第110話 心からのワガママ

【Side:ラトリア】


 病室に響いたその声を聞いた時、ラトリアの心臓がドクンと跳ねた。

 まさか、そんな――どっと溢れてくる汗が告げる凶兆。心を落ち着けようとする間も無く、ラトリアの視界に入って来たのは……紛れもない、悪魔はかせその人だった。


(どう、して……)


 ラトリアを庇う様にして博士と対峙したムサシ達。しかしその会話は一切頭に入ってこず、ただ只管に“どうして”という疑問が脳内に駆け巡っていた。

 しかし、数秒を置いて現実を受け止める。あの博士が、自分の小間使い達が奪還に失敗したからと言って、ラトリアを放置する訳が無いのだ。

 どうやってこの居場所を突き止めたのか、どうやってここ数日の騒動を回避してここに辿り着いたのか。

 分からない事だらけだったが、確かに言える事がある。それは、ラトリアにかけられた呪い・・がまだ解けていないという事だ。

 急速に灰色に染まっていく世界。すると、不意に“パチン”と音が聞こえる。それと同時にムサシ達の動きが不自然に止まった。

 博士が何かをやった――呆然としたラトリアだが、次に博士がラトリアへと投げ掛けた提案で否応なしに現実を直視する事になる。



 ――今帰って来ればフィーラ君にも会わせてあげられる――



 甘く囁く様な声に、ラトリアは叫んだ。


「まって、やめて! 先生には、何もしないで!!」


 体を跳ね起こすと、手元にあったムサシ達が持って来てくれたお見舞い品が音を立てて床に落ちる。だが、今のラトリアにそれを気にしている余裕は無かった。


「“何もしないで”? 何を言っているんだい試製01号プロト・ワン、ボクは“帰って来ればフィーラ君に会わせてあげられる”と言っただけだよ?」


 そう言ってにこりと笑う博士。でもラトリアは、笑みの奥底にある博士の真意を読み取った。

 帰って来れば合わせられる――つまりラトリアが逃げ出した後、先生は博士達の手に落ちたと言う事だ。

 それは、ここから先のラトリアの態度次第では先生がどうなるか分からないと言う事。

 そう、これは決して提案などでは無かったのである。“従わなければ先生に危害を加える”という、ラトリアに対して絶対的強制力を持つ脅しなのだ。


「……帰り、ます」


 掠れた声で返答を絞り出すと、博士はふっと笑ってから頷いた。


「うん、それで良い。物分かりのいい子は、ボクは好きだよ」


 満足そうに腕を組んでウィンクをする博士。でも、ラトリアにはその動作一つ一つが死神の手招きに見えた。


「さ、こっちにおいで。ああ何も持たなくていい、バカ共の臭いがボクに移るからね」


 しっしと手を振って促す博士の言葉を、ラトリアは呑むしかない。のろのろとベッドから降り、裸足のまま歩を進める。

 足取りは、極めて重い。重いが、進まなければならない……そうしなければ先生にも、下手をすればムサシ達にも危害が及ぶ。

 それは、絶対に嫌だ。ムサシ達に出会って沢山の事を学んだラトリアは、自分の為に誰かが傷つく事を許せない。


(……短い、自由だったなぁ)


 ふっと、ラトリアの胸中に今までの思い出が過る。

 空を仰いで、太陽の下を歩いた一ヶ月半。頭の中を駆け巡る光景のどれもこれもが、ラトリアにとってはかけがえのない物だと、断言出来る。


 だから――そっと、胸の奥に仕舞い込む。絶対に、博士この人に汚されない様に。


「よし、それじゃあ行こうか」


 そう言って博士はラトリアの肩に手を回して、ぐいと自分の傍に引き寄せる。まるで、これは自分の物だとムサシ達に見せつける様に。


「あぁそうだ。帰ったらちゃんと記憶処理・・・・をしないと」

「え……?」


 力無く項垂れていたラトリアの耳に、信じられない一言が飛び込んで来た。思わず、ビタリと足が止まる。


「記憶、処理って……」

「今回キミに入ってしまったノイズ・・・を取り除く為にね。もう二度とこう言った馬鹿な真似をしない様にもするつもりだよ。でも安心していい、有用な部分はちゃんと残すから」


 ……この、人は。一体、どれだけラトリアを踏み躙れば気が済むのだろう。そしてラトリアは、どうしてこんなに無力なんだろう。

 全力で、抵抗したい。でもその勇気が、湧かない。死の淵で心の強さを得たと思っていたけれど……全然、足りないみたいだ。


(……ごめん、みんな。ラトリアには、ラトリアには――)



「――ラトリア!!」



 呆然としたままだったラトリアの心に広がっていた絶望。その暗闇に、突如として一筋の光が差し込んだ


「……むさ、し?」


 ぎこちなく振り返ると、そこには拘束されながらもキンと一直線にこちらを見詰めて来ているムサシの姿があった。


「うん? お前、どうして喋れる――」

「ラトリア、しっかりと俺の目を見ろ。そして、耳かっぽじって今から言う事よーく聞いとけ!」


 首を傾げる博士を無視し、ムサシは一つ息を吐く。それから、ゆっくりと喋り出した。


「……ラトリア、お前はどうにも自分を押し殺し過ぎる癖があるな」


 ズンと、心臓に重い衝撃が走る。何故なら、ムサシの言っている事は酷く的確に的を得ていたからだ。

 ラトリアの動揺を目ざとく感じ取ったムサシは、言葉を続けた。


「何で全部一人で抱え込む? 何で全部背負い込もうとする? 何で――俺達を頼ろうと、しない?」


 暗闇の鳥籠が、ピシピシと悲鳴を上げる。ムサシは、止まらなかった。


「いいか、今お前が考えてる事なんざ手に取る様に分かる。分かるからこそ、自分だけで決着付けるなって言いたいんだよ俺は」

「……でも」

「“でも”じゃない!」


 体に纏わりつく迷いを一瞬で断ち切るムサシの一喝。場は完全にムサシによって支配されており、博士ですら口を挟めなかった。


「なぁラトリア、お前今どんな顔してると思う? ……泣きそうになってんだよ、くっしゃくしゃなツラでな」


 そう言われて初めて、ラトリアは自分の視界が歪んでいる事に気付く。溜まった涙は今にも溢れそうだが、ラトリアにそれを制御する術は無かった。


「ラトリア、もういいだろ。お前は十分我慢して来た、そろそろ我儘・・を言ったっていい頃だ」

「わが、まま?」

「そうだ……俺達にやって欲しい事、あるだろ?」


 そう言ってにやりと笑ったムサシを見て、ラトリアの思考がぐるぐると回り始めた。

 今、ムサシはラトリアを暗闇から引き上げる為に手を差し伸べてくれている。でも、その手を取ればもう引き返せない。

 ムサシ達が信頼出来ないんじゃない、寧ろその逆。信頼出来るからこそ、手を取るのが躊躇われる。確実に、迷惑が掛かるから。

 残された理性が、ギリギリまでブレーキを掛ける。でも、それを振り切ろうと盛大に暴れている物があった。


 それは、ラトリアの心。感情という大波を伴った心の叫びは、ラトリアの言う事を全く聞いてくれなかった……そして。


「……けて」


 微かに漏れた、声。一度壁に罅が入れば、もう止まらない。溢れる想いは濁流となり、遂に最後の一線を越えた。


「たすけて……ラトリアを、助けてぇっ!!」


 溜まった涙が零れ落ちると同時に、ラトリアは力一杯叫んだ。深淵の底で助けを求めた時と、同じ言葉で。さっきまで心が死んでいた人間が吐き出したとは思えない大声が、病室に響く。




「――――任せろ」




 ラトリアの精一杯のワガママ。それを聞いたムサシが不敵に笑うのと、“パキン”と何かが千切れる音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。

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