もうすぐ冬が始まる

夏空蝉丸

第1話

 家の前にガードレールができた。

 毎朝、小学生が通っていくその道は、自由を制限するようで邪魔くさい。そもそもこんなもの作らずにすめばいいのに。


 ★★★


 しし座流星群は11月中旬に極大を迎える流星群だ。

 極大時には1時間屋外で寝転んで星を眺めているだけで、いくつもの流れ星を見ることができる。寒さを耐えしのげる冬着さえあれば、何時間でも楽しめる無料にしては美味しいイベントだ。


 節約家であった母にそんな狙いがあったのか、単純に星が好きだったからなのかはわからない。もしかしたら、母の友達に誘われただけなのかもしれない。小学生四年生の時、流星の大出現が見られるという話を聞きつけて、私と母、そして母の友達親子と一緒に近くの公園に観測に行くことになった。


 ゲームを持って行って暖かい飲み物を用意していたとはいえ、小学四年生は子供だ。深夜まで流れ星が出現しないとあっては飽きが来てしまう。久しぶりに時間無制限でゲームができるとしても、冬の寒さには辟易してしまう。ましてや眩しいからゲームを終わりにして、と言われてはすぐにでも帰りたいとの気持ちしか抱くことができない。


「一番明るい星って知ってる?」


 隣で寝転んでいた彼が呟くように言った。

 今まで彼と話したことなど無かった。同学年だったが接点が無かった。母親同士は仲良しで頻繁に昼間に食事を楽しんでいたにも拘らず、不思議と一緒になる機会はなかった。確かに、運動会などで場所取りの関係上、隣になることはあった。ただそれだけのことだ。男女という関係に親たちが配慮したのか、単に夜や休日に一緒に出かける機会が無かっただけのことなのか、今となってはわからないし、考えるだけ無意味なことだ。


 彼が積極的な人間だったら少しは仲良くなれていたかもしれない。一緒に遊ぶことは無いにしても挨拶くらいはしていても不思議ではない。私が引っ込み思案なタイプであること以上に彼は無口だった。同じ班で登校していたけれども会話することなど無かった。上級生が全員集合しているのを確認して、カルガモの親子のように列をなして学校に進んでいくだけ。意思疎通を計る必要はない。


 だから、隣で横になっている彼が彼の母親とそこそこ多くの会話をしているのが不思議でしかなかった。もしかしたら、言葉を上手く話せないのでは? と疑っていたくらいなのだ。


「あそこに見える……」

「知ってる。シリウスでしょ。おおいぬ座ね。下に見えるのがプロキオンで、あっちがベテルギウス。冬の大三角形。って知ってた?」


 言い返しすぎたかもしれない。無意識のうちに早口になってしまった自分を少しばかり反省する。彼なんかを言い負かしたところで何の利益もない。むしろ、母に窘められてしまうかもしれない。口を噤んで聞き耳を立てた。母親たちがPTA役員の文句で盛り上がっているのを確認してほっと安堵の溜息を心の中で吐く。


「オリオン座が追っかけているのは牛なんだよね。橙色に見える明るいのがアルデバラン。おおいぬ座とこいぬ座を従えて狩りをしてるんだ。さそり座に殺されちゃうんだけどさ」

「あ、その話、知ってる。サソリは夏に出てくるんでしょ。で、オリオンは怖くなって隠れちゃう」

「オリオンは勇者なんだけど、そんな強い人でも足元には気を付けた方が良いってのが、ギリシャ神話の教訓なのかもな」


 今まで、彼のことは鈍くさいやつと思っていた。コロコロとした小太りでメガネをかけている。愛嬌がある顔、と言えなくもなかったが、イケメンとは全く異なっている人種だ。登校時もノソノソとついてくるだけでスポーツが得意な同級生から見下されているようなイメージだった。


「オリオンになりたいの?」

「いや、どちらかと言えばプロメテウスかな」

「何それ」


 彼の返答を待たずに星は流れ出した。それまでは、思い出したころに出現していた流星たちが頻繁に飛び交い始めた。天空を駆け巡る星々は、人工衛星のように緩慢に斜線を引くわけではなく、魂のように輝いては消滅する。ビニールシートの上に横になった私は美しい天文ショーを楽しむ。つまらない願い事を唱えることなど忘れて、ただ、ただ、呆然と人間の小ささと宇宙のスケールの大きさをまざまざと見せられていく。


 ★★★


 そんなことがあったが、それ以降、彼と話す機会など訪れなかった。故意に避けていたわけではない。登校班が同じと言うだけでクラスが違えば当然のことだ。仲がいいわけでもない。趣味が同じわけでもない。ましてや男女の違いがある。親が友達である以上の繋がりが無い私たちが会話をする方がよっぽど変だ。


 中学生になれば、余計に疎遠になる。母親経由で情報が入ってくるものの--そして、それが大抵は彼の成績がかなり良いという非常に迷惑な類のもの--全く興味など持てなかった。部活も関係なかった。私が入っていたのは文芸部で実質的な帰宅部と化していた。他の部員よりは真っ当な活動をしていたという自負はあるものの、特に強い目的があったわけでもなく、具体的な行動は伴っていなかった。それでも歩きスマホならぬ歩き読書を楽しむほどの本好きで始終、図書館から借りてきて本を読んでいた。


「危ないぞ」


 帰宅時に突如、制服の襟を引っ張られた。制服で首を絞められたかのように呼吸が止まる。倒れそうになるのを左足を軸に堪えながら体を反転させ読んでいた本で犯人を殴りつける。と、同時に背後で鈍い衝突音が聞こえた。


 振り返ると、軽トラが民家の塀に突っ込んでいた。中に乗車している運転手はハンドルを握ったまま放心している。


「京極本だったら俺が死んでたぜ?」

「ごめん。穂信先生」

「謝る対象が誤ってないか?」

「ごめん。小鳩君」

「違うし。まあ、いいけどさ」


 鈍重そうな彼が背後にいるなんて気づいてなかった。本を読みながらでも周囲には気を付けているつもりでいた。感覚が研ぎ澄まされていると思い込んでいた。けど、それは間違いなく幻想であることを知らしめられた。


「制服引っ張られなくても牽かれなかったって」

「そうだったかもな」

「でも、ありがとう」


 多分、あのまま歩いていても自動車に撥ねられることはなかっただろう。それでも、可能性はあったし、塀が破損した際に飛び散った破片で怪我をしていたかもしれない。疑うべくもなく私は彼に助けられていた。


「この道の構造が悪いんだ。信号があるにもかかわらずクランク状で変則的な形になっているから、見落としてそのまま突っ込んでくる車が絶えないんだよ。せめてガードレールだけでもしっかりとしたものを作らないと」

「道幅が狭くなるって文句が出たらしいんだよね」

「怪我人が出てからじゃ遅いんだけどな。って無いものをねだっても仕方ないか。とりあえず気をつけろよ」

「そっちもね」


 ★★★


 元々、都市計画に入っていたのか、私たちの署名活動の効果があったのか、単なる時間による変遷なのか、移転に最後まで反対していた住人の世代交代による影響なのか、細かい事情は議員でも役人でもない私にはわからない。

 唯一言えることは、変な交差点はなくなり、道幅が拡張されてガードレールで通学路が守られるようになったってことだ。勿論、危険が全くないという訳ではない。無茶をして突っ込んでくる車両があれば、人間なんて一瞬のうちにぺしゃんこになってしまう。どんなに慎重で周囲に気を付けている人間だって、暴走した車両が狙い澄ましたかのように突撃してくれば避けようがない。せいぜい、周囲の人間を突き飛ばして犠牲者を少なくすることくらいしかできないのだ。


 それでも、十分に安全になったと言える。交通量は以前より増えたのに、完全に分離された影響だろうか、体を翳める様に追い抜いて行った暴走車はいなくなった。ドライバーの交通マナーが向上したというより、歩車道の分離の効果だ。これで、自動運転が標準になれば、昔のようにこの道で命を落とす人などいなくなるだろう。


 ガードレールに特別な許可を受けて設置されている花瓶にローズマリーを挿す。淡いブルーの花々が、肌寒い冬が間近の揺蕩う午後の日差しを吸収していく。


 確か、今日はしし座流星群が出現する日だ。小学生の頃に見たほどの無数の流れ星を見ることは不可能だろう。そもそも、晴れているとは限らない。夜半に雨が降り出すかもしれないし、それほどではなくとも雲で全天が覆われているかもしれない。


 空を見上げると地球儀に塗られたようなコバルトブルーが広がっていた。純白の千切れ雲が陽光で輝いている。きっと今夜は晴れているだろう。満点の星空をいくつもの流れ星が横切っていくのだ。大きく息を吸い込むと冷え込んだ空気が肺の中に流れ込んでくる。呼吸を止めて瞼を閉じる。数台の車両が通り過ぎていく音を聞き流す。


 もうすぐ冬が始まる。冷たく寒く厳しい冬になるかもしれない。苦しいことがあるかもしれない。だが、それは永遠に続くわけではない。少しずつ変化していくのだ。小さな前進かもしれない。それでも良くなっていくんだ。溜め込んでいた息を吐き出して歩き出す。新しい道を進みだす。


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