第7話 嘘のようだが本当だ

「この道を……真っすぐ行けばいいのよね」


 バスを降りたミサトはスマホの画面と周りを交互に見比べた。何か目印になりそうな建物でもあればいいが、地図アプリ上に表示されているのは何もない灰色の平原と何本かの道路だけだった。少し離れたところに小さな浅間神社があるようだが、ここからは見えるのは畑の中でポツンポツンと島のように点在している弱い日差しを反射する林だけだ。おそらくあのどれかがその神社なのだろう。


「とにかく、この道を行けば看板が出ているって言ってたわよね」


 とりあえず歩く。バス停を降りて十二、三分も歩けばたどり着くはずだとナビは言っている。が、見える範囲には畑が続いていた。


 本登田小の学区は広く、駅からかなり内陸に入った隣の区境までがそのエリアだ。この辺は古くから畑や田んぼをやっている家が多く、数軒ごとに塊になった家と家の間も農地によって隔てられている。


「やっぱり車で来ればよかったかな……」


 普通に考えれば本登田の方に来るなら車を使いたかったのだが、普段は電車で通勤しているトミオにたまたま今日は現場に直行する出張が入ってきて車を取られてしまっていたのだ。駅から住宅地の方に向かうバスは一時間に何本も出ていたが、本登田方面へのバスは一時間に一本程度だ。そういえば、本登田小の人たちって帰りはタクシーか代行呼んで乗り合わせて帰ってたよな、これはバスで帰るの辛そうだし、そもそもバス早く終わっちゃうだろうしな、だからあの人たち二次会でも最後までつるんで残ってたんだ。ミサトは一月にあった区P連の新年会のことを思い出していた。


「あれだ、小金沢工業所」


 ゆるい右カーブを抜けたところで、ミサトの視界に立木に隠れた大きな看板の一部が現れた。看板に書かれた「小金沢」の文字が見える。だが、ミサトがその看板が尋常でないことに気づくまでにそう長い時間はかからなかった。まずはその看板を縁取っているLEDと思われる赤い照明が縁取りを走り抜けるように点滅していること。そして、徐々に全容を現してきたその看板が、工場の看板のはずであるにもかかわらず巨大な顔写真であることに気づいたからであった。マイクを握ったその顔写真の人物は、お坊さんのようにつるっと剃り上げたような頭を載せた人懐っこい笑顔、鱗のように艶やかなスパンコールで飾り立てた真っ赤なタキシードで、人の背丈の倍以上もある巨大な看板いっぱいにそのご尊顔を盛り付けている。その看板はつつましげな町工場の看板などではなく、ローカル局のカラオケ番組の常連のようなコッテコテのムード歌謡のシングル盤を宣伝する看板だった。


「本登田ブルース 小金沢昭一(小金沢工業所)」


 ミサトはしばらくあっけにとられて看板の前に立ち尽くした。少なくとも目的地がここで間違いではないことはわかったが、もうここで引き返したくなる気持ちを押さえ込むのに時間がかかったからだった。


「こんにちは、ご連絡差し上げた名矢文小の鳥居です。小金沢さんいらっしゃいますか?」


 意を決して工場に隣接したプレハブのインターホンを押すことができた。何しろ、事務室と思われるそのプレハブの窓という窓には赤いタキシードに身を包んで斜め四十五度の流し目にいかにもなフォトショップでボカシと星をてんこ盛りにした「本登田ブルース」のポスターがまるで選挙事務所か何かのように目いっぱいに貼り重ねられていた。おそらくここが事務室で間違いないのだろうとは思うが、およそ人の気配を感じられう要素はなく、ドアの脇のポストからはポスティングされたフリーペーパーや建売住宅のチラシが無造作ににょきにょきと生い茂っている。


 インターホンの反応はない。室内に人の気配がしないかと事務室のドアのモールガラスに顔を近づけて奥を覗き込んでいたミサトは背後の人物の気配に気づいた。


「――♪嘘のようだが、本当だ 本登田ブルース♪」


 振り向いたミサトの前に、中肉中背の五十絡みの中年が立っていた。それだけであればさして珍しいことではないし事前の予想の範囲内であろうが、普通でないのは、その中年の男がスパンコールを縫い付けた真っ赤なタキシードに身を包んでいたこと、そして五十年前の芸能界から伝統芸能を継承したかのような昭和テイスト溢れる歌を口ずさんでいたことだった。



 本登田ブルース。町工場の経営で小さな財を成した中小企業の社長が、税金対策を兼ねて自社工場をスタジオブースに改装し、最新鋭の録音機材を買い揃え、自らが作詞作曲した昭和歌謡を一流のプロミュージシャンに演奏させ、地元ローカルのケーブル局の放送枠を毎週五分間買い切ってプロモーションビデオを放送した、千葉市民であれば一度は聞いたことのあるご当地ソングである。そして、ロックで成り上がって天下を取った何処かのミュージシャンとは逆ルートで、ありあまる経費を湯水のようにお金をつぎ込んだプロモーションの甲斐もなく当然ながら在庫の山を築き上げた伝説の「上がり成り」ストーリーに彩られた迷曲「本登田ブルース」は、一部の音楽ファンの間でカルト的知名度を得ながらも、だぶついた在庫を背景に一枚一〇〇円で投げ売りされているのであった。



 本登田ブルース


(Aメロ)

 所詮この世は嘘まみれ

 信じられないことばかり

 だけど信じてほしいんだ

 僕の本当の真心を

(Bメロ)

 巷の恋歌震えてばかり

 軽くて浅くて薄っぺら

 男の人生背中で歌う

 本当のブルース聞いとくれ

(サビ)

 嘘のようだが本当だ 本当のようだが嘘なのさ

 男と女は騙し合い でも僕の真心信じておくれ

 嘘のようだが本当だ

 本当だ 本当だ 本登田ブルース



「あの、はじめまして、メールでご連絡差し上げました名矢文小PTAの鳥居です。今日はお時間をとっていただきありがとうございます」


 事前に予想していなかった小金沢の風貌に戸惑いつつも、ミサトは律儀にも九〇度近く深くお辞儀した。


「あなたが、鳥居さん? こんな不便なところまでよく来ていただきました。今後もよろしゅう」


 ミサトの前に差し出された袖口から一五センチほどまでに銀ラメが施されたタキシードの腕。奇っ怪な風貌に目を奪われなければ、親指の付け根辺りが分厚く盛り上がったゴツゴツした手からは永年の機械仕事で染み込んた切削油が香るような職人の年季が伝わってくるに違いない。もしも普通の作業服を羽織っていたりしたのであればだが。


「――で、鳥居会長さんとしてはどうしたいわけ、その高なんとかさんの鼻を明かしてやりたいってことなの?」


 くたびれた応接セットで足を組み、並んだ魚偏の漢字も消えかけた寿司屋の湯呑みで緑茶をすすりながら話を聞いていた小金沢は尋ねた。


「いえ、鼻を明かすとかそういうつもりじゃないんですけど、とにかく、なんというか、こうモヤモヤして仕方ないんですよね。PTAへの入会が保護者の任意の判断になるのか、そのことをすっきりさせたいというか……。それで、小金沢さんがPTAのことを色々とお詳しいと聞いたものですから」


「そうですか。そう言えば、最初にうちの看板見てびっくりしませんでした?」


 小金沢は窓の方を見た。とは言え窓という窓にはポスターが敷き詰められていてほとんど外は見えなかったが。


「ええ、すごい……ですよね、小金沢さんは昔から歌手を目指されていたんですか」


「あれはね、まあ今となっては年寄りの道楽なんだけどね。昔、若い頃は本気で歌手になりたくてね。レコード会社のオーディションなんかも受けていたんですよ。結構いいところまで行ってね。もちろん、すぐにデビューなんて話にはならなかったけど、ある作曲家さんに気に入られてね、よければ付き人にならないかって、まあボーヤだね、そんな話があってね」


「すごいじゃないですか。それで東京に出られたんですか」


「いや、自分でも迷ってね。もしかしたら一生付き人で終わるかもしれないわけでしょ。それで踏み切れないでいたときに、この工場をやってた親父が倒れてね。まあ後になって体調も戻ったんだけど、そのときは社員も食わせなきゃならないってことで、付き人の話はなしになったんだ」


「その後、会社を大きく成長させたんですね」


「そのときは工場を潰さないようにってがむしゃらにやってきて、その結果会社も大きくできたんだけどね。でも、この歳になって思うこともあるんですよ、あのとき、親父のことを、工場のことを口実にして、俺は自分から逃げたんじゃないかってね」


「そんなことないですよ」


「いや、人から見たらそう見えるよ、歌手だなんて何言ってるんだってさ、堅実に家業を継ぐのが一番だって。でも、あの時の自分はせっかく掴みかけたチャンスを目の前にしてビビって逃げてしまったんだ。踏み出せなかったんだよ、大事な一歩が」


 小金沢は背もたれに身を沈めて遠くを見た。


「だからね、工場も大きくして、親父も死んだときにね。とりあえず親父への義理は果たしたぞって思ってね。もう一度自分のために踏み出そうと思ったんだよ。あのときに踏み出せなかった一歩をね」


 ミサトの目に、夢を目の前にして躊躇う若き日の小金沢青年が一人部屋で鬱々と悩む姿が浮かんだ。


「ときに鳥居さん」


 小金沢は身を正すとミサトを両の目で見据えた。


「あれでしょ、あなたも答えは自分ではわかっていたんでしょ? すっきりさせたいのは答えがほしいとかそんなんじゃなくて、自分の中では答えが出てにたにもかかわらず、周りに押し切られて流されて、その高なんとかさんに図星を突かれたってことなんでしょ。そんなの何調べたって誰に聞いたって解決することじゃないじゃない」


 普段はコミカルに見える真紅のタキシードの上にちょこんと載せられた丸いつるっぱげの頭が、まるで風格のある袈裟に身を包んだ高僧が教えを説いているかのように格調高く見えた。ミサトは警策で肩を打たれた修行僧のようにピッと姿勢をこわばらせる。


「まあとにかく、一歩踏み出してみることです、逃げ回っても解決しないですよ。あとで後悔するよりも、一歩踏み出してから後悔したほうが何倍もマシです。だから、その高なんとかさんにもう一度会ってみるといいですよ。まずはそれからじゃないですか?」


 やっぱり、そうか――。ミサトは自分でも先送りにしていたのだ。高田に会うことを。


「あの……、小金沢さんは高田さんのことをご存知なんですか。何だか椎名さんも知り合いっぽいことを言っていたので」


 小金沢はおやっという顔をはぐらかすように大げさに剃り上げた頭から顔を撫で回した。


「――んん、最近歳のせいかね、市Pを離れてから物忘れが酷くてね。もしかしたら会ったことのある人かもしれないけど、当時のことはあんまり覚えてないね」



 蛇のように細い舌がいたずらっぽく口元からのぞいた。

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