第111話 狂人vs凶人
◇◆◇◆
“助けて”――ラトリアの叫びが響くと同時に、俺は全身を縛り付けていた戒めに牙を剥いた。
力を入れれば、待っていましたとばかりに筋肉がうなりを上げる。すると、カシマの
「な――!?」
本来、有り得ない事だったのだろう。余裕に満ち溢れていたカシマの顔に驚愕が浮かび、ラトリアの肩に回していた手の力が緩んだ。
生じた隙を、俺は見逃さない。瞬時に間合いを詰めて左腕を回し、一気にラトリアを傍まで引き寄せた。
「あぅっ!」
短く悲鳴を上げたラトリアを、しっかりと抱き止める。そして間を置かず俺は右脚を振り抜いて、カシマのどてっぱらに
「ギャッ!!?」
防御姿勢も碌に取れないまま蹴りを食らったカシマは、汚い悲鳴と共に病室の外へと弾き飛ばされる。
ドタンドタンと床を跳ねながら転がるカシマ。ここでスプラッタする訳にもいかないので加減をしたが、それを出来た自分を褒めてやりたい。
「ラトリア、大丈夫か」
「あ……うん」
恐る恐るといった様子で、ラトリアが顔を上げる。その瞳には安堵と不安が入り混じっており、俺はそれを払拭する為にニッと笑った。
「心配すんな、任せろって言ったろ?」
空いている方の手でわしゃわしゃと頭を撫でると、幾分かラトリアの体から力が抜けた。それを確認した所で、俺は口を開く。
「すまん、ラトリアの事頼むわ」
術者がぶっ飛んだ事で拘束が解け、走り寄って来ていたリーリエ達にラトリアを託し、俺は病室から外へと出る。
「か、は……!」
床に這いつくばるカシマは、
傍から見れば、見てくれのいい女性が晒す痛ましい姿である。だが、今の俺はそれを見ても“申し訳ない”とは微塵にも思わない。
「いいザマだな、天才」
床に転がり光を失っていた
「オ、マエ……一体、何を……!」
「“何を”って、そりゃお前自分等の仲間が泣きながら助けも止めてきたら、この位すんだろ」
至極当然だと言わんばかりに俺はフンと鼻で笑う。その態度は、どうやらカシマには理解出来なかった様である。
「仲間……?
咽ながらも叫ぶカシマの目は、狂気に満ちていた。こいつにとっては自分の価値観こそが世界の常識であり、俺達はそこから外れた異分子に見える様だ。
「
「黙れ」
最後まで言い終わるのを待つ事無く、俺は倒れたままのカシマを蹴り上げる。再び宙を舞ったカシマは、廊下を突き抜け少し開けた場所まで転がった。
「か、ハッ!」
カシマの吐き出す場所に、遂に血が混ざり始めた。腹部を抑えて丸まる様は無様であるが、相変わらずこれっぽっちも心は揺らがない。
「さっきから
つかつかと歩きながら、俺は淡々と言葉を続ける。既にカシマによる拘束は解けているが、自由を取り戻した治療院を利用している者や職員達は、目の前で行われている蹂躙への恐怖で動けないでいた。
だが、それを気にする事無く俺は悠然とカシマの傍に立つ。そしてしゃがみ込んで、低く告げた。
「いいか、何度でも言ってやる。ラトリアは一人の人間だ、お前がその薄汚い口から吐き出し続けてる“
つんと胃酸の臭いが鼻をつくが、そこは我慢だ。こいつには、よりはっきりと近くで言ってやる必要がある。
「渡す渡さないとか、そう言う問題じゃねぇんだよ
いつもより回る口で問い掛けるが、案の定まともな答えは帰ってこなかった。
「ボクがボクの物を取り戻そうとする事の、何が可笑しいんだ……オマエ達は狂っている……オマエ達は……」
ぶつぶつとうわ言の様に繰り返すカシマを見て、俺は嘆息する。僅かばかり人としての心が働くかとも思っていたが、どうやら見込みが甘かったようだ。
「もういい、喋んな」
ごちゃごちゃと考えるのを止め、俺は立ち上がる。
人間と対話する為の理性が、徐々に失われていく。代わりに湧き上がってくるのは、人間が持つ原初の感情の内の一つ――怒りだ。
「てめぇと話してるとこっちまで頭おかしくなりそうだ。それに最っ高にイライラもする……人間として大切な部分が何一つ残っちゃいないお前を生かしといても、碌な事にならねぇな」
だから……殺す。カシマと言う一人の天才が失われる事で発生する損失は大きい物なのかもしれないが、そんなの
俺は許せないのだ、この女を。徹頭徹尾自分こそが正義だと信じ、その正義の為ならばラトリアの様な不運に見舞われた子供を道具として利用する事に何の躊躇も抱かない、このクソ野郎がッ!
右脚をゆっくりと上げ、目の前に転がっているカシマを見下ろす。手加減抜きでその頭を踏み抜けば、一瞬で絶命するだろう。
人殺しの一線。超えるのに大きな迷いが生まれるかとも思ったが、不思議と一切そんな感情は湧き上がらない。
それどころか、漸くこのクズを殺して忌まわしい負の連鎖を断ち切れるという安堵感さえあった。
ふと思った。もしかすると、俺もコイツと同じで何処か壊れてしまっているのかもしれないと。
だが、今はその事に感謝しかない。何故なら、壊れている事で俺は次の一手を迷い無く打てるのだから。
「じゃあなクソッたれ、地獄で閻魔とイチャついてこい」
そう吐き捨てて、俺は力を籠める。
そして、唸りを上げて振り下ろされる右脚。迷いも狂いも無く真っ直ぐにカシマの頭部へと吸い込まれていく己の脚を見て、自然と口角が上がった。
「――やめて、ムサシ」
しかし、カシマの頭が叩き付けられた西瓜の様に爆ぜると思った瞬間。俺の一撃は、後ろから掛かった声とふわりと腰に当たった小さな衝撃によって、びたりと止まった。
顔面まであと一センチと言う所で止まった脚から視線を外し、後ろを振り返る。そこに居たのは、俺の腰に両腕を回してしがみ付いているラトリアだった。
「お願い、ムサシ。それ以上先には、進まないで」
腰に埋めた顔を上げて、ラトリアが真っ直ぐに俺を見詰めてくる。だが、俺は首を横に振った。
「駄目だ、ラトリア。ここで止まったら、必ずこいつはお前を求める。それに、生きた先でもっと不幸な人間を生み出しかねない」
少し強めに言うが、ラトリアは全く怯まずに口を開いた。
「……ムサシがラトリアの為に怒ってくれているって言うのは、分かる。正直、凄く嬉しい」
「だったら――」
「でも」
俺の言葉を遮り、ラトリアは腰から手を離した。
「その怒りに任せて、せっかくみんなの為に戦ったムサシが
そう言って、ラトリアは周囲を見回す。釣られて視線を動かせば、そこには事の成り行きを恐怖に引き攣った顔で見詰めている人達の姿があった。
そこで、はたと気付く。もしここで俺がこのままカシマを殺せば、確実に周囲の俺を見る目は変わる。それはつまり、一緒に行動しているラトリア達も“人殺しの仲間”という色眼鏡を掛けられてみられるという事だ。
それは……嫌だ。だが、退く訳にもいかない。どうしても、カシマが残して来た遺恨は叩き潰さなければならない。
急激に怒りが失せ、代わりに息を吹き返した理性が心を縛り上げていく。どうするかを考えあぐねていた俺の顔に、ラトリアが徐に手を伸ばした。
「これは、ラトリアの我儘。だけど……ムサシ。迷っているのなら、ラトリアにあの人と話をさせて」
「それは」
「大丈夫。もう、
つま先立ちになりながら静かに諭すラトリアを見て、暫く考えた後――俺は、道を空けた。
「……
「うん、分かった……ありがとう。ラトリアの話を、聞いてくれて」
バツが悪くなって顔を背けた俺に、ラトリアは小さく笑みを向けた。数瞬そうした後、ラトリアはしゅっと顔を引き締める。
「……博士」
背筋を伸ばし、しっかりと両脚で立ちながら――ラトリアは因縁の相手と真正面から対峙した。
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