さよなら、世界

まりる*まりら

第1話 僕のヒーロー

 クウちゃんは、おとうさんもおかあさんもいなくてかわいそう……


 そう言われたのは、五歳のときだった。

 無邪気な同情をすなおに表現したのは同じ保育園に通っていた女の子だった。もう顔も名前も覚えていない。だけど、そのころ一番のなかよしだった。かわいかった。いつも一緒に遊んでいた。僕はその子のことが好きだった。たぶん。

 僕にとっては両親がいないことが普通だった。だから、そんなことを言われて困惑した。

 どうして、僕はかわいそうなんだろう。


 そのときだった。

「クウはかわいそうなんかじゃねえ!」

 大声で女の子にくってかかったのは、保育園に入ってきて間もない直登だった。

 顔を真っ赤にして、女の子の肩のあたりを突き飛ばした。驚いた顔をして後ろにひっくり返った彼女は、一瞬のあとで悲鳴をあげて泣きだした。

 それでも直登は大声で叫び続けた。

「かわいそうって言うな! 言うな! 言うな!」

 僕も驚いてしまって、ただ呆然とたちすくんでいた。


 なにがなんだかわからなかったけれど、直登が僕のために怒ってくれているのだということはわかった。

 そして、直登が顔を真っ赤にして叫ぶほどに、女の子はそれほどにひどいことを言ったのだということも。

 僕は理解した。

 そうか。

 僕は、かわいそうなんだ。


 その日から、僕はその女の子と遊ぶことはやめた。

 直登が一番の友達になった。


 仲良くなってからわかったことだが、直登はすぐ近くに住んでいた。三軒ほど先の小さなアパートだ。母親と二人きりだった。

 直登の母親は、大きなショッピングセンターに努めていて、深夜まで働くこともあった。

 僕を育ててくれたキクエさんは社交的で誰とでもすぐに打ち解けるような人だったから、直登の母親ともすぐに仲良くなって、そのため直登は、週に何度か、母親が遅くまで仕事のあるときはうちに泊まりにくるようになった。

 直登と僕は、兄弟のように育ったといっていいと思う。

 僕には兄弟がいなかったから、直登の存在は兄のようなものだった。直登には、本当の兄がいたが、父親と一緒に住んでいるから滅多に会えないのだと言っていた。直登は父親と兄のことを自慢に思っていた。ものすごく強くて、でも優しくて、頼りがいがあるのだと。会えないことが辛そうだった。しかし、それ以上に母親のことが大好きだったから、いつも平気な顔をしていて、無理を言ったりすることはなかったようだ。


 小学生になっても、僕たちはいつも一緒だった。

 直登はサッカーが好きになり、時間があればボールを蹴って遊んでいた。僕も当然のようにボールを追いかけた。直登にはどうしてもかなわなかった。でも楽しくてしょうがなかった。

「俺さあ、今度サッカーのクラブに入るんだ。おまえも一緒にやろうぜ。じいちゃんに話してみろよ」

 それは地域でやっている小さなサッカークラブだった。週末に十数人の子供たちが集まってスポーツ広場で練習しているのを見たことがあった。おそろいのユニフォームを着て、コーチから指導を受けている彼らを横目に、僕たちはすみっこでボールを蹴っていたのだ。

「やりたいけど……じいちゃん、許してくれるかなあ」

「俺も一緒に頼んでやるからさ。言ってみろよ」

 直登が背中を押してくれて、僕はおずおずと話してみた。

 僕がサッカーをすることを、じいちゃんはめずらしく反対しなかった。じいちゃんは、僕が外に出かけることをあまり良く思っていなかった。遊園地や動物園や大きな公園や、普通の子供が遊びに行くような場所につれて行ってもらったことはほとんどない。自由に行っていいのは近くの公園くらいだった。だけど、運動することは体に良いと思ったのだろう。

 だが、それほど日が経たないうちに、直登は不満を口にするようになった。そのクラブは小さな子が多く、遊びのような練習しかできなかったからだ。本格的なクラブに入りたがっていたが、いろいろな都合で無理なのだった。

 それでも僕たちは夢を見続けた。二人で練習にはげんだ。平日も、広場で時間を忘れてボールを追いかけた。陽が沈みかけ、辺りが暗くなりはじめて、仕方なく家路につくとき、空は赤やオレンジで、雲が暗い灰色になりかけていて、風は少し冷たくなっていて、急ぎ足で、それでもそのとき一番大切なことを熱心に話したりして、なんだかわからないけれど気分が良かった。

 僕の一番幸せなときだったのかもしれない。

 直登は、トレーニングシューズがぼろぼろになっても、穴が空いていても、それをはき続けていた。直登の母親の収入では、サッカーの道具を十分に揃えることはできず、高額なクラブの会費など払うこともできない。

 小学校の高学年になるころ、直登はサッカーをやらなくなった。いろいろな事情がわかってきたからだ。

 僕もサッカーをやらなくなった。

 変わりに、直登は車に興味を持つようになった。道を行く車のメーカーや車種や名前を嬉々として教えてくれるようになった。残念ながら、僕はそこまで好きになれなかったけれど、年式だのカスタマイズだの嬉しそうに語る直登につきあうのは嫌ではなかった。

 中学生になると、直登の興味は現実的になってきて、将来は車に関係する仕事につくのだと話すようになった。そういう方面の学校や仕事の情報も調べているようだった。

 それが働きづめの母親のためだということは、誰の目にも明らかだった。

 直登は、すごい。

 じいちゃんとキクエさんに過保護に育てられて、毎日ただぼんやりとすごしている僕とは違う。直登は僕のヒーローだった。そんなことは、本人には言えないけれど。


 僕を育ててくれたのは、祖父母だ。じいちゃんと、キクエさん。キクエさんは、なぜか名前で呼ばないといけないことになっていたから、小さい頃からそう呼んでいる。

 キクエさんが明るくて元気なのに対して、じいちゃんは寡黙で、恐い人だった。同じ家に住んでいるというのに、会話らしい会話をしたことがない。なにかといえば怒られた記憶しかない。それでも、死んだ両親にかわって大切に育ててくれたことは間違いないから、僕はじいちゃんに反抗はできなかった。

 両親は、僕が生まれてまもなく、自動車事故で死んでしまった。顔も知らない。家には両親の写真はなかった。おそらく両親とじいちゃんはあまりうまくいっていなかったんじゃないかと思っている。じいちゃんの頑固ぶりをみれば、良好な人間関係を築くのは難しいことがわかる。

 それにしても、写真すらないという徹底ぶりだ。だから、僕は両親のことをきけないでいる。じいちゃんのいないときに、キクエさんにきいてみたことがあるが「ごめんね、そのことは……」と、困ったような顔をされてしまった。やっぱりきいてはいけないことなのだった。

 世間的には、両親がいないことは「かわいそう」なのだと、今ではわかる。でも、僕にはいまいち実感がないのも確かだ。だって、僕にとっては、最初からいないのと同じなのだから。じいちゃんとキクエさんは、僕を普通に育ててくれた。それ以上でも、以下でもない。



 

 

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