第2話 なにもかもがズレていく

 冬休みまであと少し。

 定期テストの最終日、そして金曜日。教室の雰囲気は、どことなく浮足立っていた。高校一年生は気楽なものだ。具体的な進路について、どこか他人事でいられるから。

 と、ぼんやりしているうちに、ホームルールは終わった。

「やった! これで自由だ!」と叫んだのは直登だ。周囲では笑い声がおこる。

 直登はさっさと鞄を持って立ち上がった。

「よし、クウ、帰ろうぜ」

「あ、うん、ちょっと待って」

 僕は慌てて鞄を開けて、机の中のノートやプリント類を詰め込む。立ち上がったときに、教室を出ていったはずの先生が廊下から顔だけをのぞかせた。

「川原、ちょっと!」と、手招きする。

「うええー」と、直登は大げさに顔をしかめながらも、近寄っていく。

 先生と二言、三言しゃべってから、直登はしかめっ面のまま戻ってきた。

「呼び出しくらった。先、帰ってていいよ」

「なんで呼び出し?」

「さあ。バイトがバレたかな」

 直登のアルバイトは先生も承知していることだ。しかし、年末が近づくにつれて居酒屋は忙しくなっていく。夜の十時過ぎても働いていたら、さすがに駄目だということだろう。

「あーあ、やっべーなあ」

 ぶつぶつ言いながら、直登は教室を出て行ってしまった。

 僕はなんとなくまた腰を下ろした。

 教室からみんながいなくなるのは、あっという間だった。

「ねー、川原、いる?」

 入ってきたのは、吉田香織だった。小学校の頃から同じ学校だから、知り合いではある。だけど、最近の彼女は苦手だ。ずけずけと言いたいことを言われるから。いい気分がしない。小学生のころは、そんなことはなかったのだけど。

 僕が何か言う前に、吉田香織は独り言のように言う。

「なんだ、いないのか」

 僕の方を、ちらっとだけ見る。視線をちゃんと合わせるつもりはないようだ。僕としても、その方がたすかる。

 教室のドアのところに、もうひとり女子がいた。確か、三組の。けっこう可愛いと評判の子だ。

 吉田香織は、彼女のところに戻る。

 「川原、いないよ。残念だったね」

 二人は、僕の方をちらちらと見ながら小声で喋っている。

 クスクスと笑っている。きこえてきたのは一言だけ。

「なんかキモいんだよね……」

 僕はうつむいたまま、動かなかった。二人の方を見ることもなかった。

 中学生の終わりごろに、吉田香織から言われたことがある。どうしていつもいつも直登と一緒にいるのか。ちょっと度を超えているんじゃないか、と。

 そんなことがあったから、余計に彼女は苦手になった。

 きっと、吉田香織だけではなく、周りの人たちはみんなそう思っているような気がする。だけど、僕は友達と仲良くしているだけだ。

 何を言われたって、どうすることもできない。兄弟のように一緒に過ごしてきたんだから、僕にとっても直登にとっても、一緒にいるのは普通のことなのだ。

 二人の女子の気配は消えた。

 僕は鞄を持って立ち上がった。ただ、そこに一人で座っているのが嫌になっただけだ。


「なあクウ、じいちゃんに話してみたか?」

 直登が言った。

「いや、まだなんだけどさ……」

 一緒にアルバイトをしないかと話をもちかけられていた。直登は、高校に入ってすぐバイトを始めていた。駅前の居酒屋で、平日夜の四時間。その店が試しに週末だけランチ営業をすることになったから、昼間ならできないか、と誘ってくれたのだ。

 学校に平日のバイトの時間が守られていないことがバレてしまい、仕事を減らしたくない直登は店長に掛け合って、ランチ営業を試すことになったようだ。大人と交渉して話をうまく進めるなんて、直登らしい。

 だが、僕はじいちゃんに言い出せていなかった。前に一度、アルバイトの話をしたことがあった。そのときに「アルバイトはしなくていい。それより、少しでもいい大学へ行くために勉強しろ」と言われていた。

 そうでなくても、僕が出歩くことをよく思っていない。一度駄目だと言われたことが、覆る可能性は低い。というより、絶対にない。断言できる。じいちゃんは、そういう人なのだ。

「俺からも、頼んでみようか。クウもバイトしたいんだろ」

「小遣いが増えたらいいけど、駄目だって言われるんだよ、きっと……」

 じいちゃんは、怖い。

「そんなの、言ってみなきゃわかんないし。それにな、ちゃんと話して説得するってのが重要なんじゃねえの?」

「うん……そうだけど」

「お前な、わかってる? お前が少しでも稼げれば、絶対に助かるんだぞ。じいちゃん、幾つだよ。いつまでも同じようには働けねえぞ」

「わかってるって。よくわかってる」

「わかってねえじゃん。話してないんだろ?」

 直登は、どこかイライラしていた。いつもより突っかかってくる。

「直登だって知ってるだろ。じいちゃんが一度駄目だって言ったら、それは駄目なんだよ」

「だから。お前がそれを説得しなきゃいけないんだって」

 説得? 僕が、じいちゃんを? そんなの無理に決まってる。

 無理に決まっているのに、直登はどうしてそんなことを言うんだろう。

 僕は言い返す言葉が見つからなくなってしまった。

 直登のイライラは募っていく。

「お前だって、いつまでもガキのままじゃダメだって言ってるんだよ!」

 わかる。

 その通りだ。

 だけど、僕には、無理だ……

 ついに直登も黙ってしまった。最悪だ。

 直登には苛烈なところがある。その性格が、小さい頃からいつも僕を助けてくれた。でもそれが僕に向うことは、これまでに不思議となかった。

 何かが変わってしまったようだ。


 その日の夕方、僕は意を決した。

 じいちゃんは交通警備の仕事をしていて、現場はいろいろでも五時半には帰宅する。すぐに風呂に入り、六時には夕食。それから一時間ほど休んで、八時からの仕事にまた出かけていく。十一時までショッピングセンターの駐車場で見回りの仕事をしているのだ。

 話せるタイミングは、夜の仕事に出かける前だろう。

 時間はまだ五時をすぎたばかりだった。僕はじっとしていられなくて、台所で夕食の支度をしているキクエさんを手伝った。

 キクエさんは料理が上手だ。若い頃に小料理屋で働いていて覚えたのだそうだ。今も、キクエさんは昼間の数時間だけ、知り合いの店を手伝っている。それも、本当は内緒なのだ。

 じいちゃんは、キクエさんが働くのもいい顔をしない。僕の面倒をみる人がいなくなるからだ。僕に不自由なことがないようにということだけは徹底しているのだ。だけど、過保護というのは少し違うような気がする。じいちゃんに甘えるなんて、考えられないし。

 ともかく、じいちゃんがキクエさんの仕事を知らないはずはない。だけど表向きは知らないふりをしている。つまり、うちの家計はそれくらいに厳しいということだ。

 僕がアルバイトをしてはいけないそこまでの理由はないはずだ。

「クウちゃん、これをお皿におねがいね」

 キクエさんから渡されたボールには、ほうれんそうのおひたしが入っていた。いつも使う食器を出して、おひたしを移す。小さいころからキクエさんの料理の手伝いをするのは好きだった。コロッケなどを揚げるときはいつも余分に作って「はい、お味見どうぞ」とできたての熱いやつを渡してくれる。そういうことが嬉しくて、特に用事もないのに台所をうろうろした。

 食事の支度があらかたできたころ、じいちゃんが帰ってきた音がした。

 すでに心臓がバクバクなり始めている。気をつけて、いつもと同じように。なんでもないふうに。

 じいちゃんはほとんど喋らない人だから、普段から会話の多い食卓ではない。たまにキクエさんが場を取り持つように喋るだけだ。

「あの、話があるんだけど」

 居間の隣の四畳半が、じいちゃんの部屋だった。物がほとんどない、寝るためだけにあるようなものだ。仕事のための制服が何着か鴨居に吊るされている。じいちゃんは、そのうちの一着を手に取ったところだった。近所の大型ショッピングモールの駐車場係の制服だ。直登のお母さんも働いている店だ。

 じいちゃんは、何も言わないでじろりとこっちを見た。着替える手は止めない。

「僕、やっぱりアルバイトをしたいと思って。せっかく直登が紹介してくれてるんだし。その……小遣いも多いほうがいいし」

「足りないなら、言え。いくら必要だ」

「いや、足りないとか、そういうことじゃなくて……」

「なら、どういうことだ」

「えっと……」

「アルバイトはしなくていい」

 そう言って、じいちゃんは上着に袖を通すと部屋を出ていく。

「でも、僕はバイトがしたいんだよ。どうして駄目なの?」

 背中に向かって、僕は言った。

「今は勉強のほうが大事だろう」

「だけど、直登がせっかく話をもってきてくれてるのに」

「断れ」

 じいちゃんは、もう靴をはいている。

「もう、この話はするな。終わりだ」

 ドアが閉まった。

 結局、こうだ。わかっていたことだ。

 居間に戻ると、キクエさんが言った。

「高太郎さんは、クウちゃんが立派な人になることだけを望んでいるのよ。それこそ、私たちがいつまでも面倒をみてあげられるわけじゃないから……」

 寂しい言い方だった。

「うん。そうだよね、わかってる」

 今の僕にできることがはっきりわかった。とにかく今は、育ててくれている二人に、僕の将来についての心配をさせないことだ。それしかないんだ。

 僕はそうやって自分を納得させるしかなかった。 

 気持ちが定まったら、次にやらなければいけないことがある。

「直登に断ってくる」

「これから?」

「うん。店にいると思うから。話したら、すぐに帰ってくる」

「わかった。気をつけていってらっしゃい」

 靴をはいていると、キクエさんも玄関にやってくる。

「上着はちゃんと着たわね。もう暗いから自転車の電気はつけるのよ」

 ドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。

「おお寒い。あら手袋は? 帽子もあったほうがいいんじゃない?」

「大丈夫。いってきます」

「だめよ。風邪ひいちゃう。ほら、これ使って」

 キクエさんは、自分が使っているニットの帽子を渡してくれた。

「本当に、気をつけて。スピード出しちゃダメよ」

 過保護っていうのは、キクエさんのようなことを言うんだと思う。口うるさいのかもしれないけれど、とても優しい。キクエさんがいてくれて良かった。

 だけどニットの帽子は、やっぱりちょっと違ったから自転車のカゴに入れた。


 手袋も帽子もマフラーもない。風は冷たい。だけど、心の中はもっと冷たかった。これから直登に話さなければならないことを思ったら。

 自転車をこぐ足が重い。それでも確実に前へ進んだ。

 駅前の繁華街といっても、地方の小さな駅だ。三分も歩けば賑やかな通りは終わってしまう。それでも駅から出てくる人波はそれなりにある。スーパーやコンビニの明るい照明がまぶしい。

 居酒屋のドアを開けると、直登がすぐに気がついて、裏に回れ、と合図をよこした。店内はわりと賑わっている。

 裏路地の、壁と同じ色に塗られたドアを開けた。雑然とした狭い廊下の向こうに、もうひとつドア。ノックしてから開けると小さな事務所だった。反対側のドアから直登も入ってきた。向こうは厨房で、威勢のよい声がしている。それも、ドアが閉まると静かになった。

「わりい、あんまり時間とれないんだよ。なんか忙しくなっちゃって。いつもは暇なんだけどな」

 直登は明るかった。僕が良い返事をしにきたと思っているから。

「ごめん。やっぱり、無理だった」

 僕が言うと、その顔は急に表情をなくした。まるで時間が止まったようだった。人は、時間が止まると感情を失うのか、と僕は全然関係ないことを思った。

「ふーん……わかった」

 直登が言ったのは、それだけだった。

 直登は踵を返す。開いたドアから賑やかな音楽や声が押し寄せる。

「ごめん。せっかく声をかけてもらったのに……」

 ドアは閉まる。

 僕の声は届いたかどうか。


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