第一話



 この島は、それこそ楽園と形容すべき土地だ。


 僕の周囲の大人は、事あるごとに口を揃えてそう言い、絶対に自分から島の外には出ようとはしませんでした。


 島の爺様婆様曰く、そんなことをする奴は地獄の煮え湯の中に自分から頭を突っ込んでいくようなものだと。

  それ以上話を続けると、誰もが不機嫌になるので、僕も口を噤むしか無くなるのです。


 幼い頃からそんな環境で育ったものですから、僕はこの島以外の世界を知りませんでした。


 島の中心には、いつからか分かりませんが島民を見守るように聳え立つ塔があり、そこには自由に誰でも立ち入ることができます。

 その頂上から見渡すと、面積の割に少ない島民たちの活動している姿がぽつぽつと、それと古びた建物達、あとはこの島で一番盛んに栽培が行われている、桃の畑のかたまりが随所に見えるます。


 新緑の中に混じって見える桃色が僕は昔から好きで、よく独りで塔に登り眺めていました。


 道を歩いていても、桃の甘い香りが鼻腔をくすぐるのが心地よく、確かに大人たちの言う通りここは楽園なのだろう、と僕も自然と信じるようになりました。


 もっとも、それは幼い頃までの話でしたが。


 僕の父は、この島では有名な医者です。

 島外へ行くのは基本的に推奨されていませんが(というか、先述した通り自分から出ようとする人間はいないのですが)、父は職業柄治療に必要な物資を調達するため、外の世界に出入りしていました。

 島に戻ってくると、よく父は土産話を僕に話してくれたものです。

 時には文献も貰うこともあり、僕はそれが毎回楽しみで仕方ありませんでした。


 父から初めて教わったことは今でも覚えています。

 島は、たまに雨が降ることがあっても、基本的にずっと温かく過ごしやすい気候が年中続きます。

 しかし、外の世界では春・夏・秋・冬と4つの季節というものがあり、およそ3か月おきにその季節とやらが移り変わっていくというのです。

 父に依ると、この島は年中春みたいなもので、夏は四季の中で、一番長い季節であり、時には体温に近いくらいの温度になることもあるとか。


 逆に、冬は温度がこれでもかというくらいまで冷え込み、時には、大気中の水蒸気で出来た氷の結晶――――雪というらしいですが――――が降ってきて、一面銀色の絵の具で染め上げたような景色になるという、全く異なった顔が数か月の短い間隔で訪れます。


 僕は、生まれてこの方いつも程良い暖かさが包む島で生活していたものですから、「暑い」とか「寒い」とかの感覚を味わったことがないのです。

 そのため、それらの話も、想像も出来ない途方もない話に感じていました。

 しかし、同時に好奇心も湧いてきます。


 そんな僕に、父は島の方が生活しやすいと言いました。


 決めつけではなく、その発言には根拠もあります。

 

 五年ほど前、定期的に行っている物資調達の旅から、父がちょうど帰ってきた時のことです。

 当時、外の世界はちょうど冬だったらしく、温度も冷え雪も降っていた外と島の温度差で父は体調を崩してしまいました。

 今まで滅多にそんなことは無かったものですから、僕は、三日三晩ほどでしょうか、付きっ切りで世話をしたのを覚えています。

 おそらく唯一、外と"島"を往来しているであろう父の動向はもちろん有名で、父が体調を崩して寝込んだことは、あっという間に島中へ知れ渡ってしまいました。


 それにより、また一層、確実に外の世界への警戒心はみな強くなりました。


 そんな空気を感じ取ってもなお、この狭い鳥かごのような島の中だけでない世界で生きたいと望んでいました。


 父と同じように、四季の空気を肌で感じ取りたいし、雪にも触ってみたい。


 塔の上から見える、ほぼ緑と桃色で色づけされた景色以外にも、綺麗なものは沢山存在するはずなのです。


 芸術にしたって、島伝統の角が生えた謎の木彫り人形とか、いつからあるか分からない民族音楽以外にも、数えきれないほどの可能性があることでしょう。


 たとえ後悔するようなことがあっても、僕はこの狭苦しい箱庭の中で息絶えていくのだけは避けたいと願っています。


 そんな夢を持ち続けている僕―――空は、いつの間にか十七歳になっていました。


************************************


 島では、若者が基礎的な勉学・歴史・武術等を学ぶための学舎があります。

 十二歳から十八歳まで、現在およそ三十人程度の人間が在籍中です。


 学舎は島の南側なのですが、僕の家は、それと正反対の北側の、居住区から少し外れた森の中にあります。


 毎朝歩いて通うのですが、森から抜けて学舎に近づいていくに連れて桃畑が増えていくため、あの甘い香りが漂います。


「空、おはよー!」

「おおっと、蝶。お早うございます」


 今、大声をあげながら後ろから抱き着いてきたのは、僕の親友である、蝶という同い年の少年。

 名前だけだとよく女と間違われるらしいのですが、立ててある短い赤茶の髪、5尺7寸ほどある、僕より少し高い体躯はどう見ても男にしか見えません。

 その煌びやかな名前と反し、いつも挙動が煩く人懐っこい様は――犬。

 そう本人に言って、前に喧嘩になり頭脳派の僕は武闘派の彼にボコボコにされたため、もう口にしないと決めたのでした。


「蝶、取りあえず退いてもらっていいですか」

「なんで? 」

「え、そこ言わなきゃいけないんだ……重い。肩が外れる」

「おお、それはすまん」

「まったく。 朝から、よくそんなに動けますね、お前は」

「俺は蝶だからな、ひらひら優雅に飛び回るのが得意なの」

「どっちかっていうとお前は蛾じゃないですか」

「なんか言ったか引きこもり」

「いや」


 という具合に、いつも会話になっていない会話をしながら学舎に向かうのです。 


 活動拠点が主に屋内である僕と、屋外である彼。


 言うなれば、僕が『静』であるに対して、蝶という男は『動』なのです。

 僕が『月』であれば、蝶は『太陽』。

 僕が『冬』であれば、蝶は『夏』――おそらく。

 僕が甘い葛湯を飲みながらみたらし団子を食べたいと言えば、蝶は焼き魚と米が食べたいと言う。


 そんな形で、僕たち二人は幼馴染でありながら、趣味も性格も、行動傾向も何もかも正反対で育ってきました。

 ただ、数少ない共通点は、この島より外の世界へ出てみたい、と夢見ている点くらいです。


 僕がそれを確信したのは、まだ学舎に通い始めて間もない、十ニ歳の頃に起きた事件がきっかけでした。




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