森の夜 1

 毎日少しずつ変わる街。その繊細な変化を最も良く表しているのは、月の満ち欠けではないかと思う。嘗て同級生にコアラと呼ばれた男は、ペシミスティックを向かい風にもぎ取られながらそんな文句を思い浮かべた。

 相変わらず夜になると全く人気のない住宅街だが、この風と殆ど頭の真上にある満月が今日の昨日でないことを教えてくれる。その風が耳の産毛に囁いた。「しかしお前は、今日が昨日であった方が嬉しいのではないか?」と。

 しかし男は、伸びた横の髪の毛を後ろへ預けて答えた。

「明日にも昨日にも、希望なんてないよ」

 頭上の月は、厳密には頭上より少し前の方にある。この月のことを思えば、後ろを振り返ることなど出来まいよ。男はそう自分に言い聞かせた。寒空と早足、諦念と白息。両手の感覚が少しずつ失われていた。

 そのとき、前方の角から白い毛皮のコートを着た女性が現れた。男は驚いて、一人風と同化して歩いている自分がその女にどう見られるだろうかということを咄嗟に心配した。その女が彼の知り合いであった訳でもないのに、なんだか恥ずかしく思った。最近はこの時間に帰ることが多いが、いつも家に着くまで他の人には会わないから、少し油断していた。しかし女性は男に一瞥もくれなかったので安堵した。彼女が通り過ぎてしまった後で、男は駅の方へ向かった彼女はもしかして泣いていたのではないかと思った。空気を通してそんな気配を感じ取った気がした。アスファルトが反射する夜の闇に酔っていたからそんなことを思ったのだ。元通りの静寂に強気な柑橘の香水が匂った。

 女性が現れた曲がり角に差し掛かると、男は風の向きが変わったのを感じた。何かに引き寄せられた様に右を見た。いつもは通らない道だった。

 いつも通り真っすぐ進めば、二十分もかからず自宅へ辿り着いてしまう。彼はまだ悲しみを夜風で中和し切れていなかったし、家に着いたら今日が終わってしまう気がしたので足を右に向けた。白線に挟まれたアスファルトは奥へ行くにつれ細くなっている。慣れない道とは言え彼も住む住宅街の一部に変わりはないから、少し回り道をしてみるくらいの気持ちで足を踏み入れたのだったが、案外知らない道というのは楽しいものである。また今度この道の変化を確かめに来ようと、男は歩を進めながら思った。

 少し歩くと、道は先の方で急に下り階段に変わっていることが分かった。男は俄然興味が湧いた。近づいて確認すると、階段の段数はおよそ二十段で、割合傾斜がきついことを発見した。階段の真ん中と左右には赤い手すりが付いており、段は石で出来ている。森厳な雰囲気を醸し出しているその階段を、男は一段ずつ下った。わざと顔は前方に向けたままにしておいた。一番下まで降り切ると、目の前には先程までとなんら変わらない住宅街が広がっていた。なあんだと男は口元を綻ばせた。悲しい気分は一緒に階段を下って来はしなかった。

 しばらく進むと、少しだけ広い通りに出た。左右には眼科、家具屋、鍵屋、お好み焼き屋等が立ち並んでおり、昔は商店街だったのだろうと推察された。この道を左に曲がれば、男の家の方へ行ける筈である。彼は足取り軽く初めての道を歩いた。頭上より少し前方のところで満月が光っていた。

 その通りをまたしばらく進んだ先に、キャバクラ店があった。控えめな電飾で縁取られた看板には「愛の店」と書いてあった。

 その店の扉の前に、黒服のボーイが立っていた。看板の電飾以外には光がなかったので、男は初め彼に気が付かなかった。ボーイは猫の様な目と左右に大胆に跳ねさせたパーマ風の黒髪を有していた。闇に輪郭を預けたすらりとした体躯がモデルの様だった。

「こんばんは。良かったら寄っていきませんか」

 ボーイが猫の目を真っすぐに向けて言った。若くして自分の店を持つことを許された優秀なバーテンダーの様な、気迫と自信を多分に含みながらも余裕を持った声だった。そして彼は、与えた幾分かの余裕に捕らえられた男が返事をするまでその目を少しも逸らしはしなかった。

「いえ、今夜は遠慮しておきます」

 焦った男は夜の店に慣れた人の様な返事の仕方をしたが、実際そんなところへは一度も行ったことがなかった。ボーイの顔や制服や話し方を見るのでさえこれが初めての経験だった。

「お客さん、こういうお店に来たことがないでしょう。一度この店で体験なさってみてはどうでしょう? ずっと昔からある老舗ですから」

 ボーイの人を蜘蛛の様に捕らえて離さない不思議な感じは、あの赤い手すりの階段に少し似ていた。男はどうしてだかこの店とボーイに興味が湧いて来た。体中の神経が興奮で毛羽立つのを直立したまま感じた。

「確かに、趣のあるお店ですね」

「一時間で五千円にしましょう。指名料無し。どうです?」

「指名料無し?」

「実はこの時間、キャストが一人しかいないもので」

 男は面食らったが、ボーイの方は何ともない顔をしていた。法外な料金を要求する店でもなさそうだったので、男は興味の赴くまま入店してみることにした。ただ今日をこのまま終わらせたくなかっただけだった。

 黒服のボーイは赤銅色の分厚い扉を押して開き、男を穏やかに誘導した。

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