第8話 夢の中の人

 家に帰った。電気をつけて、階段を上り、部屋までたどりついて、そのままベッドに入った。

 記憶はそこまでしかない。


 夢を見た。

 というより、これは小さいころの記憶がよみがえったんだ。

 小学校に入るより前のことだ。僕は家の前で、直登を待っていた。その日は直登が泊まりにくることになっていた。

 最初は家の中にいたのだが、待ちきれなくなり、玄関にきて、ドアを少し開けてみたりしていた。そのうちドアの外に出てみた。しばらくはドアを背にしてしゃがんでいた。道路には、一人で出てはいけないと言われていた

 だけど、子供の足でもほんの二、三歩なのだ。 

 道路に出れば、すぐそこに直登の住むアパートが見える。抗いがたい誘惑に、僕はあっさり負けた。

 ブロック塀にもたれるようにしゃんがんでいると、ふいに視界に影が落ちた。西日の差す方向へ顔を向けると、女の人が立っていた。

 淡い色のワンピースを着た彼女は、僕をみてふんわりと笑った。長い髪がゆらっと揺れた。真っ白な肌をした、きれいな人だ。

「こんにちは。クウちゃん?」

 と、その人は確かにそう言った。

 僕は頭がぼうっとなった。

 思ったのだ。

 もしかして、お母さんかもしれない、と。

 そんな訳は、絶対に、ないのに。

 何も言えずに、僕は立ち上がった。

 そのとき、家のドアが開いた。僕は息をのんだ。怒られてしまう。出てきたのは、キクエさんではなく、じいちゃんだ。

 いつもむっつりと怖い顔をしているじいちゃんだけど、このときの恐ろしさはいつも以上だった。

 じいちゃんは、彼女を睨みつけた。

「帰れ」

 陰になった彼女の顔の、悲しそうな。

 僕は今まで忘れていた。



 目を開けると、窓の外は明るかった。

 時計を見ると九時をすぎていた。驚いて飛び起きる。

 あれ、今日は学校に行かなくてもいい? 

 そうだ。

 いいに決まってる。

 たぶん……

 僕はまた寝転がった。天井が見えていたけれど、見ていたのはあの夢だ。

 どうして忘れていたんだろう。

 今ははっきりと思い出せる。

 それから僕は家に駆け戻り、開いたままにしたドアから様子をうかがった。じいちゃんは問答無用に彼女を追い返した。彼女は何か言っていたけれど、その内容までは聞きとれなかった。

 彼女が何者だったのか、恐ろしくてきけないままだった。それほどじいちゃんは不機嫌だった。

 どうして思い出したんだろう。

 大事な思い出の記憶だ。母親は死んだとわかっている。それでも、あの人がお母さんだったらいいな、と僕は思ったのだ。

 ああ、そうか。

 昨晩の、病院のベンチにいた人だ。髪の長い女の人だった。そういえば雰囲気が似ていたような気もする。

 だからか。

 謎が解けたようで、頭がすっきりした。


 家の中は静かだった。

 部屋を出て、階段を下りた。

 静かだった。

「キクエさん?」

 そっと呼んでみる。

 返事はない。


 台所にも居間にも、誰の姿もなかった。

 この家には、僕のほかに誰いない。

 僕は、居間のソファに腰かけた。

 朝食どころか、台所はまったく使った形跡がなかった。キクエさんはどうしたんだろう?

 これまでに、こんなことは一度としてなかった。


 どうしよう。



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