第三話

 とりあえず、父の軍船から、隣の小さな船へ乗せられる最低限の食料を移して、これもまた軍船からくすねた行灯に火を点して明かりを確保し、準備を整えました。

 上を見上げると、雲ひとつ無く蕩けるような漆黒の空に、星が瞬いていました。 風も少なく、今日は本当に、未来ある二人の若者に神様がくれた絶好の機会なのでは、とさえ思います。

 もともと滅多に天気など崩れない島ではあるのですが、そう思っておいた方が雰囲気が出るかなぁ、と。一種の願掛けです。


「なんだこれ」


 船に取り付けてあるを手に取ると、蝶はその細長い物体をまじまじと見て不思議そうに首を傾げました。


「確か、櫓と云います。船を漕ぐ道具です。……まぁ、それにしても和船の漕ぎ方は本で読んだことがありますが、うまくいくかどうか」

「難しいのか?」

「ええ、たぶん。普通は練習するみたいですよ」

「早速、脱獄の試練ってわけか」


 水中に隠れているので分かりませんが、平らになっている先端を左右に振り動かすようにし、その運動により推進する仕組みになっていた筈です。


 櫓は一丁しかないので、交替で進めることにしました。


「では、出しますよ」

「ああ」


 港に繋がれていた縄を解き、とうとう僕たちは島から離れました。


 正直、子供二人でどこまで出来るのか不安しかありませんでしたが、蝶の運動神経には驚いたもので、少し漕ぎ進めればもう己の手足を動かすように櫓を扱っていました。


 僕は、父が島の外へ出掛ける時に、時折見送りに来ており、その時にだいたい父がどの方向に向かっているのか、別れを惜しむ振りをして、その姿が見えなくなるまで探っていました。


「ここから、東に向かって真っすぐで良い筈です」

「おう」

「蝶、替わりましょうか。ずっと漕ぎっぱなしで、疲れたでしょう」

「まだ大丈夫さ。それより、お前は道案内をしてくれ。俺にはさっぱりだ」

「案内も何も、この先は僕もうやむやなんです。何せ初めてですから」

「はは、そうだよな。じゃあ、ちょっと代わってくれるか。眠くて仕方ねぇー」

「夜行性の僕に任せなさい」

「へへ、頼りになる引きこもりだな」


 その言葉には少々苛付きましたが、代わりに持たされた櫓は想像していたよりも重く、これをずっと漕いでくれてたのか、と思い知りました。


 現に、出発した時は暗い星空でしたが、次第に漆黒の空に橙が混じってきています。


太陽です。


 相当な時間、蝶に任せていたようでした。 お休みなさい。

 いつの間にか狭い空間に丸まるように横たわった蝶からは、早くも寝息が聞こえ始めました。


 彼が寝ている間、非力な僕の力で何処まで進められるか分かりませんでしたが、まずは櫓の操作に苦戦しました。

 それまで蝶がまっすぐ進めてくれていた船も、そのせいでフラフラしてしまいましたが、ちょうど太陽が昇り始めてくれたおかげで、おおよその方角は見失わずに済みました。

 次第に浮かんでくる太陽と対峙するように、僕は少しずつではありますが船を進めました。

 必死に漕いでいると、いつの間にか太陽は昇り切り、空には清々しい青色が広がっていました。


 僕も、相当頑張ったようです。

 大変良く出来ました。正直、花まるものです。


「あ」


 やがて、水平線上に何かが見えました。

 心音が上昇したのが分かります。 おそらく、あれが、僕が今まで夢見ていた『外の世界』だと。

 興奮した僕は蝶を揺り起こしました。 叩き起こされた本人は、眠さと眩しさに目を擦りながら、何事だとでも言いたいような顔で僕を見てきます。


「蝶、やったよ!!起きてくれ!!」

「んん……どうした」

「あれを見てください!僕たち、成功したんだ、脱獄に」


 僕はその時、自分でも何を言っているか分からないくらいでした。


 とにかく蝶に目の前の事実を伝えたくて、珍しくいつもの敬語での話し方も失念していました。

 鼻息を荒くした僕の勢いに驚いて蝶も僕が指差した方に顔を向けます。ほぼ、僕と同じ反応。


「空!やっぱり、止めなくて良かった!本当泣けるわぁ……ぐすっ」

「ええ、蝶のおかけです!」

「あそこまであとどのくらいだろうな」

「こうやって目で姿を認められるくらい近づいたんです。あの陸地に着くには、おそらく半刻も掛からないでしょう」


 実際、その陸地は僕達の住んでいた島とは比べものにならないくらいの大きさでした。

 ちょこんとした島ではなく、横に大きく広がる陸地。

 相当疲れていた筈なのに、僕達二人は身体の奥底から湧き上がる力に任せ、船を再び進めました。

 いざ着いたらどうしようかなどは考えないまま、とにかく吸い寄せられるように陸地に向かって船を漕ぎ続けました。


 ただ、おかしなことに、いくら進んでも前方にある陸地が近づく様子がありませんでした。


「おい、おかしくねぇか?俺達、結構進んだよな」

「そうですね……陸地を見つけてから、そろそろ半刻経つというのに」

「疲れちまって、幻想でも見てたのかな……」

「いや、そんなハズは」


 僕たちは、1日以上海を彷徨っていたということもあり、疲弊仕切っていました。

 蝶の言う通り、あの陸地は幻ではないか。と、とうとう考え始める始末です。

 若しくは、この状況事態が夢で、実際の僕たちは船を出して間もなく転覆事故に遭い、もう海水をたらふく飲んでフグ状態、生と死の狭間で彷徨っているとか。

 それもあり得るかあり得ないかで言ったら、まあ……あり得る話にはなってしまうのですが。

 寧ろ、十二歳の子供が、初めて乗った船で事故にも遭わず、獰猛な海洋生物に襲われもせず、都合良く島を脱出できたことの方があり得ない話なのかもしれません。


「なぁ、空。こんなのあり得るのか」


 僕の心情が、蝶にも感染してしまったのでしょうか。

 いつも強気に吊り上がった眉も、今ではすっかり八の字になっています。


「そんな主人からお預け喰らった犬のような顔しないでくださいよ、僕だって泣きたいです。口の中乾きっぱなしです」

「ぶん殴るぞこら」

「やや、冗談冗談。構えないでください」

「お前、相変わらずすっとぼけやがって。よくこんなワケわかんねぇ時にへらへらできるな、ったく」

「いや、こんな時だからこそ余裕を保たなければ、です。別に喧嘩しても良いですが、こんなところでドタバタしたら、船もひっくり反って僕たち海に還ってしまいますよ?いいんですか?」

「う……」


 押し黙った蝶。

 昔から、体当たりの喧嘩では負けっぱなしでしたが、口先に関しては僕が優勢なのです。

 別に黙らせたことを勝ち誇っているわけではありません。

 合意とはいえ、彼を連れ出してしまった以上、僕には責任があります。

 こんなところで我を見失うわけにはいきません。櫓を握っている僕の掌は、手汗塗れですが。


「蝶、すみませんが驚かないでくださいね」

「あ?なにが……」


ばちん。


 今の音は、頬を叩いた音です。


 あ、勘違いされそうなので補足しますが、僕が自分で自分の頬を叩いた音です。

 まだこんな力が残っているとは驚きましたが、結構な痛さ。 そして、――――やはりこれは現実。


 鳩が豆鉄砲喰らったような顔をして呆然としている、目の前の男は固まっています。正気を失ったとでも思われたのでしょうか。


とりあえず、この場面で僕が執らねばならぬ手段はひとつです。


「……蝶。島へ、戻りましょう」

「な、なに言ってんだよ」

「僕たちは全てを軽率に捉え過ぎていました」

「は?」

「おかしい……あの島は、やはり、何かがおかしいのです」

「……」


 此処まで脱出するのに、あまりにも上手く事が進み過ぎていること。

 眼前まで迫っているあの大きな陸地に、いくら近づこうとしても近づけないこと。

 こんな現実離れした事象が起きるなんて――――考えようとしても、処理が追い付かない。


「おい……空、お前、顔色すごい悪いぞ。何考えてんだ」

「え……」


 未知の力に、自分達が囚われていることに気付いてしまった僕の精神の不調は、とうとう表に出てしまったようです。

 心配そうな蝶が、僕の顔を覗き込んできます。


「空が、戻るって言うなら、俺も戻ろう」

「蝶……!」

「確かにお前の言う通り、この展開は流石に薄気味わりぃしな。このまま進んだらいけない気がしてきたよ」

「しかし、このまま引き返したとしても、無事に戻れるかも分かりません。何も起きないとしても、また一晩以上の旅です。体力が持つかどうか」

「大丈夫さ、任せろ。何のためにお前の親父の船から食料くすねてきたと思ってるんだ?行燈に使う油もまだ残ってるし、あとは気合だ気合」

「ありがとう。……そして、本当にごめんなさい。巻き込んでしまって」

「巻き込んだだぁ?だから言ってんだろ、俺はお前に連れて来られたんじゃない、お前と一緒に来たんだ。 だいたい、俺たちまだガキだぜ?こんな思い出の一つや二つ作っても、バチ当たんねぇだろ!」


 いつもの悪戯っ子じみた笑顔を浮かべた蝶は、脳が振動するような一発を僕の頭に御見舞し励ましてくれました(誰がなんと言おうと、これは励ましてくれているのです)。


 ――――蝶、お前は、この脱獄を決行する直前に、「俺は空がいないと何もできない」などと、珍しくお前らしくない弱音を漏らしましたよね。


「多分、逆ですよ」

「あ?なんか言ったか」

「やや、失礼。なんでもないです。お前に頭引っ叩かれたせいで可笑しくなって考え事が口に出てしまっておりました」

「そうやって憎まれ口訊けるようになったってことは、もう大丈夫だな。ほら行くぞ、櫓貸せ。今度は俺の番だ」

「あ」

「……お前が握ってたところ、手汗やっべぇ」

「昔から体質なんです。緊張すると掌に集中的に汗が……恥ずかしいこと言わせないでください」

「あんな何でも無い振りしてたのに、お前って奴は本当、見栄っ張りっていうか何というか」

「さっさと切り返して帰りますよ」

「へいへい、親分」


 島へ戻ろうと進路を切り替え、またゆっくりと進みます。

 また特に海が荒れたりもせず、これなら大丈夫と自分に言い聞かせるように船を運転する蝶の後ろ姿をぼうっと眺めていました。

 帰ったら、父と母になんと言い訳しようか、今回の不可思議な経験を誰かに話すべきかどうか、などと思案しながら。


 そうこう唸りながら考え事をしているうちに、なんだか視界がぼやけてきた気がしました。


「なんだこれ」

 どうやら視界がぼやけてきたのは僕の目が疲弊したからではなく、事象として起こっているようで、最初にその変化に声を上げたのは蝶でした。 次第に、周りの海も見えないくらい得体の知れない『白い何か』に景色が覆われていきます。

間違いない。これは……


「霧です」

「これが霧っていうのか」

「その反応、蝶は見たことがあるのですか?島では、気候上滅多に発生するものではないとばかり思っていたのですが」

「ああ……かなり昔に、一回だけ視たことがあるのさ。その時に、似てる」

「似てる?その、霧を視たときに、一体何があったのですか」

「……今はそんな話してる場合じゃねぇ。本当に、嫌な予感がする。空、気を付けろ」


 そう蝶が僕に警告を発した、その時。


 霧が少しずつ晴れていき、一番最初に視えたものに、僕たちは驚愕せずにはいられませんでした。


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