幻鬼の島

ゴトウ カサ

エピローグ 【或る女の話】


 何もかも飛ばしてしまいそうな風が轟轟と吹き荒れ、風呂桶の水をひっくり返したような雨が、地面を叩き付ける嵐の晩だった。


 走り続けるあたしと向かい合うように雨風が襲ってくるものだから、ほとんど息なんてできない。 窒息するとさえ思った。


 でも、走り続けなければいけない。

 いや、逃げなければいけない。

 振り返ってはいけない。


 せっかく、神様があの箱庭から逃げ出す転機をくれたんだ。

 やっと自由になれたんだ。

 その想いだけで、ひたすら無人の街道を走り抜けた。


 もう暫く外に出ておらず、ただ屋敷の中を移動するときにようやく歩くような生活をしていたものだから、そんなあたしが全速力で逃げたところで、遠くまで行くことはできない。

 だから、少しでも長い時間走って、少しでも遠い場所に行かなければ。

 そんな想いに反比例するように、次第に身体から力が抜けていき、眩暈も襲ってきた。

 ほとんど肌蹴てしまっている着物が水を吸って重く感じてくる。

 そして、履いていた下駄の鼻緒が切れ、とうとうあたしは転んでしまった。 転んだ拍子に膝小僧を擦り剥き、足首も挫いてしまった。

 

 立ち上がれなかった。 より一層強くなる嵐の中、それでもあたしは全身を引きずるように這った。

 少しでも遠くへ、誰も知らない場所へ。

 もう一度、外へ飛び出すんだ。

 バカの一つ覚えみたいに、それだけ考えていた。


 そうやって、永遠とさえ感じる時間の中で、どれだけ這っただろうか。

 目の前に、人間の足が見えた。

 大きいから、男の足か。

 ああ、とうとう見つかってしまったか。これだけ頑張ったのになぁ。

 また、連れ戻されて酷い折檻を受けるのだろう。 そんな絶望にとらわれつつ、ゆっくりと頭上を見上げた。


 その先にあったのは、見たこともない、恐ろしいほどに美しい顔をした男だった。


 着流しを来てはいるが、髷は結っておらず、下した前髪の隙間には切れ長の三白眼が見える。

  刀も何も持っていない丸腰だ。手にしているのは傘だけだから、侍でもない筈だ。


 私が見惚れていると、男は持っている雨傘を私の方に寄せ、微笑んで見せた。


「…鼻緒」

「え、」

「切れてしまったのですね」

「……」


 遠くから、私を探す奴らの声が聞こえた。


 目の前の、面妖な姿をした美しい男は、おそらく敵ではない。

 教えられたわけでもないのに、なぜか私はそう確信している。

 だって、穏やかな声色は、私に感じたことのない安心感を与えたから。


「では、僕がその鼻緒を結んで差し上げます。また、貴女が飛び立てるように」


 全てを知っているような言葉。 私は、迷わず男の手を取った。

 その手は、すごく温かかった。





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