第2話 『腹が減った』


かち、かち、かち。

 直射日光によって焼かれていく右腕に巻かれた安っぽい腕時計は、短針も長針も十二を指していた。正午丁度。半袖とはいえ、いや半袖だからこそアキラの色白の肌は熱をもち、細胞一つ一つが休憩を求めている。背中にしょった軽めのリュックサックをひっさげて、アキラは歩いていた。

 岐阜県多治見市。七月、八月の平均気温は三十五℃をゆうに超え、日本一暑い町として町おこしを行う田舎。三十八℃を超えた日には市内放送で給水をするようにと何度も放送が繰り返され、外で遊ぶ際には注意が必要になってしまうような地域だった。

 いちど、細胞に従いどこかで休んでしまおうか。アキラのなかに小さな葛藤が生まれる。常にアツアツのお風呂に入っているような気温なのだ。毛穴から噴き出した汗は出尽くし、のどはビスケットを腹いっぱい食べたように渇いている。立ち止まるのは億劫にしろ、水分を取らなければからっからの干物になってしまう。

 ごそごそと、指先とわずかな希望をズボンのポケットへ向ける。よれたジーパン。なにも入っていないのは知っていたが、もしかしたらビスケットのように叩いたら増えていただとか、四次元ポケットになっていて、どこからともなくクリスタルカイザーが入っていたりだとか、あり得ない想像を膨らませてしまう。もちろん人差し指と中指に触れたのは糸くずと砂ぼこりと十二円だけだったが。

 かろうじてうまい棒が買える全財産十二円。水は買えない。いっそ全財産でわずかながらの空腹を満たしてしまおうか、そんな思いに駆られるものの、いまの状態でうまい棒のような、口のあらゆる水気と生気を奪ってしまうスナック菓子を食べることが、アキラにとって後々困ったことになることは容易に想像できた。

「腹減ったなぁ」

 目玉焼きが作れるほどの熱をもったコンクリートの道路。その脇をのろりのろりと歩くアキラ。まるでナメクジのようだな、と少し笑うが、よくよく考えるとナメクジより水分含有量は少ないだろうから、そんな比喩は的外れな気がした。

 空腹が胃を殴り、乾きが喉を焼き、疲労が両足を地面へと打ち付ける。

 どうにか癒着した足の裏をひっぺりはがし、四十センチ先へ。が、マジックテープの様に再びねばりつく。何度も何度もくっついてはがしてくっついてはがして。

 繰り返すうちにアキラは大きな広葉樹の影へとたどり着いた。

「少しだけ……少しだけ休もう」

 アキラの代わりに太陽の光を浴び続ける広葉樹の葉っぱたちは、見上げるほど成長しきっている。アキラにとっては煩わしい熱と光も、彼らにとっては日光浴のつもりなのだろう。

 木々のテリトリーへと入った瞬間、アキラの体は勝手に脱力し、地面へとへたり込む。深呼吸をすると、芝生のにおいが鼻から一気に気管へと送り込まれ、通っていた神奈川の大学とは別種の香りを堪能する。

 ぱんぱんに膨らんだ肺から一気に空気を押し出すと、一瞬食欲が満たされる。

 しかし、そんな時間も一瞬だった。アキラの食欲は津波のように押し寄せ、なにか胃に入れろとなんどもなんども恐喝する。

 もしかして深呼吸し続ければ、一瞬を永遠に続ければ食欲はなくなるんじゃないか。

 名案を思い付いたアキラは肺を空に、肺を満たす動作を往復する。

 十回、二十回と、干潮と満潮を引き起こすお月さまになったアキラは、同時に睡魔にも襲われた。

 よくよく考えればここ二週間まともに寝ていなかったことに気付く。睡眠導入剤を使わずに安眠につくのはいつぶりだろうか。懐かしい田舎の匂いに満たされながら、アキラの魔ぶたはいつの間にか光をさえぎっていた。




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