episode6:白雪の奏でる音を聞かせてやりたくはないか?
ドアを挟んで自室から聞こえてきたのは、寂寥感を感じさせる真っ白な音の世界に雪が海にそっと優しく降っているような幻想的で透明感のある綺麗な音。
思わず息を呑む。久しく感じていなかった期待感にも似たこの感情を素直に言葉にできる程、心が……。
溢れ出す感情が、自身で抑えきれないのを感じた。
僕はその雪の音に迷い込み、誘われ……。
その世界が広がる扉をゆっくり開いた。
「おいおい、冗談だろ?」
開けた扉の向こうではピアノ椅子に白雪が座っており、先ほどまでの子供らしい一面とは打って変わり、隙間風に靡く銀色の髪は美しく、気高くて、でもどこか儚げで、一瞬にして――早見優人という一人の観客の心を支配してみせた。
(しかも、この曲は……水の戯れか?)
フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルがパリの音楽院在学中に作曲したピアノ曲で知られる「水の戯れ」。
きわめて優しく、水と戯れるように奏でられるこの曲は、高難易度の曲で決して簡単に弾ける曲ではない。仮に弾けたとしても、ここまでの音で弾ける人間を、僕は今まで見たことがない。
白雪の指が動くたび、跳ねる、跳ねる、飛ぶ。
時には優しく水を撫でるように奏でているその姿はまるで、楽しく水と戯れる天使のようで、僕は奏でている白雪に自然と目を奪われ、息をすることさえ忘れてしまっていた。
「……くくっ、早見少年も驚いたみたいだね」
白雪の演奏姿を真剣な表情で見ながら、僕の肩にそっと手を置く。
大きくて細長い指、まさにピアニストらしい手だった。
「あなたが教えたんですか?」
「いいや、私は一切教えていないよ。私が教えたのは、鍵盤を押せば音が鳴る。それだけさ」
「それが本当なら、それって……」
「……ああ。白雪は一度聞いた曲は自分のものにしてしまうんだ。そんな彼女を人は天才として呼ぶんだろうけど、一つだけ面白い問題点があってね」
「問題ですか?」
「もうすぐだ、見ておきたまえ」
狂姫がそう言った瞬間……。
――――音が思いっ切り変化した。
先程までの神がかった演奏とは違い、ムッとした表情を見せたかと思えば、急に先ほどまでの楽し気な曲調から、
「ここで
曲調が……いや、原曲自体が思いっきり変わってきてるのか?
これって……っ、オリジナルのアレンジか?
(しかし、これはまた……)
「面白い表現をする子……ですね」
思わず、ズッコケそうだった。
「くくっ、面白い表現って……。君は評論家には向いてなさそうだ」
「ほっとけ」
(とはいえ、これはまた……なんというか)
先ほどまでプロ顔負けの演奏で全く楽譜の通りだったのに、今度は自分のアレンジを入れ、曲自体を変え始めたのだ。
譜面通りかと思えば、曲調は
彼女なりの感性を生かした我儘な音にどんどん変化する。
水の戯れというよりかは、森に流れる綺麗な川で犬、猫、兎、鳥たちが戯れるように遊んでいる様子が曲調から浮かんでくる。
穏やかな音色ではなく、コミカルで今にもスキップしそうな音色。
あえて言葉にするなら、これは……。
「……動物の戯れ、か?」
「あははっ、言えてるな」
「ふんふんふーん~~、よしっ! 今度はこんな感じでーっ、はいっ!」
白雪は納得がいったのか、どんどんアレンジしては楽しく弾き始める。これはどういうことか説明してくれと無言で視線を送ると「やれやれ……」と、説明を始める。
「白雪はあの通り、気に入った音しか奏でないんだよ。これがどういうことなのかわかるだろ?」
「……楽譜通りに弾かず作曲家に喧嘩を売り、ましてや自分で曲をアレンジして演奏するだなんてコンクールでは致命的だ」
コンクールで求められているのは、正確性。
楽譜通りに弾かないなんてのは、論外中の論外だ。
減点対象であると同時に、賞が遠のく……いや。
審査員次第では、下手したら退場なんてのもあり得る話だ。
でも、それはあくまでもコンクールではの話。
CRSに限っては、その対象には含まれない。
CRSの評価は観客と審査員にどれだけ心に響いたか。
(白雪自身が本格的なプロのピアニストを目指すのであれば、話は別だが……)
だが、もしも……。
この子と共に過ごす未来があったとして……。
白雪がCRSの世界で、あの捻くれた観客共に向かって全力で演奏してみろ。
間違いなく、この子は輝くだろう。
「っ」
まずい……っ。
なんだろう、このもどかしくて苦しい気持ちは。
勿体ないというか……。
もっとこう、白雪の演奏を……。
(こんな狭い部屋で奏でる人生で終えるのは、あまりに惜しいじゃないか)
いつの間にか、そんなことを考えてしまっている自分がいた。
「ふふっ、少年も同じことを思ったみたいだな」
「え?」
「……なぁ、早見少年」
「――白雪の奏でる音を聞かせてやりたくはないか?」
ストンッ――っと。
このわからない気持ちの正体を知ることができたせいか、心臓の音が大きく鳴り響いているのがわかった。
(なんだ、この気持ちは……)
自分の知らない感情に戸惑いを隠せない。
「初めての感情で戸惑っているみたいだね。あの
「……」
「さてと……。ちょうど白雪の演奏も終わったみたいだよ」
そう言って、この話は終わりだと話を打ち切る。
「あっ、しーちゃんにパパ! お話は終わりましたか?」
演奏に夢中になっていた白雪は、どうやら僕たちがいたことに今気づいたようで、嬉しそうにトコトコ走ってくる。
「白雪、また演奏が上手くなっていたね」
「本当ですか!? しーちゃんに褒められると自信になりますっ! パパは私の演奏を聞いてみてどうでしたか?」
「そうだな……」
戸惑いを隠せない僕の表情を見て、右腕にしがみついて「ドキドキですっ!」と、期待に胸を膨らませながら目を輝かせているのを見ると、陳腐な褒め言葉しか見つからなかった。
「凄くいい演奏だった。久しぶりに僕も胸が躍ったよ」
「えへへっ、ありがとうございますっ!」
僕の下手くそな賛辞にも嬉しそうに満面の笑みをみせた姿を見て不覚にもドキッとしてしまう。
そんな様子を見ながら不敵に笑みを浮かべる東雲静は、とんでもないことをお願いしてきたんだ。
「さて、元
「お願い?」
「ああ、それはね」
「――白雪の師匠として、ピアノを教えてやってほしいんだ」
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