、とカンナは笑って紅茶をすする。

(『私だけが頼り』……か)

 何気なく発せられた言葉。しかし、その言葉の「小さな」を感じながら、マイも紅茶をすすった。


「あら、もうこんな時間ですか」時計を見て、カンナが立ち上がる。針は、もう3時30分を指していた。

「日の入りはまだまだ早いですから、もう直に暗くなります。マイさんもまっすぐおうちへ帰ってくださいね。……それに、最近物騒ですから」

「物騒……あ」聞き返そうとして、マイは思い出した。

「あの、猟奇殺人?」

「はい」ティーセットを片づけながら、カンナが答える。「決して遠い場所の事件というわけでもないので、警戒するに越したことはありません」

 猟奇殺人――マイは新聞でその情報を入手していた。ここ数日で、女性が1人、子供が2人、無残な姿で発見された、ということがあった。手口が似ていることから、同一犯の実行とみなされて、警察関係者などが総出で事件の解決にあたっている。マイには、この事件で一つ、不可解な点を見つけていた。

「……あの、カンナさん」

「はい、マイさん」掃き掃除をしていたカンナが掃除の手を止めた。……どうやらこのまま店も閉めてしまうようだ。「どうか、しましたか?」

「ひとつ、気になってて……新聞だと、警察のほかに『封呪隊ふうじゅたい』も事の捜索にあたってるみたいだけど、そんなに深刻なの?」

「まあ、このような残忍な事件ですからね。『ツキモノ』が絡んでいるかも、という心配があったのでしょう」

「それで、その『ツキモノ』って一体――」そうマイが言いかけた、瞬間。

 店の扉が開き、新しい客を招き入れた。

「おや、ここは骨董品屋か。いい雰囲気だったから、てっきりカフェかと思ったよ……ってあれ、もう店じまいか?」

 入ってきたのは、やや背の高い、悪く言えばチャラそうな細身の男性。年齢も若い。カンナやマイと同い年、もしくはそれよりも少し上に見える。厚手のコートとジーパンを履き、マフラーも手袋もなく、へらへらと笑いながらも、若干寒そうにしている。

「いらっしゃいませ。……はい、この地区はほとんどの店がこの時間から閉店作業に入るんですよ。とはいえ大事なお客様ですので、どうぞごゆっくり、ご覧になってください」カンナがすぐに接客モードになる。まだアルバイトをしていないマイにとっては、数分前とは打って変った彼女の姿勢に、なんとも新鮮な気分を味わった。

「へえ、中々かわいいじゃないかキミ」カンナを品定めするように男性は顎に手をやると、「しっかし、この時間に店じまいか。何か特別な理由でも、あるのかな?」と、店をぐるりと見回しながらマイをちらっと見、問いかけた。

 突然の問いに言いよどむマイをかばうように、カンナが話しはじめる。

「この辺りは、夜に『ツキモノ』が出ますので」

「『ツキモノ』?」

「はい――」そして、カンナは説明を始める。

 ちょうど聞きたかったことだし、と思い、マイもこっそり耳を立てた。


 ツキモノ。

 それは、この名東地区を中心に、夜霧と共に現れる、異形の存在。姿かたちは多岐にわたる。その正体は妖怪の類だという説もある。

 10年前の隕石衝突事故から間もなく現れ、この地区から

 彼らは人間を見つけ次第殺す。殺した獲物を食うこともあるが、食わずにそのまま放置することが専ら多い。

 彼らは夜から日の出の暗い時間にのみ行動する。光を嫌うのか、町の街灯をすべて破壊した。

 この地区の住人は、ツキモノから逃れるため、夕方から朝までの間、一切外には出歩かない。車などでの通過はまだ危険が少ないが、霧が濃い日はそれでも十分危険であるため、交通規制が行われる。

 ツキモノは人間を殺すが、人間の住処――家に立ち入って虐殺を行うような真似は何故かしない。ツキモノによって殺されるのは、その全てが、当時野外にいた人間である。

 そして、このツキモノを討伐するために編成された特殊な民間組織、「封呪隊」が存在する。陰陽道に長けた彼らは、夜な夜な名東区を巡回し、夜道で迷う人を助け、襲い来るツキモノを倒す。ツキモノが関与している可能性がある事件の捜査への協力なども買って出る。

 そして、ツキモノの中でも特に危険な種、それが――


「――『』、と呼ばれています」

「へえ、よく知ってるねえ」男性が感心したように話し始める。「いやあ実は俺、この辺りに来たの初めてなんだよね。いいところだなあ、と思ってたけど……見かけによらないんだな」

「外の方が知らないのも無理ありません。ここに長く住んでいる方々は皆これくらいは知っているものです。……この町も、ツキモノさえいなければ、もう少しよい印象をお受けになったことでしょうに」と、残念そうにカンナが言う。

「うーん、女の子もみーんなかわいいんだけどなあ」と男性も惜しいように二人を見、「んじゃ俺は帰ろうかね。また来るよ」と言い、去ろうとしたところで不意に踵を返すと、棚に置いてあった犬のストラップをひとつ手に取り、にやりと笑った。

「これ、買うよ」


 ……。


 日が傾きだすころ、マイはカンナとともに、帰宅の道についていた。今日は遅くなってしまったので、カンナがマイを家まで送ると言うのだ。

「ごめんね、わざわざ帰り道まで一緒についてきてもらっちゃって……」

「いえこちらこそ。せっかく閉店の作業を手伝っていただいたのに、これくらいのお返ししかできず……」

「いいよいいよ、あれは私が好きでやったんだから!」

 ちょっとアルバイト気分を味わってみたかった、という本音をかみ殺して、マイはそう言い、笑った。カンナも、そうですか、と微笑み返す。

「ところで、さっきの客なんだけど……」

「ああ、あの細身の方ですね。彼のような『外部の方』には、きちんと説明しなければなりません。外部の方が巻き込まれる事故が多いですから」

「……。」

 確かに、ツキモノが多いこの町に初見でやってくる人間はそう居ない。マイも名古屋にやってくる際に『危険区域につき深夜外出禁止』などの変な制約付きで格安のアパートを借りることに決めたくらいだ。その際、大家さんから「夜は絶対に出歩かないように、命の保証ができないから」と変なくぎを刺されて、大家さんの気迫から何かを察してそれをなんとなく守っていた、というだけで、今日のカンナの話――この町の深い事情を聞くのは初めてだった。

(カンナさんも、危険と隣り合わせの生活をしてきたんだなあ)

 一体今までどのような生活を、と口にしようとして、いいやダメだと心の中で頭を振った。いくら相手がカンナさんとはいえ、私生活の、割とデリケートであろう部分に土足で踏み入るのはさすがに忍びない。

 話題を変えずにはいられなかった。

「それにしても、あの男の人! 雰囲気悪かったよねー」

「あの男の人、と言いますと……ああ、夕刻のお客様ですね。ストラップをお買い上げになった」

「そうそう、あの人。私、あんまりああいう性格の男の人好きになれないなあ」

 あまり外交的でないマイにとって、彼のような性格の、馴れ馴れしくて、人の神経を逆なでして仲間を得たがるような性格の人間は人種レベルから好きになれなかった。

「カンナさんはどう? ああいう男の人、好き?」

「うーん……お買い上げいただいただけでありがたいお客様なのですが、それよりも……」カンナが珍しく困り顔をしたが、すぐにふっきれたようで、笑顔で、

「いえ、何でもありません。これは気のせいのようです」

「えー、何それー」マイは、すぐに悟った。

「ふふっ……あら、マイさんのお家ってこの辺りでしょうか」

 気づけば、マイのアパートの前にいた。惜しいが、時間も時間だ。長話はできない。

「そうそう! ありがとうねカンナさん。助かったよー」

「いえ、こちらこそ助かりました。またお越しくださいね」カンナが綺麗に一礼し、踵を返した。やはり長居は危険なのだろう。

「カンナさんも気を付けてねー」背中に手を振る。

 カンナは振り向かず、軽い会釈をすると、足早に来た道を帰っていった。


 ……。


 

 出会った瞬間から、それを確信した。

 間違いない。奴は『バケモノ』だ。

 やり方によってはあの臭いを消すことなど、造作もなかっただろう。

 だが、奴はしていなかった。

 なぜなら、あの臭いがわかる、ということは、奴と同じ『バケモノ』であることの証明になるからだ。

 出会ったならば、戦わなければならない。

 出会ったならば、殺さなければならない。

 扉を閉め、座り込む。心の中の獣が騒ぎ始める。


 濃霧まで、あと2日。

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ツキモノ ドングリムシ @t_jimii78

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