蛇行する川の合流

 寒い夜ですね。あなたは今、どうしているのでしょう。あなたが今掴まっている木からはどんな景色が見えますか。さぞかし広く、透き通っていて、万物が一日一日を謳歌する様な、そんな景色なのかと存じます。あなたにはそんなところで幸せに生きていて欲しいと願うのですけれど、それなら何故私は、わざわざその夜をかき乱しに出向くのでしょうね。ご無礼は承知の上です。どうか、許して下さいね。

 それにしても、寒い夜ですね。私はこぢんまりとした滝壺にいるのですけれど、滝の威力は絶大です。私は流されることすら出来ずに、冷たい水しぶきを全身に浴びながら、ただあなたのことのみを想っているのです。

 とても、寒い夜ですね。ここから見える川や夜空は、本当の景色なのでしょうか――。


 乗り換える駅と使用する路線を入念に調べ、雪観は雑踏の中を歩いた。東京へ来てから、やっと一年が経過しようというところだった。「慣れる」ということは、自分の置かれた新たな環境を体が受け入れるということだ。この雑踏もベンチに置かれたゴミも列車到着のアナウンスも音も光も、雪観は受容し始めていた。前日の夜に綺麗だと思った下り坂は、一晩を経過した後には何も訴えかけて来なかったりするし、朝清潔になった駅の構内はその日の内に汚し尽くされる。そんな東京の毎日に親しみを覚えた。毎日少しだけ変化して、あとはそのまま昨日を繰り返す街。朝、透明な霧が玄関から流入するのを防ぐ為にドアを閉め家を発ち、帰るときには空気は少しだけクリアになっている。鉄筋コンクリートの階段の上り下りは少し楽しい。だって、地上と地下では秩序や価値観があまりにも違うから。東京の中では、どこに行ったってその狭い地区独特の景色があるものだ。騒々しさに背後の恐ろしい水の塊を忘れかける、街。ベッドの上に見える川や森の静けさとのコントラストが悲しい程暴力的だ。

 帰宅ラッシュの車内には不安定が寄り集まることによって生じる安定が渦巻いている。集まる、ということは、畢竟安堵を生み出すものなのだ。揺らぐ不安定達を乗せて、電車は決められた駅を決められた時間に巡回する。雪観は未だ降り立ったことのない駅のホームへ足をつけた。新雪に足跡を成す様な心持がした。

 「ファンタジック」と名付けられたそのライブハウスの前には、整然とした列が出来ていた。雪観は紺のダウンコートに顎を埋める様にして列に近づき、最後尾へ加わった。間もなく静かに列は行進を始め、建物内部へ吸い込まれて行った。一歩内側へ入ると、温められた空気が今夜のオーディエンスを歓迎した。まるで、紺碧の海を沖へと進むサーファーの背中の様に。

 ライブハウスの壁を撫でる音の塊が、時折ふっと雪観の顔に正面衝突した。ステージには何人か新進気鋭のミュージシャン達がいて、その中にコアラがいた。あのコアラだ――それは妄想と信仰の産物。頭上でシャンデリアが揺れた。壁が溶けた。オペラ座の怪人を以てしても、雪観の真っすぐに彼を捉えた目線は遮れまい。

 雪観はどうにかして感情を言語化しようと藻掻いた。彼女は仕事仲間である日本語に対して尊敬の念を欠かさなかったし、それに対しては絶対的な信頼を置いていた。言語化出来ない感情なんて存在しないも同じだ。雪観はそう考えていた。しかしこのとき彼女にもたらされた浮遊感と落下感、世界が一点に収束する様でいて彼女だけが取り残される様でもあるその感情を、特にその中心にいる彼女が、理性的に理解することなど不可能だった。ただただ彼女の視覚の範囲であらゆるものの上下優劣が崩壊し、それを爆音が包んでいたのであった。

「衝撃的な景色だ」

 彼女がようやく捻り出した言葉はこれだけで、それ以上は一滴たりとも現れなかった。

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