episode11:パパのピアノを聞くまでは
水面に揺蕩う自分の姿を見ながら、パパが淹れてくれた温かな紅茶にそっと口をつける。
「……美味しいです」
仄かにキャラメルの風味を感じる甘い味が私の口の中を満たし、心と体がほかほかになるのを感じながら一息ついた。
肌寒い空気に混じる甘く白い湯気と共に香りが部屋中を満たし、温かな日差しと共に朝ご飯を食べ終える。
「いってらっしゃいですっ!」
パパと出会ってから数日が経った。
少しずつこの生活にも慣れてきた今日この頃、こうした当たり前の日常を送れるという幸せを噛みしめながら玄関の前でお見送りをする。
私の楽しみのひとつで、パパに満面の笑みで全力で手を振る。
すると、パパはいつも照れ臭そうに朱色に頬を染めながら片手で「うん、行ってきます」と、手を小さく振り返しながらお仕事に出かけて行く。
「ふふっ、照れ臭そうに手を振るパパ可愛いなー」
いきなり来た私に対して、家族としての距離感をパパなりに必死に理解しようとしてくれているんだと思う。
不器用ながらも優しくあろうとするパパはやっぱり凄いと思った。
普通ならいきなり今日から「あなたの娘になります」と言ってきた十歳の子供を家族として受け入れろと言われるほうが無理がある。
(……原因である私本人が言えた立場じゃないですけど)
頬を掻きながら一人苦笑いしつつ、掃除道具を取って準備することにした。
「よしっ、まずはお部屋のお掃除からですね。頑張りますよーっ!!」
握りコブシを両手で作って、まずは雑巾で床を拭くところから始めます。
前にいた施設では色々としーちゃんに教わってきましたから一人でお掃除も簡単にできます。
(私にかかれば、このくらいおちゃのこさいさいなのです!)
「パパの~っ、喜んだ~、お顔が~、見ったいなー♪」
私は自分で作った「パパに喜んでほしい歌」で、台所やお風呂場の隅々まで綺麗に掃除したあと、最後の一部屋のドアを開ける。
(あとはパパの部屋ですね……)
パパの部屋を見渡すと、胸のあたりが少しだけキュッと苦しくなった。
「……悲しいお部屋です」
パパの部屋に入ったときに感じた色は透明。
そこには温もりとか生活に必要な音もなにもなく、ただ物があるだけの悲しくて寂しい部屋。
入る度に自分が孤独でいることが実感できてしまう。
まるで、世界に一人残されたようなそんな印象を受けるのだ。
「これをパパは何度も感じられて生きてきたのですね……」
隅にある小さなベットと机。
本棚に保管されている大量の楽譜。
埃が少しだけ被った大きなピアノと椅子が一台だけ。
殺風景な部屋に孤独を感じるのは何故だろう。
まるで、自分を戒めるように配置されたような風景の部屋だった。
その光景になんだか涙が溢れ出しそうになる。
「……っ、いけませんね」
涙を堪えながら自分に言い聞かせて、首を横に振りながら掃除を再び始めます。
すると、一枚の円盤ディスクが棚から落ちてきました。
「……っとと、これはなんでしょうか?」
(これは……DVDディスクってやつですよね?)
しーちゃんもよく見ていた物なので覚えていますが、どうして楽譜の中から出てきたのでしょうか?
首を傾げながら表の面を見ると、そこには文字が刻んであり「早見優人の演奏映像」と書いてあったのだった。
早見優人って、パパの名前ですよね。
昔、演奏していた頃の映像かな?
「どんな演奏をするんだろう……。見てもいいですよね……?」
誰に問いかけたのか自分でもわからなくなっていましたが、私は自然とパパの演奏を聞いてみたいという好奇心が抑えきれなくて、ディスクを片手にそのままリビングに走った。
「このボタンを……っと、開きましたっ!」
DVDを入れて、再生ボタンを押すと映像が流れる。
「なんだか緊張しますね……」
高鳴る心臓に、少しだけ呼吸が乱れる。
自分が演奏するわけでもないのに、なんだかドキドキしてきました……。
――――そして、映像が流れ始めました。
私はリモコンを手に取り、音量を大きくします。
「――――CRSランク:騎士。ナンバーⅣの早見優人さん、お願いします」
盛大な拍手に迎えられながら、パパの演奏が始まろうとしていた。
舞台袖から出てきたのは、今の優しいパパからは想像できないくらいの無表情で歩く姿だった。
「パパ……。なんで、こんなに無表情なのでしょうか」
この頃のパパはどんな感情で演奏したんでしょうか?
私もピアノは大好きで、しーちゃんの演奏を見よう見まねで演奏してきたけれど、腕はなかなかのものらしく、お墨付きで「同世代でも、下手すればプロでも君に才能で勝てる人は、なかなかいないだろうね」と、私の頭を撫でながら笑っていた。
女王Ⅰである、しーちゃんが言うんです。
私もそれから腕を磨いてきました。
そして、誰にも負けない自信がこの時まではありました。
それが、とても甘く傲慢な考えとは知らずに……。
――――パパのピアノを聞くまでは。
「――――っ!?」
派手で激しい曲調が目立つ原曲で難易度が高く、多くのピアニストはこの曲に何日も費やすと言われている難曲中の難曲。
「メフィスト・ワルツ第1番『村の居酒屋での踊り』!! でも、これは……っ!?」
音を殺す音……。
そう、表現した方がいいのでしょうか?
誰にも負けない自信?
いやいや……。
私はなんて思い違いしていたんでしょうか。
映像越しでわかるパパの表情。
洗練された指の動き。
一人一人の観客の心を掴む、緻密に計算されたアレンジ力。
――――リスト:メフィストワルツ。
フランツ・リストが作曲したピアノ曲及び管弦楽曲で、今パパが弾いている第1番が特に有名な曲だ。
ピアノ曲としても管弦楽曲としても頻繁に演奏されている曲で、私もこの曲は弾けるけど、アレンジ力のレベルが圧倒的に違いすぎる……っ。
CRSでは、感動を採点基準としているからか。
多少のアレンジを認めているけれど、パパのアレンジは……っ。
「原曲をそれを遥かに超えてます……」
見ている観客や審査員から出す音を一切許さないかのように、一つ一つの音がナイフのように胸に突き刺さる。
映像越しで見ている私ですら手が震える。
一音一音に全くの無駄がなく、目が離せないのだ。
「凄い、凄すぎる……っ」
約十一分の演奏。
まるで、深く心をナイフで刺されているかのように、私の体は硬直していた。
「――――……はぁ、はぁ」
演奏している映像がいつの間にか終わり、パパは無表情でピアノ椅子から立ち上がると同時にお辞儀をしたところで、私の体が動くことを許される。
いつの間にか、額から頬に伝って物凄い量の汗が流れていた。
奥歯を食いしばり、もう一度再生ボタンを押す。
「……っ、もう一度っ!!」
私は何度もパパの演奏している映像を再生して聞き続けた。
何度も、何度も、何度も……っ。
自分が自分ではなくなるくらい、聞き続けたんだ。
――――……そして。
「な、んで……っ」
いざその演奏を真似しようと、どれだけ私なりにアレンジを加えて弾いても、原曲通りに弾いても全く納得ができなかった。
私の体が、心が、私の存在そのものが私自身の音を否定するみたいに。
音を音として、一音たりとも納得をさせてはくれなかった。
「悔しいな……もうっ」
それだけパパの演奏に魅入られ、感動したと同時に、その圧倒的な力と音の前に私はひれ伏したのだ。思わず下唇を噛む。
「どうやったらあんな演奏ができるんでしょうか?」
自分の出すピアノの音が嫌いになりそうになった。
なんて下手なんだろう。
今まで私は何をしていたんだろうと、過去の自分を本気で呪った。
でもどんなに苦しくても、やるしかないのだ。
もう一度鍵盤に触れ、自分の心を正す。
「弾くしかないですっ!!」
もう一度ピアノに触れる。
自分の納得するまで、弾き続けるんだっ!!
私は時間を忘れ、何度もアレンジやイメージを加えながら……。
その身が限界を超えるまでずっと弾き続けた。
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