第62話 全てはこれから

【Side:コトハ】


 階下から微かに聞こえた物音に、うちの両耳がピクリと動く。どうやら、誰かが≪月の兎亭≫の外に出て行ったらしい。


「アリア……おそいね」


 うちとリーリエはんの間で横になっていたラトリアはんが、追加の掛け毛布ケットを取りに自室へと戻ったアリアはんの帰りが遅い事に、ほんの少しばかり不安げな表情を作る。


「心配あらへんよ。ちょっと、夜風に当たりに行ったみたいやね」


 そう言ってうちは小さく笑って、解かれた空色の髪の上からラトリアはんの頭をそっと撫でる。うちの言葉を聞いたリーリエはんは僅かに体を起こして扉の方をちらりと見てから、ぽふっと枕へと頭を戻した。


「一人で……ではないですよね」

「せやね。足音は二人分やったから、多分ムサシはんと一緒に出てったんとちゃうかな」


 それを聞いたリーリエはんは、少し驚いた様な表情を作った。

 確かに、珍しい事だと思う。夜風を浴びに行く事自体は、不思議な事では無い。だが、ムサシはんも一緒に出て行ったのが意外だった。


「珍しいですね。ムサシさん、寝ている時はいつも清々しい位に爆睡してるのに」


 その通りだ。ムサシはんは、野営の時でもない限りは深く眠る。うち等は何度か気を付けながら部屋の中の様子を窺った事があるが、その時は本当によく寝ていた……偵察に失敗してされた事もあるけど。

 偶にとんでもなく幸せそうな顔をして寝ている事もあるので、基本的にはムサシはんの睡眠は極力邪魔しない様にしようと、うち等の間で協定が結ばれている……しかし、アレは一体どんな夢を見ているのだろうか?


「アリアはんは直ぐに戻る言うとったから、態々起こして連れ出したって訳じゃあらへんと思うけど」

「となると……ムサシさん、一階でまだ起きてたんですかね?」

「多分。起きとった理由は分らへんけどね」


 ムサシはんから誘ったのか、それともアリアはんから誘ったのか。詳しくは分らないが、ムサシはんが一緒ならば何も心配する事は無いだろう。


「……“でぇと”やろか?」

「こ、この時間からですか? 流石に……いやでも、月明りの中を二人で歩くって言うのは中々……ロマンチックでは、ありますね」

「せやろ? アリアはん、最近はあんまりムサシはんと二人っきりに何てなれてへんかったからなぁ……もしそうやったら、目一杯楽しんできて貰いたい所やけど」

「そうですね」


 今頃、人気の無い夜の≪ミーティン≫を歩いているであろう二人を頭に思い浮かべて、うちとリーリエはんは小さく笑い合う。

 それを見ていたラトリアはんが、横になったままうち等二人の顔を交互に見て、口を開いた。


「二人とも……すごい、ね」


 感心した、と言うよりは驚いたといった様子でそう口にしたラトリアはんを見て、うちとリーリエはんは顔を見合わせた。


「リーリエと、アリアと、コトハが……ムサシの恋人だって言うのは、知ってる。すごく、仲が良くて、幸せそうで……お互いを、大切に思ってるっていうのも、わかってる」

「う、うん? そうだね」

「そう言われると……ちょ、ちょっと照れ臭いなぁ」


 客観的にうち等がラトリアはんからどう見えているのかを聞かされ、自然と頬に熱が集まるのが分かった。こうやって真正面から言われると、中々に羞恥心が沸き起こる。


「普通は、どう頑張っても……必ず、いざこざが起こると思う。今みたいに誰か一人が、抜けた時は……特に。ラトリアが読んでる、『プリズム☆りりか』にも……そういう一幕が、あった」

「「え゛っ!?」」

「漫画の中だと……ヒーローが、りりかじゃない別のヒロインに、刺されそうに……なってた」


 淡々とラトリアはんが言った事に、うちとリーリエはんはガクっと頭を傾ける羽目になった。

 あ、あの漫画と言う本には、そんなドロドロとしたストーリーが描かれている部分があったのか……刃傷沙汰って……。


「でも……みんなは、そうじゃない。ムサシの事が好きだけど、ちゃんとお互いを……尊重し合ってる。それって、多分……すごいこと」


 ラトリアはんにそう言われると、確かに今のうち等の関係は稀有な物だと思う。

 一人の男を複数の女が想い、愛する。男もまた、そんな女達を愛している。傍から見れば、退廃的で背徳的な光景と見られても、仕方が無い。

 しかし、実際のうち等の関係はそれ等の言葉から続く“破綻”などしていない。外から見たイメージで後ろ指をさされたとしても、どこ吹く風だろう。

 その位、ムサシはんを中心としたこの関係は穏やかな物だ。互いを想い合う揺るぎない気持ちが全員にある事前提の関係ではあるけれど。


「んー……そこまで、大層な事だとは意識してなかったなぁ。ムサシさんのの事を考えた上で、何一つ諦めたくないって思ったら、自然とこの形になったから」


 体を横に向けて、掛け毛布ケットの上から優しくラトリアはんのお腹をぽんぽんと撫でるリーリエはんは、とても優しい眼差しで口元を緩めていた。

 そこで、ちょっとした悪戯心がむくりと起き上がる。


「ラトリアはん、いい? うち等は今こうやって全員で一緒におるけど、いっちゃん最初に“ムサシはんには全員愛して貰う”言うたんはリーリエはんなんよ?」

「そう、なの?」

「うぇっ!?」

「うん! リーリエはんのおーっきい器があらへんかったら、アリアはんもうちも、もしかしたらムサシはんの事は諦めなあかんかったかもしれへん」

「おー……それは、知らなかった」

「ちょっ、コトハさん!」


 目を輝かせるラトリアはんと、顔を赤くして抗議してくるリーリエはん。微笑ましい光景なので、もう少し突っ込みたくはなるが、この辺りにしておこう。


「ごめんごめん、堪忍やリーリエはん。でも、アリアはんもうちも、ほんまに感謝しとるんよ?」

「うぅ……」


 クスクスと笑ううちに、リーリエはんは顔を赤くして唸る。その時、ラトリアはんの口から言葉が漏れた。


「……うらやましい、な」


 ポツリと呟かれたその言葉に、うちもリーリエはんも揃ってラトリアはんへと視線を向ける。そのラトリアはんの瞳は、天井の一点を見つめていた。


「ラトリアの周りに……そうやって、笑い合える人は、先生しかいなかった。だから……リーリエ達が、うらやましい」


 そう零したあと、ラトリアはんはハッとした表情になって口を噤む。

 意図せず、自然と口から流れ出た言葉……それは、裏も表も無い、純粋な羨望であり、ラトリアはんの心の叫びだった。


「あ……ご、ごめんなさい。その――」

「ラトリアちゃん」


 おろおろとしながら謝罪を口にしようとしたラトリアはんを、リーリエはんがぎゅっと抱き締める。そのリーリエはんごと、うちは二人を抱き締めた。


「うみゅっ……!?」

「ラトリアちゃん、どうして謝るの?」


 静かにそう問いかけたリーリエはんに、ラトリアはんは間に挟まれて少し息苦しそうにしながら口を開いた。


「だ、だって……二人が楽しそうに話してるのに、水を差しちゃったから……」

「なぁんだ、そんな事」


 もごもごとしながらそう答えたラトリアはんに、リーリエはんは安心した様に笑いかける。うちも小さく笑いながら、そっと語り掛けた。


「ねぇラトリアはん。うちもリーリエはんも、そないな事で怒ったりせえへんよ?」

「で、でも……」

「でももなにもなーし。それと、ラトリアはんはうち等の事が羨ましい言うとったけど、ラトリアはんもこの先色んな事で一緒に笑い合えると、うちは思うなぁ」

「コトハさんの言う通り……ラトリアちゃんは、私達の事を“友達”って言ってくれたよね? 友達なら、言いたい事はちゃんと言い合うでしょ? だから私達は、さっき本心を口にしてくれたラトリアちゃんを邪険に扱ったりなんてしないし、ラトリアちゃんも自分を責めて謝る必要なんてないの」


 リーリエはんが優しく言い聞かせると、ラトリアはんは一瞬目を見開いた後に、その大きな瞳にゆらゆらと涙を溜めた。


「それとね……羨ましいなんて、みたいに言わないで? 私もコトハさんも、アリアさんもムサシさんも、アリーシャさんも……みんな、ラトリアちゃんの事を、大切に思ってるんだから」

「……う、んっ」


 堪え切れず、大粒の涙を流し始めたラトリアはんを、うちとリーリエはんは静かに宥める。

 ラトリアはんが歩んできた過去は、辛い物だった。それはもう、覆しようの無い事実。でも、その過去を乗り越えて未来を掴む為にラトリアはんは踏み出して、うち等もそれを支えようと決めたのだ。


 全てはこれから……そう、“これから”である。










「ふ、ぐ……二人とも、もう大丈夫……」

「ほんまに?」

「ん……だ、だから……おっぱいを、どけて欲しい……く、苦しっ」

「あっ!?」

「ご、ごめんラトリアはん!」

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