第2話 アユ―2017年7月9日

―2017年7月9日

アユはお風呂で、カラダを洗っていた。


お気に入りのハーブのボディソープを手のひらでたっぷり泡だてて、

首すじから、ゲレンデをならすみたいに滑らす。

スポンジは使わないで、全身に手を滑らせて、

白くまみたいにモコモコにするのが、アユのカラダの洗い方だ。

豊満な胸を後回しにして、肩に、泡を塗りつけようとしたその時、

小さな赤いものが目に入った。


「田中」


肩には、丸くふち取られたその文字が、

ついていた。



なにこれっ。


恐怖にアユは、きゅっと膝を閉じた。

指先についているクリーム状の泡をはじいて、

右肩の


「田中」


にそっと触れた。


それは、ぶよぶよと丸と文字の輪郭をにじませ、

あっけなく歪んだ。


アユは気づいた。


ハンコだ。

書体も、インクの具合も、なんの変哲もない田中。

きっとシャチハタだ。

大量生産品の「田中」


どうして、「田中」なの。


気持ち悪い。



アユは、力を込めて


「田中」


をこすった。

白い泡に、ほんのり赤が混じる。




一日中、ブラウスに包まれているはずの

アユの肩についた赤い泡


それは


「田中」


という水子のようだった。




シャワーをかけると、


「田中」


の溶けた泡は、あっけなく排水口に流れていった。アユはびしゃびしゃのカラダで、

浴室を飛び出した。


脱衣カゴから、今日、1日、着ていたブラウスを引っ張りだす。



きっとブラウス越しに、肩にハンコを押されたんだわ。

だって、今日、外でブラウスなんて脱いでない。



けれど、ブラウスの肩には、


「田中」


はいなかった。


脱衣所にある湿気取り用の小さな窓ガラスに、

さっきまで「田中」がついていたアユの肩が映っている。


とにかく、落ち着こう


アユは浴室に戻って、再び、ボディソープを泡だてて、

手のひらでカラダを洗いはじめた。



その時、アユは

お風呂に入る時、脱衣所で脱いで

ブラウスにくるんで脱衣カゴに入れたはずの

白い紐パンが、

なくなっているのに気がついた。


泡まみれの体が、雪に包まれて冷えていくような感覚に包まれる。



恐怖の中、白い、うっすらと脂肪ののったつややかな自分の足を見る。



そこには「シカオ」がいた。


右の内ももに横向きに刻まれた「シカオ」の文字。

彼はもう10年、ここにいる。


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