森の夜 2

 店の中に入ると、あまりの薄暗さにまた面食らった。店の丁度真ん中のところにアンティーク調のシャンデリアが一つあるが、他の光源は壁に幾つか付いている白熱電球だけであった。壁の色は赤であった。そのシャンデリアの真下に黒いソファーがあり、そこにチャイナ・ドレス風の青い衣装を着た女性が優雅に座っていた。

「ミナ」

 ボーイが呼ぶと、青い衣装の女性はおもむろに立ち上がり、静かに入口の方まで歩いて来た。

「ミナです。よろしくね」

 彼女はぺこりとお辞儀をするとすぐに男の眼を見詰め、初めからの微笑を崩さぬまま彼の手を掴んだ。室温と同じ温みが伝わった。

「じゃあ、行きましょ」

 男が言葉を発するよりも先に、彼女は男とボーイに背を向け、彼の手を引いて先程まで自分が座っていた席へ案内した。背中からは甘い香水の香りがした、絨毯は黒だった。

 黒いソファーに腰かけると、ボーイは死角に入って見えなくなった。

「ごめんなさいね、選択肢がなくて」

「いえ」

「あの人に無理矢理連れ込まれたんでしょう?」

「無理矢理って言う程ではなかったですけれど」

 女は微笑すると、つぼ型のガラス容器に入った水を二つのグラスへ注いだ。その一連の仕草が男の眼には魅力的に映った。

「まずはお水でも飲んで。こういうところは初めて?」

「はい」

「そう。そうよね。でもついてないわね、あと一時間早く来ていれば選択肢は二人だったのに」

「この時間には帰っちゃうんですか?」

「ううん、辞めたの。あの人に辞めさせられたのよ」

 女はそう言うとグラス一杯の水をぐいっと飲んだ。

 男もつられて一口飲んだ。

「昨日までは仲良かったのよ。でもあの人、気性が荒いから……」

「喧嘩しちゃったんですか」

「そう。今頃、何考えているんでしょうね、あの人。ちょっとは反省してるのかしら」

 女はもう一度自分のグラスへ水を注いで一口含むと、注文はどうするかと尋ねた。男はメニューを一瞥して、一番上にあったお酒を頼んだ。

「あなた、何歳?」

 ボーイを呼んで注文の酒を伝えると、彼の方へ向き直って尋ねた。

「二十一です」

「お名前は? 下の名前」

「レン、です」

「そう。レン君」

「そう言えば、ここ『愛の店』って名前なんですか?」

「そうよ。変でしょ」

 女はにこやかに笑った。美しい人だと思った。この店に充満する「愛」は、まだ男の知らぬ類のそれだ。危うくて、時折まばゆく輝き、時折くすむ小さな光。闇夜に香る香水の様で、人はそんな実態のないものに惹かれ興味を抱く。

「あの」

「何?」

「ミナさんは、誰かとお付き合いをされているのですか?」

 確信していたからこそそんなことを訊いたのだった。男は今までになく真剣な顔をしていた。彼に流れる時間が、グラスの水面の様に滑らかに停止した。店に流れる時間も止まった。

「ええ」

「それは、あのボーイさんとですか?」

「ええ。そうよ」

 店の暗さがせき止められた時間の渦を伴って瞳に吸収された。

「そうなんですか」

 ボーイが酒のボトルを運んで来た。

「暗いですね」

「そうね」

 二人は水を一口飲んだ。女はゆっくりボトルの栓を開け、新たなグラスへ注いだ。男はそれを半分くらい取り込んだ。時間の止まった温かな空間の中で、皮膚の感覚だけが彼の輪郭を留めていた。彼は自分がグラスに注がれた透明な水の様に思えた。

「レン君は、今付き合っている人はいるの?」

「今日喧嘩しちゃって」

 男は美しい女に傷口を曝け出した恥ずかしさからグラスの残りを一気に飲んだ。脳が熱を持ち始めたのを感じた。

「どうして?」

「何か隠してることがあるんでしょ、って、言われたんです。そんなもの何もないのに」

 男は、まだ自分の中でも整理できていない事柄がするりと口から飛び出したことに誰よりも驚いた。

 女は少し考える素振りを見せ、口を使って息を吸ってからこう答えた。

「彼女と話しているときのあなたは、何を考えているのかしら? 今私と話しているときに考えていることと、どう違う? レン君は何を考えて口に出す言葉を決めている?」

 女の眼はどこまでも透き通っていた。あなたこそ、何を考えてそんなことを訊くのか、と男は思った。視線をほんの少し下げると、白い鼻筋と光沢のある下瞼が意識された。抜け目ない美しさに男は自らの負けを悟った。

 男が答えに迷っている間に女は美しい手で美しい酒を注いだ。

「彼女と話しているときと、あなたと話しているとき、確かに僕は違うことを考えているのかもしれない。彼女の横にいるとき僕は処理し切れない程色々なことを考えています」

「なるほどね。彼女の前では恰好良くいたいものね」

「ええ。だから、先回りしてあれこれ考えますし、どんな小さな行動でも、彼女を嫌な気分にさせないか自問自答してから決行に移しています」

「じゃあ、今私と話しているときは?」

「なんだか、素直に話せます」

「私とは、制限時間が過ぎたらきっともう会わないもの。そうよね。でもね。私は今、あなたが恰好悪い人だなんて少しも思っていないわよ」

 男はただでさえ褒められるのになれていないのに、美人に優しい言葉を投げかけられてどう反応すれば良いか分からなかった。彼はこなれた人間のふりをして返事をしかけはしたが、そういった文句は全て喉のところで追い返され、喉が渇いたのでグラスに手を伸ばした。

「何も言わないのね。素敵な対応だと思うわ。それがあなたの素直な行動なら」

「ありがとう御座います」

「いつもこんな感じで良いんじゃないかしら。人は呼吸のない雄弁には恐怖を覚えるものなの。無口の方がずっと素敵だわ」

「そうなんですね」

「でもね、覚えておきなさい。無口を盾に取って自分の素直な感情を見せず、女を待たせる様な男はただの卑劣よ」


 猫の目がやって来て止まっていた時間が動き出し、男は自分の頭の中で散乱していた全てのものが組み立てられたパズルの様に順序付けられ体系化されていることを実感した。嘗てない程晴朗で穏やかな気分だった。凪のやさしさをそのとき知った。静謐な砂浜に赤い情熱が燃え上がった。

 重い扉を開けると、黒い涼しさが自由を広げていた。


 ――錬、今日は取り乱しちゃってごめん。私、錬が遠く感じたの。何でかは分からない。多分、私の思い込みなんだと思う。だから、もう一回ちゃんと向き合って、錬を見つめなおしてみたいんだ。今日ちょっとだけ見えた、錬の怒ってる姿とか、怒りの感情とか、一人でいるときの錬はどんななのか、とか、全部。私全部受け入れられるよ。だから、また会いたいです。じゃあね。おやすみ。


 男はスマートフォンをポケットに捻じ込み、ゆっくりと歩いた。月が彼の髪を照らした。男は途中でコンビニに立ち寄ってトイレを借り、コーヒーを購入してから家に帰った。

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