第48話 伝えたいこと

【Side:ラトリア】


 一瞬、目の前で何が起こったのか分からなかった。

 ラトリア達はムサシとリーリエの昇級試験、その結果を見届ける為に一緒にギルドマスターの部屋までやって来ていた。

 二人は、無事合格していた。新しい等級認識票タグを受け取り、ギルドマスターと少し地岳巨竜アドヴェルーサについての情報交換をして帰る予定だった……このまま何事も無く帰れる、そう思っていたのに。


『ほう、その“別の方達”と言うのはより赴いた我々よりも優先すべき相手なのですか?』


 ……その声が聞こえた時、ラトリアの心臓が大きく跳ねた。

 聞き覚えのある、忘れたくても忘れられない声。冷たくて、耳が凍ってしまいそうな声。記憶の奥底に仕舞いこもうとしていた恐怖が、蘇った。

 の名前を、ラトリアは知らない。教えて貰った事なんて無いから、あそこに居たラトリアにはだと判断されていたのだと思う。確かなのは、ラトリアにとってあの人は、恐怖の象徴の一角を担っていたと言う事だけだ。

≪ミーティン≫に着いた時、門の所で学院の馬車を見た。嫌な予感が全身を駆け巡り、どうか何事も無いようにとラトリアは強く願ったのを覚えている。

 でも、現実は甘くなかった。幾度と無くラトリアを鋭い視線と共に呼んだ声を、聞き間違える筈も無い。


(どうしよう……あの人がいるなら、もいるかもしれない)


 心臓の動きが速くなり、どんどん顔から血の気が引いて行く。でも、そんなラトリアを守る様にしてムサシが扉の前に立ち塞がった。

 視界を覆いつくす大きな背中。それは、とても逞しくて頼もしい物で……ラトリアは、思わずその腰部を握り締めた。

 直後に、部屋の扉が開かれる。入って来たのは……やはり、あの人と二人の部下だった。

 良かった、博士は居ない。状況は悪いままだけど、あの人だけならまだいい。もしここに博士まで居たら、ラトリアは気を失っていたかもしれなかった。

 小さく、自分にしか聞こえない安堵の息を吐く。でも、その後にあの人の声がラトリアに向けられた。そこで、ラトリアを再び恐怖が襲った。


「探したぞ、こんな所で何をやっている?」

「……っ!」


 無機質で、冷たくて、何度もラトリアを貫いた声。それを聞いただけで、体がビクつく。

 その後は、もう駄目だった。何かムサシ達と会話をしていたようだったけど、その内容は全然頭に入ってこない。

 体の震えが徐々に大きくなろうとしていた時、不意にピタリと



「あーもういいよ、テメェそれ以上喋んなや」



 突如、ムサシの声がハッキリと聞こえた。直後に――その大きな背中からが噴き出し、部屋に満ちていた何もかもを一瞬で塗り潰した。

 反射的に、ラトリアはムサシの腰から手を離す。


 (一体何が……)


 混乱していた時、不意に背後から伸びて来た腕が、ラトリアの体をぐいと後ろに引っ張った。

 抵抗する間もなく、ラトリアはアリアの腕の中に納まる。間を置かず、リーリエが前に出て来てラトリアの前に立ち塞がった。

 その背中は、怒っていた。同時に、もどかしさも感じられた。リーリエの複雑な胸中を表すかのような感じ……それは、背後と横に居たアリアとコトハからも感じられた。

 次の瞬間、ムサシの右腕が掻き消えたかと思えば、“パンッ!”と言う何かが弾ける様な音が聞こえた。


(っ!?)


 突然、耳が捉えた不可思議な音。微かな鉄臭さが、ラトリアの鼻を衝く。

 直後、また音が鳴った。今度は、骨と骨がぶつかり合う様な鈍い音。それをやったのがムサシだと気付いたのは、その荒れ狂う嵐を纏ったような大きな体が、僅かに傾いた時だった。


(……えっ?)


 無造作に何かを掴み上げる太い手。血で汚れたその先には、鼻がになり、血塗れになっているあの人の姿があった。

 白いローブには鮮明な赤が付着し、本人の顔もよく見れば鼻だけでなく口も悲惨な事になっていた。

 高い鼻は無残に潰され、見える範囲の白い歯は全て失われていた。眼鏡は無くなっており、まるで別人の様な顔つきになっていたのだ。

 でも……人が変わったのは、あの人だけじゃなかった。


(む……ムサシ、なの?)


 思わず心の中でそう問いかけてしまうくらいに、ラトリアの前に居るムサシは……

 ラトリアが知っているムサシは、ちょっとびっくりする位の大きな体をしていて、いつも快活で、明るくて、ちょっと悪いオトナで、優しくて……とにかく、そんな人だ。

 でも、今のムサシは違う。見るもの全てを卒倒させかねない威圧感、あの人を射殺さんばかりに貫く眼光、白いを覗かせて上がったり下がったりする口角。

 その全てが、獰猛な獣を思い起こさせる物だった……ううん、違う。獣なんてめじゃない、あれじゃまるで……怒り狂った、ドラゴンだ。

 余りにも、余りにも違う。こんなムサシは知らない、見た事もない。目の前の現実を受け止めきれずにいた時、そのムサシの纏う雰囲気が更に強い熱を帯びた。



「俺はな、そういうラトリアみたいな人間を、上から踏みにじる様な真似をするテメェみたいな連中が――大っ嫌いなんだよッッッッッッ!!!!」



 その怒声と共に、あの人を持ったままの腕が軽々と振りかぶられ、そのまま床へとあの人を叩き付けた。

 木が砕ける音が部屋中に響き、埃が宙を舞う。その時初めて、ムサシはラトリアの事で怒っているのだと気付いた。

 これ程に鮮烈な感情の発露。自分では無く、誰かの為にここまで怒れる人間を、ラトリアは初めて見た。

 ムサシの手は止まらない。床にへばり付いたあの人の足首を持って再び宙吊りにすると、全く色褪せない憤怒を滲ませた言葉を吐き出し、再度無造作に床へと叩き付けた。

 枯れ木の様に振り回され、ムサシと言う圧倒的な力に曝されたあの人の顔は恐怖に歪み……今まで聞いた事の無い震えた声で、他の研究員に助けを求めた。


(……っ、いけない!)


 咄嗟に、ラトリアはあの人と一緒に入って来た二人の研究員を見る。

 彼等も、あの人と同じ魔法科学研究部に所属していた筈。一緒に来たと言う事は、あの人の護衛も兼ねていると言う事だ。

 あそこにいるのは、魔法に長けた人ばかり。案の定、弾かれた様に二人は我に返ると即座に魔法を使う体勢に入った。

 しかし……そんな彼等を見ても、ムサシはまるで動じていなかった。それどころか、益々身に纏う怒気がその濃度を増す。


「だ、だめ……」


 ムサシの両手が人の命で濡れた姿が頭によぎった瞬間、ラトリアの口から掠れる様な声が出た。

 しかし、ムサシは止まら――。でも、それはラトリアの言葉を聞いたからじゃない。ギルドマスターが、今にも魔法を撃とうとした二人を拘束したからだ。

 ギルドマスターが何かを二人に話していたが、その会話は全く頭に入ってこない。何故なら、ラトリアの意識はムサシにのみ注がれていたから。そして、にラトリアは気付く。


(どう、して……? どうして、そんなに哀しそう、なの?)


 不可視の炎を纏ったままのムサシ。しかし、全てを焼き尽くさんばかりの感情の内側に……深い悲哀の色が、見えた。

 それは、正直に言って今のムサシにはあまりにも似つかわしくない物だと思った……でも、同時に思う。この人を、これ以上先に進ませちゃだめだ!

 思わず、ラトリアは駆け出しそうになった。でも、そんなラトリアよりも早く動いた人が居た――リーリエだった。



「ここまでにしましょう、ムサシさん」



 怯える事も、怖がる事も無く静かにそう口にしたリーリエは、優しくムサシの手を包み込んだ。

 すると、不思議な事が起こる。嵐の様に吹き荒れていたムサシの焔が、急激にその勢いを失っていったのだ。

 リーリエの言葉が、柔らかくムサシを包んでいく。そうしている内に、部屋を満たしていた怒気も含めて……全て、消えた。


(……すごい)


 一部始終を見ていたラトリアは、素直にそう思った。

 ムサシとリーリエ、アリアとコトハが恋人同士だと言うのは、知っていた。ムサシ自身、自分の事をリーリエ達を誑かした悪いオトナだと言っていたし。

 目の前でしっかりとムサシの瞳を見つめ返すリーリエは、そんなムサシを怒ったり、その行動に呆れたりする……でも、それらは全てムサシへの揺るがない愛情の上に成り立っているのだ。

 そうでなければ、今のムサシの前に堂々と立つ事なんか出来ない。ムサシを想うからこそ、真正面から向かいあえる。

 そしてそれは、リーリエと同じ様にムサシの元へ向かおうとした、アリアもコトハも同じだと思う。ラトリアに色々な事を教えてくれた人達の絆の強さを、改めて垣間見た瞬間だった。

 その光景に見とれていた時、ムサシがゆっくりとラトリア達の方を向いた。その瞳と目が合った時、ラトリアは思わずびくりと体を震わせる……それが、いけなかった。


「あー……悪い、少し頭を冷やして来る」


 ラトリアを見たムサシが、バツの悪そうな顔をしてドアへと向かう。明らかに、今のラトリアを見て何かをした末の行動だと分かった。


(ちがう、ちがうよ。ラトリアは、ムサシの事をなんて思ってない!)


 気が付けば、ラトリアはアリアの腕の中から出て駆け出していた。広いといえど、ここはギルドの中にある一つの部屋。

 走るラトリアと、歩くムサシ。その距離はあっという間に縮まって――。



「……まって!!」



 力一杯に呼び止めると共に、ラトリアはムサシを後ろから掴んで、引き留める。行かせたらだめ……ラトリアには、この場でムサシに言わなければいけない事があるから。

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