第22話 鈴木琢磨―2017年9月10日
父の一朗が帰ってきた。
やっと親子2人で暮らせる。
一朗のいない4年間、
琢磨が、コバルトブルーの濃硫酸の悪夢に溺れる4年間、
アユは琢磨がドアを開けることがなくても、毎日、毎日、やってきた。
アユが来ることで、投石や落書きは確実に減った。
アユはそのために、俺の家に来ているんだと琢磨にはわかっていた。
アユは、ポストに入れた手紙で、割れ窓理論を教えてくれた。
「また割られるからって、ほうっておいちゃダメ。
直さなきゃ、余計エスカレートする。
私が修理業者を頼んで直してもいい」
琢磨は、自分で修理業者を呼んだ。
琢磨は割れた窓ガラスを見た。
割れたガラスから光が差し込む。
数カ月前、スマホを投げ捨てて割った窓。
この窓を直さなかったのは、自分の意志で開けた希望の出口だったからだ。
この4年間、怖かったのは、誹謗中傷を投げつけてくる、世間じゃない。
もしかしたら、上野を殺して濃硫酸に沈めたのが自分かもしれないーという恐怖だ。
担任のアユのことが好きだった。
めちゃくちゃ好きだった。
卒業式の日、クラス全員に返された出席簿用のフルネームの木のハンコ。
「鈴木琢磨」
卒業式が終わったあと、俺が持っててほしいってアユに渡したのは、
「ぜったい、世に自分の名を残す、何かをやり遂げる人になってみせるから」
という気持ちからだった。
あの気持ちに嘘はなかったのに。
その夜のうちに、俺は「殺人犯かもしれない鈴木琢磨」
あるいは、「殺人犯、鈴木一朗の息子」
になってしまった。
毎日、家に来るアユに会いたくて会いたくて、気が狂いそうだった。
二階の部屋のカーテンの隙間から、玄関に立つアユの黒いつむじを見つめる。
チャイムを押す、その白い指を見つめる。
メモ用紙にアユが手紙を書く様子を見つめる。
シャチハタなのに、何かのおまじないみたいに、
はーっと息をかけてから手紙にハンを押すアユを見つめる。
それだけが幸せだった。
でももし自分が夢遊病の殺人犯だったらと思うと、どうしてもアユを家に入れられなかった。
大学に行かなかったのも、万が一、友達や彼女ができても、眠っている間に殺すかもしれない
自分が怖かったからだ。
アユは、毎日、毎日、手紙をくれた。
アユはたくさんのことを教えてくれた。
「ちゃんとご飯を食べること」
「ぶきっちょでも自分で髪を切ること」
「なるべく窓辺で太陽の光を浴びること」
「室内でもなるべく運動すること」
「思考を停止させないこと」
「お父さんの無罪を信じること」
「ゴミは定期的にちゃんと出すこと」
「ニュースを見ること」
「なるべく明るい内容の本を読むこと」
「なんだっていいから、学び続けること」
それから、人を信じること。
アユが言ってたことは全部正しい。
布団の中で、恐怖に怯えて、泣いて暮らす日々に、希望なんてなかった。
インターホンごしに響くアユの声。
「私を信じて!」
「私は信じてる!」
親父から鍵を預かっているのに、一度も鍵を使って入ってこなかったアユ。
アユは俺を待っててくれた。
だから、俺は、親父に無罪判決が出たら、そのときは自分も無罪だ。
外に出よう。
そこから、新しい俺を始めよう。
そう決めて、この4年間を生きてきた。
てのなかのアユのメモに、こう書かれている。
「私が今、担任している子たちが、
あなたにも何かいやがらせをしてくるかもしれない。
でも、そんなのに、どうか負けないで。
私が必ず、何とかするから、どうかヤケにならないで!」
窓から投げ捨てた俺のスマホは、きっとアユの役に立つ。
その日、アユの教え子たちに、家に火をつけられた。
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