第二話



 時は、今より五年ほど前に遡ります。


 当時、僕たちは、夕刻になるとあの塔に登り、まだ見たこともない外界について様々な想像を膨らませ、語り合っていました。 その時間は、僕にとってとても有意義でした。蝶にとっては只の暇つぶしだったのかもしれないですが。


 僕の父が持ってきてくれた風俗画というものを幾つか二人で眺めながら、外界の男は本当に『髷』という、世にも奇天烈な頭をしているのかどうか、とか。

 歌舞伎という芸能事が、実際はどんなものか、とか。

 なぜ、この島では争いなど起きないのに、外界では戦が絶えないのか、とか。

 僕達は飽きもせず、家に帰らなければいけない時間ギリギリまで話し合っていました。

 ですが、その全ては、所詮見たことも実際に肌で感じたことも無いこと。 想像は勝手に膨らみ、最後は萎んで消えていく泡沫でしかありませんでした。


 その日は、いつもと同じく二人で学舎の帰り道に塔に登り、水墨画や、おそらく今外界で流行っているのだろう歌舞伎役者の肖像画を広げながら、いつものように二人で盛り上がっていました。


「なぁ、空」

「なんですか」

「これ、美人だと思うか?」

 そう言って蝶は、恐る恐る、肖像画に描かれた女を指差しました。 どうやら歌舞伎座の稼ぎ頭のようで、父の持ってくる肖像画に出てくる頻度が多い人物でした。


「…いや、目が小さい。顔も下膨れだし丸いし」

「外ではこれが美人なんだぜ。わっかんねぇよな」

「だから、いつも言っているじゃないですか。おそらく、僕たち島の人間と外界の人間というのは、美的感覚が大幅にずれている。 しかも、父様が言うには、このタイプの女性が一般的に美人というらしいですよ」

「へぇ。面白いな」

「面白いですよね」


 急に、蝶が吹き出しました。 何が笑う切っ掛けになったのか分からず、僕は、肩を震わせ笑い続ける蝶をただ見つめました。


「いや、興味無さそーだなーと思って」

「は? 」

「分かりやすいカラ返事だったぜ」

「え……ごめんなさい。 そんなつもりは」

「いーよいーよ。 空はアレだよな、もっと規模のデカイ話題の方が好きだもんな」


 その日の蝶は、一見変わり無いですが、付き合いの長い僕からすれば、いつもと少し違うように感じられました。

 どこか、塔の上から島の景色を眺める目の奥が、限りない遠くまで捉えようとしている気がしたのです。


「空」

「なんですか」

「見てみたくない?」

「この絵の女を、ですか。いいえ、別に、可愛くないですし、もう少し目が大きくて気持ち体躯が小さい方がいいです」

「そうじゃねーよ変態」

「では何をですか。あと変態じゃないです」

「んー、俺はさ、島の外が見てみたいんだ」


 そう呟く蝶の瞳は、その情熱が染み出ているかのように、仄かに赤くなっているようにさえ見えました。

 僕たちが知らないことなんて、この世界には、きっと幾らでもありふれている。

 この島で生きてこの島で死んでいくことは、そのありふれていることの一欠けらも知ることもできずに人生を終えることである と、僕も子供ながらに感じていました。

 風に漂う甘い桃の香りはすこし名残惜しいけれど、自由と天秤に掛ける価値のあるものは、この狭い牢獄には何ひとつ無い。

僕は立ち上がって、地面に広げていた絵の数々を拾い上げると、破り捨てました。

 その欠片たちは、いつもの風景に溶け込んでいきます。


「蝶。今から、行ってみますか。島の外」

「おう」


 そうだ、山菜取り行こう。みたいな、今思えば異常に軽いノリで僕たちは『脱獄』を突発的に行いました。


 深く考えていないわけではありませんでした。それは蝶も同じ筈です。 しかし、あの頃の僕は根拠が無い自信と、日ごとに膨らみ遂に抑えきれなくなった外への好奇心で満ちていました。

 ただ、思い立ったは良いものの、僕たちは脱獄を成功させるための確実な手段というものを持ち合わせていませんでした。当然です、所詮は子供の思いつきなのですから。

 しかし、不思議なもので、独りではなく二人だと、この愚か極まる突飛な計画も成功してしまうのではないか。そんな風にさえ感じてしまいます。

 まさに勢いだけで僕たちは塔から下り、日が落ち始めた空を見て焦りながら、とりあえず島から出るには船をどうにかして手に入れなければいけないな、ということはバカな頭でも思い付いたので、とりあえず港へ向かいました。

 

 停泊している船は何隻かあり、幸運にも周りに人影はありませんでした。


「あ、あれです。父様が外との往来の時に、使っている船」

「ありゃでかいな。所謂、軍船の類じゃないのか。使えんの?お前」

「まあ……多分。漕げる腕があればどこかには着く筈です」

「どこかって……どこよ」

「……」

「お前、それって……」

「ええ、船乗り経験なんて無しに決まってるじゃないですか。 この僕の細腕の何処に、船を漕ぐ力があるように見えますか」


 一応、冗談を交えて話したつもりでしたが。

 その時、僕は、いつもお調子者の蝶が苦笑いをしている場面を初めて見ました。

 そりゃ、そうです。船乗り経験の無い僕が軍船を上手く扱って、何処に在るかも分からぬ場所へ何の宛てもなく向かうなんて、話がぶっ飛びすぎています。

 だからと言って、船に乗らずに生身で海に飛び込んで終了時間未定の耐久水泳大会というのも、同じくらい話がぶっ飛びすぎています。


「空、ただのクソ真面目に見えて、相変わらずぶっ飛んでるな」

「もしかして褒められてます? ありがとう」

「ちげーよ」

「あだっ! そうやってすぐ頭叩くの止めてください」

「もー、うるせぇなぁ。これからどうするよ」

「とりあえず、この遅い時間に港まで来てしまったんです。今日、思い直して帰るというのは、ちょっと無理がある時間ですね。 お前も知っているでしょうが、島では夜の外出自体禁止されているのです。 規律にうるさいジジババどもに見つかったら、どうなるか」

「……」

「それはお前が一番解っているでしょう」


 蝶は芋虫を噛み潰したような顔で僕を見つめてきました。と同時に、言い聞かせるためとはいえ言い過ぎたなと僕は直後に反省しました。


 蝶には両親がいません。 いや、正しくは両親を亡くしてしまったのです。


さらに正しく言うと、二人の死体は見つかっていないので行方不明と言った方が然るべきでしょうが、もう島の大人たちからは亡き者として扱われています。

僕と出会う前の話なので詳しくは分からないのですが(だからと言って、直接彼に訊いたりもできませんし)、人づてに聞いた話だと、彼の父と母は、島の掟を破って夜に外へ出ました。


 なぜ外へ出なければいけなかったのか。

 また、なぜ彼らの死体さえも見つからないのか。

 不可解な点だらけで、どう考えても事件性の臭いしか感じないのですが、それでも僕の母・父を含め島の人間は特別関心を寄せません。 理由は至極簡単です。


『島の掟に背いたから』蝶の両親は、消されたのです。


 そのひとつで、人々の中では完結しているからです。


 島の掟は、即ち島の住人たちが崇め奉る神――――温羅(うら)様が取り決めたとされるものです。

 結構細かい決まりごとは多くありますが、取り敢えず島民が物心付いた頃から毎日音読させられ刷り込まれるのは、下記の三ヶ条。


一、夜ハ外ヘ出デルベカラズ。

二、島へ住ム者ハ、島カラ出ヅルコト禁ズ。

三、島ヘ住ム者ハ、コレラノ決マリヲ守リ、背クモノ見ツケレバ正シク在ルヤウニ導クベシ


 この決まりの内の一つを破った蝶の両親は、他の住民たちから激しく糾弾されました。

 しかし、本人たちはいなくなってしまったものですから、その矛先は、ただ一人生き残った子供――――蝶に、向けられたのです。

 その後、彼が今までどんな仕打ちを受けて、どんな思いで独りで生きてきたのか、言わずとも分かると思います。


「ごめんなさい……蝶。幾らなんでも、僕としたことが言葉が過ぎてしまいました」

「……」

「今日は……ちょっと思いつきで行動し過ぎましたね。止めておきましょうか。なに、父様の船で一晩過ごせばどうにかなります。 あれは武装船なんです、化け物でも襲ってこない限りは大丈夫。 幾らか食料も積んであるはずですから。言い訳なら任せてくださ」

「やろう!」


 僕の言葉を遮るように、勢いよく放たれた一言でした

 俯いていて地面に向いていた視線は、こちらを真っすぐに見つめます。 僕が驚いている間に、手を掴まれ蝶によって船の近くに来ます。

 父の大きな木造の軍船の隣には、頑張って三人程度が座れそうな船がありました。 父の所有物か分かりませんが、これなら、二人で漕げばそれなりに動かせそうです。


「お前が……」

「え? 」

「空がいなきゃ、俺はきっと何もできない」

「蝶……」

「……へへ、らしくねぇな。ごめん。とりあえず、力なら任せろ。武術成績一番の俺を舐めんなよ」

「……いいんですか。バレたら、どうなるか分かりませんよ」

「珍しく辛気臭ぇのな。だいたいお前、そんなこと気にするタマじゃないだろ。大丈夫だって」


 一瞬だけ、珍しくしおらしくなった蝶ですが、いつもの調子に戻り安心しました。

 本人の言う通り、蝶は島で有数の体術使いで、喧嘩は負けたことが無いくらいのやんちゃ者なので、頼って間違いは無い筈です。


 僕達は、思い切って船へ乗り込みました。

 

 これが、僕と蝶の運命を変える箱舟となりますように、と心の中で何度も祈っていたのは、今でも鮮明に覚えています。


 

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