第3話 小人

 ミサトは林の中を歩いていた。


 葉影の間から丸い月がこちらを見下ろしている。林は薄暗かったがミサトにはどこをどう歩けばよいかがわかっていた。水の流れるようにスイスイと立木を分け入り、何かに導かれるように迷いなく分かれ道に踏み入ったその先にそれはあった。



 秘密のクヌギの木。


 ゆっくりと近づいていく。一歩一歩下草を踏みしめる音が闇の奥に沁み入る。クヌギに対峙したミサトの目の高さ、龍の鱗のようにゴツゴツした樹皮が裂けたそこには黒い塊たちがゴソゴソとうごめいている。ミヤマクワガタだ。歳月を経てきた飾り棚の黒檀のような深みのある鞘羽が目まぐるしく反射している月明かりにミサトはしばらく見とれていた。


「さ、おいで」


 注意深く視界の後ろから伸ばそうとした手の先で、ミヤマクワガタは赤い蛇に姿を変えた。月光に鈍く照らされた鱗が滑らかに樹皮を滑っている。クレバスの裂け目のような光のない瞳孔と目が合ってしまう。


 ひっ。


 慌てて手を引っ込め一歩尻込みしたミサトの前で赤い蛇はゆっくりとクヌギの幹に巻き付いていく。幹の左手から向こう側にグルっと回りこんで右手から戻ってきた頭は、カッと赤い口を開き、逃げ遅れた自らの尻尾に食らいついた。幹を取り巻く輪になった蛇は己の尻尾を飲み込んだままウネウネと幹の周りを回転しはじめる。


 こういうの、何ていうんだっけ。たしか、ウロ……。


「そう、ウロボロスさ」


 甲高い、低学年の男の子のような声。キョロキョロと左右を見渡した、誰もいない。


「違う、そこじゃない。ここだ、靴を見ろ」


 慌てて視線を落とした先、靴くらいの大きさの子ども、いや小人がこちらを見上げていた。スルスルと尖った緑の帽子、パンパンの大きなお腹を包み込みこんだこれも緑色の服にはひらひらと大きな真っ赤な襟、そして不釣り合いに大きな赤い革靴。子どもの頃に読んだ絵本の小人がピンと背筋を伸ばしていた。


「終りと始まり、死と再生、そして永遠」


「あれはずっとあのままなの?」


 しゃがみこんだミサトが回り続けている蛇を指差す。


「そうさ、一度輪ができてしまえばウロボロスはずっと尾を呑み込もうとし続ける」


 クヌギの方を向いた小人は右手と左手をぐるぐると時計回りに交差させて回り続ける円を描く。


「解いてあげる方法はないの?」


「あるさ」


 振り向いた小人は右手でその大きなお腹をぽんと叩いた。


「シンプルに考えろ」


「え?」


「シンプルに考えろ。固定観念への執着を捨てなければ同じところでぐるぐると行ったり来たりするだけさ。まずは余計な小枝は払い落としてシンプルに考えるんだ。なあ、そうだろう?」


 小人はクヌギに巻き付いた蛇に話しかける。


「そうだ、執着を捨てろ、目の前のものから一旦手を離すんだ」


 そう言うと蛇は噛み付いていた尻尾を離した。輪が解ける。赤い蛇はスルスルとクヌギを滑り降りてこちらにやってくる。


「そして一歩踏み出せ。速やかに行動しろ。躊躇するのは後からでもできる」


 蛇は小人の横で鎌首を持ち上げ、老師のように説いた。


 小人が後に続く。


「シンプルに考えろ」

「一歩踏み出せ」

「シンプルに考えろ」

「一歩踏み出せ」


 小人と蛇は交互にお題目のように唱え始めている。


 ミサトは気が遠くなるほど延々と続く詠唱を黙って聞きながら、ああそうだ、朝ごはんの味噌汁の味噌を切らしていたんだということを思い出した――。



 味噌!


 ガバッと掛け布団を跳ね上げたミサトは自分が今いつもの寝室にいることを再確認した。


 夢か。壁の時計はもう六時半を指している。朝ごはん作らないと。そうだ、味噌がないんだった。


 その時、ミサトの鼻孔がかすかな鰹の香りを察知した。トミオがいない。


「味噌がなかったんでね、すまし汁にしておいたよ。お豆腐とほうれん草使っちゃたけど大丈夫?」


 トミオはすまし汁のお椀をテーブルに運んでいる。


「ごめんね、味噌切らしちゃってて」


「大丈夫だよ、味噌がなければあるもので作ればいいんだし」


 トミオはそれほど料理が得意というわけではないのだが、ありあわせの材料でなんとなく形になる料理を作ってしまうことができる。


「そういうの上手よね。私なんかあるはずの味噌がないって段階でああどうしようって焦っちゃって」


「簡単だよ、ないもののことを考えたってしょうがないんだから、予定はいったん置いといて、あるもので何が作れるかって考えるだけだよ、できるだけシンプルにね」


 あれ? さっきも誰かとそんな話していたような気が……ミサトが首をひねっている間もトミオは続ける。


「そう言えば昨夜の話だけどさ。あの話ももっと単純化して考えたほうが早いような気がするよ。これから初めてPTAという団体を一から立ち上げようしたらどうするか、とかね」


「じゃあどう考えたらいいの? まず、PTAという団体をこれから立ち上げたいと思います、と」


「そうそう」


「そうしたら誰かが事務局になって、みんなに説明しないといけないわよね、誰も見たことも聞いたこともないとすると」


「そうだね」


「じゃあ説明会を開きますよ、と。皆さん、PTAとはこれこれこういう趣旨でこんな活動します、会員は保護者と教職員です、皆さん参加していただけますか、て聞くわけよね」


「そうだね、そのときに参加したくないって人もいるかもしれないよね、そしたらどうする?」


 トミオは合いの手を入れながら食器と料理をテーブルに並べている。


「そりゃ入ってもらいたいけど首根っこ捕まえて強制的にお金取るわけいかないわよね」


「そりゃそうだ」


「でも待って。PTAの活動の中には親睦だけじゃなくて子どもたちの学習環境の支援も入ってるでしょ。それなのに入会しないなんてずるくない?」


 ミサトの頭を総務の役員たちの顔がよぎった。あの人たちだったら猛ブーイングが来そうだ。


「そこでシンプルに考えようよ。災害現場のボランティア活動の段取りは専門のNPOの人たちがやってるけど、その場で活動しているのはその時だけ集まったボランティアの人でしょ。彼らはNPOの会員でもなんでもないわけだ。じゃあPTAは?」


「そっか、会員じゃないからといって活動に参加できないわけじゃないってことね。運動会の準備や駐車場係も、登下校時の見守りも校門での子どもたちへの声掛けも会員じゃなければできないわけではない。手伝ってもらえばいいんだ」


「そう、あとは会員であっても同じじゃないかな。会員でも手伝ってくれない人、役員になっても活動してくれない人もいるんだからね」


 ミサトの頭のなかを目に見えない線が一本すっと通り抜けたような気がした。それまでは、入会が任意であることを認めてしまうと、ポロポロと櫛の歯が抜けるように入会しないという人が増えるんじゃないかと心配していた、いや、入会が任意であることを認めないことにこだわっていたのかもしれない。でも、子どもたちを支援する活動は、会員であってもなくてもお手伝いをお願いすればいい、手伝ってくれる人は会員でなくても手伝ってくれる、そうでない人は会員であっても手伝ってくれないんだって割り切ってしまえば、入会させることにこだわらなくてもいいんだ。


「これなら、総会で質問が出ても大丈夫かな?」


 ミサトは自信なさげにおずおずとトミオを見た。


「大丈夫、大丈夫。取って食われるわけじゃないんだからさあ」



 そう言うとトミオは大きなお腹をぽんと叩いた。

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