第25話 ネモ

 その男は、ネモと呼ばれている。

 どこから来たのか、何者なのかわからない。

 本人は一切しゃべろうとはしなかった。単にしゃべらないというだけではない。彼が声を発するのを聞いた者は一人もいない。

 まったく謎の人物だった。


 それは、麻衣が仕事で中国へいったときだった。表向きは仕事となっていたが、本当の目的は完全な私事だ。

 麻衣は、ある財団の理事の一人に名前を連ねている。その他にも、いくつかの団体で役職についている。重要視されるのは彼女の姓であり、その影響力だった。

 麻衣は、好むと好まざるとに関わらず、幼いころからそういう立場にあることを承知している。それ以外の生き方を選択する余地があるはずもなかった。


 中国の内陸部へ入ってから数日後、その一帯でかなりの規模の地震が起きた。数万人が被災する大災害だった。

 街では古い建築物が壊滅した。

 麻衣は、その一部始終を間近に見ていた。

 崩れた街並みの中から現れたのが、ネモだった。

 その風貌は異様だった。ボロを着た世捨て人のようだが、異様なのはそういうことではない。黒いのだ。纏っている雰囲気が、黒い。明らかに、何かがおかしい。

 常に麻衣をガードしている屈強な男たちも、思わず怯んで足が止まったほどだった。

 麻衣は怯まなかった。そのような心の動きは持ち合わせていなかったからだ。


 男は、麻衣が追っていた「彼女」と関係がある、と麻衣は直観的に理解した。即座に、男を保護するようボディガードたちに指示した。

 男はただ立ち尽くして麻衣を見ていた。囲まれても特に抵抗することはなかった。

 そして男は、誰にも知られることなく、日本へやってきた。

 誰がネモという名前をつけたのか、はっきりしない。いつの間にか男はネモだった。


 ネモは一言も発さない。言葉で意思の疎通はできなかった。

 しかし、麻衣は話しかけたことを彼が理解していると感じている。そして、男が望んでいることもわかるような気がした。

 実際、麻衣がとる行動は、ネモの望み通りになっているようだったから、不自由ながらも意思の疎通はできていた。


 そのネモは、日本にきてから迷っているようだと麻衣は感じていた。

 おそらく探しているものが見つからないのだ。ときどき、はっきりした行動をとることもあるのだが、しばらくするとまた曖昧になってしまう。

 見つかっても、見失ってしまうらしかった。

 膠着状態にある。

 そろそろ何か次の手を打たなければ、と麻衣は考えている。

 

 ネモは鍵になる。必ず。

 彼を使って、彼女を手に入れる。

 それが麻衣の望みだ。

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