第5話 拍子抜け

「こりゃあ降ってくるかもしれないですね」


 昇降口でノートに入校記録を書いていたミサトに技能員のマサトが事務室から話しかけてきた。背も高くスポーツも得意なマサトは「イケメン技能員」としてお母さんたちからの人気も高い。が、普段からちょくちょく学校に来る機会の多いミサトにとっては、外見よりもむしろ普段のちょっとした気遣いができるマサトは「性格イケメン」だった。今日も、総会に来てくれる保護者のことを気にしてくれているのだ。


「そうね。天気予報だとギリギリ夕方まで保つかもって話だったけど風も強くなってきたし心配ね」


「アリーナの傘立ても足りなくなっちゃうといけないから昇降口から回しておきますね」


「ありがとう。助かるわ」



 名矢文小学校PTAの総会は例年四月第四週の金曜日だ。実際には委任状を提出する欠席者が多いのではあるが、それでも百人以上の保護者が出席する場であり、新年度の役員から予算から重要事項のほとんどを決める場であるので総務の役員の中には前夜なかなか寝付かれず顔色の悪い者もいるほどである。


「よく寝れた?」


「まあ大丈夫ですよ。それより一番心配なのは会長なんじゃないですか?」


「大丈夫よ。昨夜はぐっすり寝すぎて寝坊しそうになったくらいなんだから」


 気が張っているせいか役員の前では元気に振る舞えるが、それでもやはり心配はミサトの胸から離れなかった。もちろん、みんなの応援は励みになったし、質問状とにらめっこしながら何度も頭のなかでシミュレーションはしてきた。それでも気は重いものであった。



「高田さんってどの人かな、わかる?」


「あの人ですよ。ステージから向かって左側の席の三列目のパーカー着てる人」


 ステージ袖の覗き窓からトモコが指を指した。歳の頃は四十代後半といったところだろうか。少し後退した額に軽いウェーブがかかった髪を載せた、いかにも人当たりの良さそうなお父さんといった感じだ。


「もっと怖い顔している人かと思った」


 ミサトが胸に手を当てる。


「会長、そりゃ先入観持ちすぎですよ。でも人は見た目じゃわからないって言いますからね、気をつけてくださいよ」



 準備のかいあって、総会そのものは順調につつがなく進行していった。


「会長、雨ですよ」


 前年度決算が承認され、執行部が一礼したところで教頭がミサトの肘を突付いた。


「やっぱり保ちませんでしたね」


 気のない相槌を打ったミサトはすでに緊張で上の空だった。おそらく質問が出るとしたら議事の最後の「その他」のところだろう。ミサトは緊張を紛らわそうと資料の周りに何度となくボールペンと蛍光ペンの位置を並べ直した。


「――では、議事6の新年度予算案についてはご承認いただいたものとさせていただきます。最後に『その他』としまして何か質問がございましたら挙手をお願いいたします」


 最後の質疑に入った。ミサトはすうっと大きな息を吸い込むと祈るように目を閉じた。


「はい」


 一呼吸見合わせたあと、さっと一人だけ手が上がった。


「高田と申します。本会の運営に関して何点かご質問させていただきます」


 来た。ミサトたちは待ち構えていたように質問状のコピーにメモをとるためのボールペンを構えた。


「まず、本会への入会についてですが、二月に開かれた入学予定者説明会のときにPTAについての説明はありましたが、PTAには入会しなければならないのかどうかといったことについてのご説明がなかったように思います。当然配布資料にもそのようなことは書かれていませんでした。そこで、PTAへの入会は強制なのかどうかについてお伺いしたい。また、入会に当たってですね、普通ならばフィットネスクラブにしてもレンタルビデオ屋にしても入会申込書みたいなものを書いて申し込みをすると思うんですが、少なくとも私の知る限り、まだPTAの入会申込みをした記憶がないのですが、そういうものはいつ書くようなことになっているのでしょうか、以上について教えていただきたい」


 いかにもクレーマー然としたような強く問い詰めるような口調ではなく、高田はまるで医者のような静かな口調で淡々と問いただした。


「はい」


 ミサトは準備していたメモをもう一度一瞥するとその場で立ち上がりマイクを受け取った。


「ご質問ありがとうございます。ただいまPTAへの入会の手続きについて二点ご質問をいただきましたが、まず、お手元にお配りしております名矢文小学校PTAの会則をご覧ください。こちらの第六条に本会の会員についての規程がございまして、ここで、本会は『名矢文小学校に在籍する児童の保護者及び教職員をもって組織する』と決められております。このことから、本校の保護者と教職員の皆様におかれましては、子どもの入学や人事異動の時点をもって自動的に本会に入会していただいているものと認識しております。このため、入学予定者説明会におきましては皆様全員に本会に入会していただく前提をお話をさせていただきました。また、特段の入会の手続きも不要であると考えています」


 ふう。用意しておいた原稿を一気に読み上げてミサトは体中から力が抜けた気がした。本当にこれでいいんだろうか、昨夜も考え始めると止まらなくなってしまい、なかなか寝付かれなかったのだ。


「質問者の方、まだ何かございますか」


 台本に従って議長が会場に質問を振る。高田は即座に手を上げた。


 まずい。ミサトは全身をこわばらせて会員たちの頭の波間から屹立する腕をじっと見つめた。次の質問、つまり会則の解釈について異議を唱えられたらどうするか、立ち往生しちゃうんじゃないのか。どうする、私?


「あの……、ご回答ありがとうございました。ええ、会則によれば本校在籍児童の保護者を会員とする、となっていることから自動的に私たちは会員になるというようなご説明であったかと思います。たしかにそういう読み方もできなくはないとは思うのですが、一方でこれは会員になることができる『資格』を表しているのではないかと私なぞは思うわけではありますが、いずれにしましても私自身は入会の意思があるわけですし、執行部の皆さまがそのようにお考えであるということがよくわかりました。ありがとうございました。質問は以上です」


 え? それで終わり?

 事前に質問状を送りつけてくるような周到さにもかかわらず、高田は二の矢三の矢を放つことなく、追撃の手を引っ込めてしまった。もちろんミサト自身ほっとする気持ちはあった。でもこれでよかったんだろうか。



 総会はその後何事もなく進行し、新年度役員が勢揃いして抱負を述べてシャンシャンとすんなり終わってしまった。


「お疲れ、がんばったね」


 アスミがミサトの背中を叩く。ミサトは相槌もそこそこに三々五々席を立って帰ろうとする会員たちの人混みを目で追っていた。


 いた。アリーナの出口で渋滞にはまっている先程のパーカーの背中を見つけると、ミサトは足早に追いついた。


「高田さん! ちょっといいですか?」


「あ、会長さん、お疲れ様でした。変な質問しちゃって悪かったですね」


 高田は特に人懐っこい性格ではないのかもしれないが、こういう場に場馴れしているような、そんな雰囲気で振り返った。


「さっきの質問なんですけど、高田さん、本当は次の質問をすることができましたよね、会則に書かれているのは会員になれる資格なんじゃないかって。なんで質問しなかったんですか?」


 高田はおっという顔をすると刑事コロンボがするようなわざとらしいジェスチャーで頭を掻いた。


「いえ、ウチのカミさんがね、あんまり波風立ててくれるなって言うんですよ。これから新しい学校でクラスのお母さんや近所の人たちとお付き合いしていくわけですからね」


「それじゃあ高田さんご本人は納得されていないんじゃないですか?」


 ミサトが詰め寄ると高田は少しの間、天を仰ぐとどこか意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「まああんまり追い詰めても仕方ない、所詮その程度なんだなってことですよ。いつか痛い目見るようなことがないといいですね。それじゃ失礼しますね」


 すっと踵を返すと足早に立ち去っていく高田にミサトはそれ以上声をかけることができなかった。外の雨は何事もなかったかのようにすっかり上がっていた。

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