第8話 アユ―2017年7月10日

マブタについた


「田中」


を消すのは一苦労だった。


オイルクレンジングですぐ落ちると思ったのに、

それは滲むだけでなかなか取れず、

うっすらと赤みを残して広がった。


仕方なくアユは、マブタに濃いめのピンクのアイシャドウを入れてごまかした。


40代の独身で、教務主任の綾高幸代(あやたかゆきよ)に

「中田先生、メイク、派手すぎない?」

と嫌味を言われそうだが、仕方なかった。


アユの職場は、私立星丘(しりつほしがおか)工業高校。名前の通り工業高校だ。

通称、星工(ほしこう)。

偏差値は40ということになっているが、

実際は計測不能、教師としての体感偏差値でいうと25くらいだ。


売りといえば、意外に野球が強い。

ついこないだまで、地区大会がどうとか、学校内はかなり盛り上がっていた。

工業高校で野球が強いのは珍しいことらしい。


アユが担任する3年B組にも、甲木健一(こうきけんいち)という野球部部員がいる。

坊主頭で出っ歯、作りかけの福笑いみたいな緊張感のない顔をしているけれど、

全身から汗と土とグラブの匂いがするところが、好ましいなとアユは思う。


昨日も職員室の廊下ですれ違った時、甲木は、

じっと自分の後姿を見つめて、


「先生―!地区大会で終わった俺の青春は、どこにブツけたらいーんすかね」


といきなり言ったものだ。

人に向かって「青春」という言葉を臆面もなく言えるところが、甲木のすごいところだ。


「そりゃあ、やっぱり受験勉強でしょ?」

とアユが答えると


「受験勉強か、そうかなあ」


と頭を掻いた。


全然、納得していないという顔で。



甲木が近くにくると、反射的にアユは鈴木琢磨を思い出す。


4年前に卒業した鈴木琢磨も、野球部だったせいか、同じ匂いがした。

肉厚な琢磨のカラダは178㎝という身長よりずっと高く見えて、

教室でも強い存在感を放っていた。

無口で、不器用で、「真剣」という気迫を目にいつもたたえている生徒だった。





職員室に着くとアユは、真っ先にデスクの引き出しを開けた。

この中には、いつも盗まれる専用のパンティが入れてある。


下着を盗む者は、寄せたり上げたり、胸ツンにしたり、

まるでつけていないようなエア感でカラダを包む

高性能なブラジャーやパンティがどれだけ高価か知らない。

女はその一生で、国産車1台分は下着に費やしていると言ってもいいくらいだ。

そして、これが下着にこだわるアユの場合は、外車1台分になる勢いだ。


しかし星工に赴任してからというもの、あまりに度々下着が盗まれることに困り果てて、

自分では絶対に履かない、安物の下着をワナというかエサとして

引き出しに入れておくことにした。



下着泥棒たちは、定期的に盗むことで安心するのか、

それ以上はエスカレートすることもなかった。


その引き出しの探り方、犯行手口、犯行時刻から

犯人が複数いることは、わかっていたが、

ローテーションでも決めているのか、

取り合いになる、ということもないのだった。


その日、アユが開けた引き出しには、下着は入ってなかった。



当然だ。

昨日、プールの時間にロッカーに入れておいた、ちゃんとした高い下着を

盗まれて、仕方なくデスクの引き出しの安物の下着の方をはいて帰ったからだ。



アユは、紙袋入りのОバックのパンティを、新しく引き出しに補充した。

引き出しの中を確かめてみた。

昨日、自分で出した下着以外に、何か消えた物、変わったところはないかと。


そこには文房具に混じって、アユのハンコが入っている。


「中田」


何の変哲もない、苗字だ。


ハンコはシャチハタと木製の安物と、小さな訂正印、それから横書きのハンコ。


「中田」


アユは、横書きの中田を取り出して、メモ用紙に押した。


そのとき、ふと気づいた。


中田は反転させると、田中になる。

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